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ファイアーワルツ

作者: サンダー

 星が散りはじめた初秋の丑三つ時。僕はその日中々眠れなくて、書きかけの小説を書いていた。妙に胸騒ぎのする夜で、寝付けずにいる。それが本心だった。その時玄関のチャイムが突然何の予告もなく鳴った。それは動悸をあげる胸騒ぎのするチャイム音だった。こんな夜遅くに来客なんて・・・・。所沢に越してきてから一度もなかった。外では秋の虫が鳴き始めた頃だ。薄暗い廊下を進みチェーンのかかったドアを開ける。何かいるぞ、と思い目を凝らすと、そこには血まみれの由貴子が立っていた。一瞬ドアを閉めそうになった。すると由貴子は右手をドアの間に入れて、この獲物を二度と逃がすものかという顔をチラつかせ「貴司、今何していたの?」とウイットにとんだ声で聞いてきた。

 「今、丁度、紅茶を入れた所だ。君も飲むかい?」目は由貴子に釘付けだ。

 「貴司、私と一緒に死んでくれる?丁度、パパとママを殺して来た所なの。あなたと一緒に死のうと思って来たのよ。ねえ。ねえぇぇ!」僕は由貴子の声に圧倒されて、身動きが取れない。ドアの隙間から見る限り、彼女は狂っていた。そして僕はめいいっぱいドアを内側に引いた。

 「ギャアァァァァー。また、あの女と会っていたんだろ!だから、お前も一緒に死ぬんだよ!貴司!」

 玄関のドアを閉めると、僕は少なくともさっきよりかは、冷静になった。廊下の壁に貼られた、ビル・エバンスのポートレートを眺めながら、深呼吸を一つした。外には由貴子がまだいるに違いなかった。しかし由貴子の叫び声は聞こえない。どうしよう・・・。まず警察に通報しようと思い部屋のドアを開けると、そこに由貴子が立っていた。僕は息が止まりそうになった。頭が真っ白だった。「どうやってここに?」僕はやっとの思いで素直に思ったことを由貴子に聞いた。

 「何の用だ。君に恨まれる様な事は僕はしていない」

 「道連れにしてやる。お前も、パパとママみたいに虫ケラのように死ぬんだよ!」

 そう言って由貴子は持っていた包丁を自分の胸に突き刺した。そして僕に飛びかかって来たが、僕が咄嗟にドアを閉めたため、由貴子はドアに激突して静かになった。こうしてはいられない。近くのコンビニエンスストアに僕は駆け込み、店員に110番を頼んだ。しばらくして、埼玉県警の若い警官が来て、僕に事情を聴いた。僕の知りうる限りのことを、警官に話すと、僕は署に連行された。どうやら強盗殺人の容疑を科せられたらしい。嘘だ、何を言っているんだ。僕は誰も殺していない。全て由貴子がやったことではないか。いくら警察官に説明しても通じない。何かこちら側に落ち度でもあるのだろうか?警察官曰く指紋が、包丁についているという。そんなバカな?僕は由貴子の家の包丁など握ったことがない。何かが狂い始めている。取調室の壁時計が、気味悪くチクタクと部屋の空気を濁らせている。誰かが僕を罠にはめようとしている。恐らくそうに違いない。

 由貴子は僕の部屋で息絶えていたという。部屋に由貴子がいたのは、今にして思えば、寝室のカギがかかっていなかったからだ。由貴子は何度か僕のアパートに来たことがある。部屋の出入り口など一度で分かるはずだ。問題は包丁についた僕の指紋だ。由貴子の家に行ったことなどないのだから、僕には知る由もなく、誰かが僕をはめたとしか考える他なかった。しかしいったい誰が?考えれば考える程、出口が見えない。

 結局、僕はその日のうちに強盗殺人で逮捕された。部屋から由貴子の父の財布も発見された。もう逃れようがない。このまま黙秘しようかと思ったが、僕は来る日も来る日も「事件については何も知らない。僕は犯人じゃない」と言い続けたがそれが通ずる訳もなく、僕は悲嘆に暮れた。一審で死刑判決が出た時には、裁判所に、どよめきと歓声が上がった。「僕は何もやっていないのに」いくら心で反発してもどうしようもなかった。僕についた弁護士も「反論のしようがない」と諦めムードだった。せめて死刑だけにはならないようにしましょうというスタンスだった。これにも僕は違和感を覚えたが、それがいったい「何なのか」ということは、どうしても思いつかない。不思議なもので僕はもうどうでもいいと思ってしまっていた。しかし、ある日妙なことを思いついた。所沢に上京してきて、他人の家で包丁を持って料理したことがある。「まさか、あいつが・・・。」ある女性の名前が脳裏に浮かんだ。次の日弁護士に、あらましを喋った。それは考え過ぎではないかと言われたが、その線であたってみましょうという手応えのある返事をもらった。

 その日の夕方、僕は弁護士と接見した。

 「やはり彼女は怪しいですよ。極めて重要な証拠をつかみました」

 「そうですか。それで彼女はどこにいるんですか?」

 「今は帰郷して、楽器店で働いているみたいです。明日、彼女を訪ねてみます」

 「お願いします」僕は弁護士に一礼して独房へ帰った。季節も年代も分からず、自分の年齢すら分からないまま一週間が過ぎた。

 そしてヤマは的中した。彼女が逮捕されるのにそう時間はかからなかった。

  白いビニール袋が風に舞って、一気に上空へ駆け上がる。みすぼらしい四月が始まった。初めての東京・・・。頼る人は誰もいない。絶賛孤独中である。しかし僕にとっては素晴らしい環境と言えるだろう。実家は岩手の外れにあり、盛岡に行くにも三時間かかる。しかしここは違う。池袋という街は、皆平等に落ちこぼれに見えた。東口では街宣車が歩道の横に着け、右翼らしい人が、扇動して民衆を煽っていた。僕はこれから、所沢市の小手指を目指す。急行だと、三十分程で着くだろうと、高校の担任が教えてくれた。そこへ群衆が僕をなぎ倒そうと改札を通って迫ってくる。喜怒哀楽の民衆は大一団になって僕をすり抜け、あっという間に改札付近は閑散となった。このまま僕は都会の砂になってやがて消えていくのだろうか?そしてその中に溶けていくのだ。そんなことを考えながら下りの飯能行に乗る。車窓には葉桜の緑が鮮やかだった。

 所沢に越してきて一週間が過ぎた。その日も僕は朝早くに目覚めた。朝食を済ませて歯を磨きに、洗面所へ向かう。それから玄関に無造作に突っ込まれた新聞を取り、炬燵の上に放り投げる。タバコに火を着け、片付いていない部屋をぐるりと見て、新聞をパラパラとめくる。宮崎勉の記事をみつけて、読み始めた。たんたんとした、又は理路整然としない、宮崎の供述に腹が立つのを抑えて、宮崎の記事を読み進める。それから思い出したように窓際の砂を指で掬うと、指の跡がついて、砂嵐の凄まじさを事細かに表していた。今日は掃除機をかけよう。そこへ電話のベルがけたたましく鳴った。きっと母だ。僕はとりあえず無視した。それぐらいの事も僕は気にならなかった。

今日は近くのホームセンターへ自転車を買いに行く予定だった。しかしこの雨ではそれも叶わず、とりあえず午前中は部屋の片づけをしようと、取り散らかった段ボールを片っ端から片づけていく。僕は悶々としながら古びたアパートの一室で、ごく小音量で、マイルス・デイヴィスの『ラウンド・ミッドナイト』をかけて、小さい音ながら、これがマイルスですよ、とタバコの箱に手を伸ばす。その当時吸っていた『フロンティアライト』に本日二本目の火を着け、灰色の空から大粒の雨が落ちるのをただ物憂げに見つめていた。

 

由貴子はその日、突然の頭痛で、布団にもぐったまま、起き上がることが出来なかった。雨音が屋根に打ち付けている。自分にのしかかった不幸を受け止めきれずにいると、今は打ちのめされるしか、悲しみを消す方法がないという現実に絶望するしかなかった。こんな不幸を自分が背負うなんて・・・。それにはまだ由貴子は若すぎたし幼過ぎた。社会の不条理を呪うしかない。そんなことに頭を悩ませていると、窓際に置いた勉強机の上にちょこんとのった、ベアのぬいぐるみと、目が合った。まだ就学前の頃にパパにねだって買ってもらった。大事にするからと、泣きながらパパに訴えた記憶がまだほのかに頭の隅に残っている。そんな幼い自分が妙に愛おしくて、自分も今やただの群衆の一人になってしまったことが悲しかった。冷静になると冷たい感情も、今の自分には必要なのだと思える。心の構造が自分の中では古くて新しものが好きということで決着している。天井の木目を見つめながら、自分の歩んできた人生を振り返る。今はただの野暮ったい人間という烙印を胸に押された様だった。

 思い切って布団から起き上がると、急にタバコが吸いたくなった。今の自分の体には、害でしかないタバコ。確か机の引き出しの中にあったはずだ。慌てて机の引き出しを、乱暴に開ける。ここにはない。次の引き出しの中にきっとあるはずだ。「あった」思わず声が出た。新品の封を開けていない赤キャビン。急いで封を開けて、その引き出しの中にあった百円ライターで火をつける。三ヶ月ぶりのタバコにくらくらしながら、タバコの煙を空中へくゆらせる。煙は天井に吸い寄せられるように昇っていき、空中で分解して由貴子の肺へ吸い込まれていく。   窓を叩きつける雨が音を立てて崩れてゆく。地面に落ちた雨はアスファルトを流れ、やがて河口に辿り着く。何もない自分。何か記憶に残ることもない。人生ってこんな簡単に終わるんだろうか?溜息とともに、タバコの煙を吐く。

 今年の一月に慢性白血病と診断されて、在宅の治療が始まった。一年長く生きることよりも、楽しく生きる道を選んだ。まだ一八歳の少女の決断だった。それ以来学校にも行っていない。友達とも音信が途絶えてしまった。毎日が退屈だったが、不思議と死への恐怖はなかった。人はいずれ死ぬのだ。何故か死を前にすると、恐怖らしき恐怖が体から削ぎ落ちたような感覚になる。だからといって楽しい心持ちでいられる訳でもない。こんな心境のまま簡単に死んでしまうのだろうか?死の実感がないと言ったら元も子もないが、明日になれば何か変わるかもしれない。そう思いながらタバコを灰皿へ押し付けて消した。

けっきょく昨日は一日中雨が降っていて、ホームセンターへ自転車を買いに行くことが出来なかった。今朝、目覚めるとカーテンの隙間から日の光が入ってきた。今日は大丈夫そうだ。そう思うと心の底から喜びが湧いてくる。 

今年の三月に定時制高校を卒業して、音楽に携わる仕事がしたいと、定時制高校の先生に相談した。ピアノの調律の専門学校が所沢にあると紹介されて、それまで外装の仕事で貯めたお金と、車を売って、入学金と一年間の授業料にあてた。岩手の片田舎からしたら、所沢は都会だった。都内へ三十分で行けるのだ。もうほぼ東京じゃないか。そう思うのも無理はない。それ程僕の住んでいた街は何もなかった。

ホームセンターの開店は十時。それまで何をすることもなく、ただタバコを吹かして無駄に灰皿に吸殻の山を作った。「それにしても・・・。」関東の四月は暑かった。今日は半袖でもいいくらいだ。それでも長袖のシャツを着ているのは、自分が痩せ細っていて、体の線が出るのが嫌だったからだ。所沢に来る前に、僕は長年思いを寄せていた女性に告白した。結果は散々なものだった。色々なダメ出しも食らった。痩せすぎている。顔が気持ち悪い。タバコを吸う人は嫌だ・・・等々。理由を挙げたらキリがない。僕は当然彼女に思いを寄せていたが、悪口ともとれる、ダメ出しに理不尽と不愉快が入り混じった、複雑な気持ちになり、彼女への思いも急速に冷めてしまった。

過去への呪いを振り切りながら『自転車』に変換することは容易に出来た。ホームセンターへは歩いて十分程である。入学式は四月の中旬で、まだ二週間くらい待たなければならない。早く授業が始まって、調律のことを学びたかった。学校では友達を作る気などさらさらなかった。僕は調律の勉強をするために所沢に来たのだ。

畑と住宅が混在する中をホームセンターへ向かう。今日は風もなく暖かかった。特に屋根と屋根の間に見えるホームセンターの赤い屋根は輝いていた。しかし一抹の不安を拭い去ることが出来ない。人生がこんなに好転するなんて・・・。とうてい素直に喜べない。それは未知なる自分の領域に足を踏み入れたようで、心はよりいっそう不安になった。

自転車を購入してハンドルを握ると、全身をみなぎる血潮が、ハンドルを伝ってタイヤへと伝わる感覚があった。さっきまでの不安が嘘のように消えた。「ただのママチャリなのに」と途轍もないものを手に入れた気持ちになる。ちょっと学校に行ってみようと、ふと思いたちアパートへは帰らずに、学校へ自転車を走らせた。下調べを兼ねて自転車のペダルを踏む。もう後戻りは出来ない。前進あるのみである。

まずは行政道路に出る。車の往来が割と激しい。車道を走るのは危険だと思い、歩道を走った。人通りはさほど多くない。学校への行き方を考えながら前に進む。大きい交差点へ出た時、右へ進むと学校に行けそうだ。そう思いながら、交差点で信号待ちをしていると、女子高生らしい少女が、同じく信号待ちをしていた。髪は肩より少し伸びていて、それはさらさらとそよ風になびいて美しく見えた。少し大きめのトレーナーに、太めのズボン。化粧っけはなく、顔色が悪い。そうしているうちに、彼女はしゃがみ込んでしまった。

「大丈夫ですか?」と声を掛けた。少女はしゃがみこんだまま「大丈夫だから。ほっといて。私、他人に干渉されるのが一番嫌なの」と冷たい声で言った。

「このままほっとけないので、病院に行きませんか。この自転車に乗せていきますよ。だけど、僕は岩手から上京したばかりで、この辺のことが全く分からないので、病院まで道案内してもらえますか。」僕は、彼女を助けるのに必死だった。

「女子高生にそんな気軽に声をかけるもんじゃないわ。私もう死ぬんだから、どうでもいいの」と、彼女は立ち上がって言った。

「死ぬって・・・。そんな簡単に言うもんじゃないよ」

「随分とおせっかいなのね」彼女の髪がそよ風に揺れ、薄日が顔にあたっている。もう死ぬってどういう意味だろうか?次の言葉が出てこない。信号が青になり彼女はさっさと前に行ってしまった。これ以上彼女につきまとう訳にもいかず、僕は横断歩道を自転車を押して歩いた。絶望にも似たあの表情は確かに何か訳がありそうだ。

「ねえ。病院には行かないけど、何か食べに行かない?私、朝から何も食べてないの。良かったらだけど」

横断歩道を渡った所に彼女が立っていた。意外に思った僕は頷いて彼女を見つめた。

「でもこの辺りのことが全然分からないんだけど、僕でもいいの?」いやが上にも気持ちが高ぶる。

 しかし、だ。こんなうまい話がある訳がないと、頭の片隅で思っていると、彼女の方から声をかけてきた。

 「あなた何歳?私よりは年上だと思うけど。私は今年高三。でも、あと何年生きられるかは、今のところ不明なの。こんな暗い話し止めよう」声が上ずっている。その様子を見て僕は何と話していいのか分からなかった。一応年齢だけでも伝えようと思い「二三歳だよ。八月が来れば二四歳になる。岩手から上京してきたばかりで、さっきも言ったけど、この辺のことがよく分からないんだ。この街のことについて、色々と教えてほしい」

 「もちろん。案内は私に任せて。美味しいお店も紹介してあげる。好き嫌いはないのかしら?」彼女は楽しそうに話しかけてくる。そういえば名前を聞いてなかったな?

 「名前・・・教えてもらいたい」僕は愚直に彼女に聞いた。まだ太陽は、南東にある。お昼までは、自転車を漕ぎたい。しかし僕だけの希望を言うのは大人げないかな?

 「由貴子。西野由貴子と言います」今さらかしこまるのがおかしくて、僕は「礼儀正しいね」と素直に言い「山田貴司です。字にするとこんな感じ」僕はポケットにいつも乱雑に入れたメモ帳に、名前を書いて由貴子に見せた。

 「あっ。貴司君の貴と由貴子の貴が同じ漢字だ」由貴子はさっきのメモ帳に名前を書き、ニコリとして「偶然、すごい」と楽しそうに笑った。僕は由貴子に、かわいらしさを感じた。自分より五歳年下になる。でも恋愛感情とは違う、何と言っていいのだろうか?由貴子の兄になったような感じだろうか?それとも・・・。愛情にも似た何かかもしれない。卒業式の失恋以来、僕はしばらく恋はしないと思っていた。しかしひょんなことから、偶然の出会いによって僕らは人生の渦に巻きこまれ、凄まじい勢いで太陽に吸収されていくようだった。

 「良かったら、自転車でちょっと走らない?」

 「いつも急に聞いてくるのね。別にいいけど、どこに行きたい?案内ならまかして」由貴子は会った時よりは打ち解けて楽しそうだ。

 「実は今日自転車を買ったばかりなんだ。そこのホームセンターで。だから自転車を漕ぎたい欲がすごくて」僕は恥ずかしそうに笑って頭をかいた。

 「そうなの?今時珍しいね。自転車を買って喜ぶ大人。あなた以外に見たことないわ」由貴子の顔に血色が戻ってきたように僕は感じた。きっと彼女は寂しいのだ。誰とも繋がりがなくて、だから死ぬと言っているのだ。その時はきっとそうだとばかり思っていた。しかしそれが後々否定されるとは心にも思っていなかった。

 太陽のプリズムが南に伸びてきた。暑すぎる・・・。僕はシャツを脱ぎTシャツになる。痩せた体が恥ずかしいなどと言ってはいられない。僕は小枝のように痩せ細った腕を由貴子の前にさらけだした。それに対して由貴子は何も言ってこなかった。田舎にいたときのように、意地悪を言われると覚悟していたが、割りと由貴子はそのことをすんなり受け入れてくれたようだった。

 「いくら食べても全然太らないんだ。惨めな程痩せているけど」僕は言い訳がましく由貴子の顔を見た。

  「そんなことを気にするのね。別にいいんじゃない。人それぞれなんだから」由貴子は僕の体に嫌悪感を抱いていないようだ。その日は近くのレストランで食事をして別れることになった。別れ際、電話番号と住所を交換した。次の日も会う約束をして別れた。次の日待ち合わせ場所に由貴子は現れなかった。一時間程待っただろうか?ただのからかいだったのかもしれない。けっきょくその日由貴子が現れることはなかった。由貴子の家である重大な出来事が起きているとも知らずに、僕は家路に着いた。

 それから二週間程たって、僕は専門学校の入学式を済ませた。授業も始まって、由貴子のことを忘れかけていたそんなある日の夜に、由貴子から電話がかかってきた。由貴子は開口一番「今、入院しているの。あの日家で倒れて救急車で運ばれたのよ」

 寝耳に水だった。僕の心臓はいやが上にも高鳴った。

 「それで今はどこに入院しているの?」

「西埼玉国立病院。貴司君の家からだったら、自転車で十分くらいかな」由貴子はそう言った後咳きこんで僕の心に暗黒の地球を思わせた。

 「大丈夫?あまり無理しないで。面会って出来るの?」僕の声は震えていた。自分でも分かったから由貴子にも声の震えが伝わったかもしれない。それにしても何故入院したのだろう。「私死ぬの」という言葉が春の蒸し暑い空気にリフレインする。

 「まだ面会は出来ないけど、来週には退院するのよ。だから詳しいことは退院してから、貴司君に会って説明したいの。だからあまり心配しないで。」由貴子は気丈に振る舞い、僕の心を解そうとしているのが痛い程分かった。僕は言葉に詰まり次の矢が出てこない。そしてやっと言えた言葉は「分かった」の一言だけだった。窓からの月が心なしか寂しく見えた。薄暮の夕闇にそれは焦点をずらすように浮かんでいた。少しの沈黙を破り由貴子が「じゃあまたね」と言って電話を切る。僕は受話器を耳にあてたまま呆然と夜の静寂に耳を澄ましていた。由貴子に何か重大な病気があるのは、いくら呑気な僕にも分かった。泣いてはいけない。泣いたら僕は正気を失ってしまう。そう思いながら夜は僕を蚊帳の外に置いて暮れていった。

それから一週間たって、由貴子から電話があった。僕は覚悟をしていたが由貴子の口から出た言葉はそれ以上のものだった。

 「私、貴司君と会った夜に、自殺未遂して病院に運ばれたの。もう生きているのが辛くて・・。白血病を発症してからもう四ヶ月でいつまで生きられるか分からないのよ。私、もう生きているのが辛過ぎて死にたくなったの」由貴子のすすり泣く声が部屋に響いている。

 「由貴ちゃんの気持ちが痛い程分かるよ。無理しなくていいから、焦らないで、ゆっくり治そう。僕は由貴ちゃんの力になりたい」果たしてその言葉が由貴子に響いたかは微妙だったが、僕は白血病が治る病だと思っていた。死を望んでいる彼女に、何と言葉をかけていいかが分からない。でもそれを由貴子に感じ取られてはいけない。由貴子の人生はまだ続くのだから、僕がその1ページに彩りを与えられたら、どんなに気分がいいだろうか。僕は波の揺れるような、そんな心持ちになっていた。由貴子を救いたい一心で次の言葉が出た。

 「自転車で所沢の名所を旅しない?余計なことは部屋に残して、自転車旅に出かけようよ」勝手な物言いだったが僕はそれでも構わないと思った。なぜなら由貴子の今の精神状態なら多少無理をしてでも外に出た方がいいという間違った見識からだった。

それでも二人の思い出を作ることによって、由貴子の状態が良くなるのではないかという、愚かにも淡い期待を抱いていた。しかしそれが功を奏して、由貴子の病状はみるみる良くなっていった。梅雨が明ける頃には、由貴子はだいぶポジティブになり、誰にも負けない明るさを備えるようになっていた。僕はそんな由貴子が眩しくて、自分の凡庸さを嫌という程感じた。しかしそんなことはどうでもよかった。由貴子の回復が何よりも嬉しかったし、自転車で色々な所を回れたのは二人の人生の収穫になったのは確かだった。

 

 七月の半ばを過ぎて、長い夏休みが始まった。相変わらず友達は出来なかったが、煩わしい人間関係に頭を悩ませることもなかったし、ピアノの調律の授業にも集中出来た。

 夏休み中でも調律用の練習台のピアノは解放されていて、僕は毎日調律の練習に明け暮れた。練習用のピアノは各々の個室にあって、防音装置が付いている。だから室内では他人の調律をしている音はほぼ聴こえない。中には調律をしないでただピアノを弾いている者もいた。不純だと思った。そんな弱い精神で調律師を目指せるものか?僕はその複数の生徒に嫌悪感を抱いていた。音大を卒業して就職先が決まらず、調律の専門学校に来る流れ者など、そんな不純な思いで調律師になれるはずがないと一方的に思っていた。そして彼らは案の定、夏休みが終わると一人として登校して来る者はいなかったのだ。

 夏休みは、由貴子に毎日会える。僕はある時から由貴子のことが好きになっていた。もう付き合っているようなものだったが、由貴子が僕のことを好きかどうかは分からなかった。しかしそんな浮ついた気持ちでいた僕に、焼夷弾の破片が胸に突き刺さるような出来事が突然起きた。電話の呼び出し音が轟音のように夜中の二時に鳴り響いたのだ。

 「もしもし、貴司君ですか?」知らない女の人の声だ。

 「こんなに遅くにすみません。由貴子の母親です。あなたのことは、よく由貴子から聞いています。それで電話しようかどうか迷ったんだけど、また由貴子が自殺未遂をして。私たちも誠意を尽くして、接しているんだけど、何かと衝突することが多くて、もう由貴子の体だけが心配で。お父さんと相談して、今回の件は貴司君に連絡しようと決めたんです」由貴子の母親は歯切れが悪かった。僕は本当に由貴子のことを心配しているのか?と不躾な質問をしたが、母親の答えは「もちろん。当たり前じゃないの」と、どこかよそよそしかった。

 「それで由貴子はどこに入院しているんですか?」僕はまた不躾に母親に聞いた。

 「それは・・・。市内の精神病院に入院しているけど。一時的なことだと言っていたから、一週間程で退院出来ると思います。その時はまた電話を致しますので」由貴子の母親は急に丁重な口調になり、他人行儀になった。僕はあくまでも他人である。しかしお前らよりは由貴子のことを、真剣に愛している。確かな自負が僕の中にあった。

思い返してみると十日程前になるだろうか?僕らは七月の蒸し暑い暑さの中で結ばれた。それは二人の遠い記憶の秘めごとのように感じられた。由貴子の白い乳房を見た時、僕は言葉では言い表せない、若い血潮を体中に充填し、由貴子はそれを素直に受け入れてくれた。愛のわだかまりが終わると、由貴子は恥ずかしそうに「今、幸せをかみしめているの」と、僕の腕の中に抱き着いてきた。クーラーのない部屋は暑く、その後二人でシャワーを浴びた。シャワーの水滴が淡い水色に見えたのは、僕の錯覚だったのだろうか?由貴子は寂しそうに「もう帰らなくちゃ」と言った。その夜、部屋に取り残された僕は、所沢に来て初めて孤独を感じた。

屋根から太陽が部屋に侵入してくる。クーラーも扇風機もない部屋は地獄の窯のような暑さに違いないと思われた。由貴子の母親から電話をもらって丁度一週間。この日を僕は待ちわびていた。由貴子の母親の情報が本当なら今日、由貴子から電話がかかってくるはずだ。朝から僕は電話の前に陣取りバケットと牛乳の紙パックを両側に置いて、一日がかりで電話を待つことにした。午前中、電話はかかってこなかった。退院の手続きで忙しいのだろうと、冷静にその場はやり過ごした。午後の三時を過ぎた頃には、さすがに遅すぎやしないかと、頭をかかえた。夜の七時を過ぎた頃、いても立ってもいられず、由貴子の家に電話をかけた。

「もしもし。山田ですけど。由貴子さんは退院されましたか?」

「貴ちゃん?今部屋に繋ぐからちょっと待ってて」由貴子の慌ただしい声が遠いイスラム国のコーランのように響く。

「ごめん。退院の電話もしないで。私、パパを殺そうとしたの。それから自分が怖くて・・・。自分の中にそんな暴力性があるなんて思ってもみなかった。だから現在、人間不信で誰とも話をしたくないの」

「そういうことか・・・。それでお父さんに怪我はなかったの?」

「それは幸い、傷つけることもなくーでも私はそんな自分が許せなくてーそれでまたリストカットを・・・。」

「もう話さなくていいよ。由貴ちゃんが苦しくなるだけだから」部屋の蛍光灯が音を立てて点滅している。目障りな小さな羽虫が蛍光灯めがけて特攻して墜落していく。由貴子が父親をー僕らの間では話題にすら上がらなかったーその父親との関係はどうなっていたのだろうか?どういった人物なのかは知らないが父親を殺そうとは、また厄介なことを・・・。

由貴子との電話を切ると、急に虚無感に襲われた。考えないようにしても考えてしまう。それは振り子のように気の済むまで右に左に揺れた。今夜は何をして過ごせばいいのだろうか。思いつかないし思い出せない。そういう人生の機微に彩られた部屋は灰色に染まっていた。僕にはどうにも出来ない。確かに由貴子は白血病という現代の医療ではどうにも出来ない病気だ。それは由貴子に同情する。由貴子には何の落ち度もない。しかし父親を殺そうとしたこと。それには同意出来ない。僕は急速に由貴子への思いが冷めていった。

そうだ。長内に相談しよう。長内なら僕の今の心境を親切に聞いてくれそうだ。僕は慌てて長内の番号をプッシュした。僕の未成熟な感情が由貴子を裏切ろうとしていた。

「もしもし、長内?良かった、起きていて」

「まだ寝るわけないだろ。まだ九時だぞ。私を何歳だと思っているんだ?」

「まあ戯言はいいから話を聞いてくれ」

「私、山田のお母さんじゃないよ。そんな気やすく電話をしてくるな。仮にも一八歳のうら若き乙女だぞ」長内の声を聞いて僕は正直救われたような気がした。長内は専門学校で出来た唯一の友だちだった。彼女も同じ岩手県出身で、確か一関市周辺だと思った。それがどう作用しているのかは分からないが、長内とは妙に馬が合った。周囲から夫婦漫才とからかわれたりもした。 

「また由貴ちゃんのこと?今日退院したんだろ?何か言われたのか?」受話器から長内が喉を鳴らす音がした。また酒を飲んでいるのか?「未成年」と心の中でツッコミながら、明滅する蛍光灯と、砂にまみれた北向きの窓。廊下の壁に貼られた、エバンスのポートレート。静かな夏の夜が急に騒がしくなったように耳鳴りがした。

  「山田、聞いているのか?おい山田」一瞬の耳鳴りの後、長内の声が聞こえた。

  「由貴ちゃんと喧嘩でもした?」

  「長内・・・。お前、父ちゃんと仲いいか?」僕は信じられないくらい低い声で言った。

  「パパと?どういうことだよ?私がパパと仲悪いのを話さなかったっけ?」長内の声は不審に満ちている。長内に聞きたいのはそういうことじゃない。                                

「ごめん。長内に聞きたいのはそう言うことじゃない。それはある種の予感だった。由貴子がまたいつか自殺をするんじゃないかと心のどこかで思ってしまっていたんだ。俺、すごく家族仲が悪くて、親も兄弟姉妹も皆、他人行儀というか。だから人をまともに愛せないと思う。由貴子は特別だと思っていたけど、けっきょく僕から随分遠くの方へいってしまった。何とも表現しがたいけど」

「それは私もそう思う。嫌いだけど、育ててもらった恩もある。でもそれ以上に恐怖もある。パパの顔を見るのも嫌な時期が確かにあった。でもそれって思春期の一種の病理だと思っている。思春期をもう二度と味わうのはごめんだ。十代ってそういうものじゃないのか?山田は違った?」僕はタバコに火をつけた。心のどこかで由貴子を裏切っているのではないかという、思いを拭い去ることが出来ない。自分に言い訳するように長内には異性という緊張感がないということが由貴子への唯一のいい訳だった。由貴子と話すよりどんなに楽なことか?ふと、そう思い、その言葉をかき消す。でも・・・。由貴子のことが嫌いな訳じゃない。いつも何とも言えない緊張感があった。それが苦痛ではないと言ったら噓になる。

「思春期はもうごめんだ。親ともめるのもめんどくさいし。由貴子もそうとう悩んでのことなんだろう。僕には重すぎるよ」思わず由貴子の愚痴を言ってしまった。でももういいや。もう由貴子とはーそんなことを思ってはいけないと、僕は自分に言い聞かせる。蛍光灯の明滅が何かを暗示しているように部屋の空気が一瞬で冷たくなった。

次の日の朝、僕は学校に行く気になれなかった。別に夏休み中の自主練である。特に強制されている訳ではない。調律は好きだったが、まだユニゾンのチューニングしか習っていない。それはショパンの音符に新緑の色と香りを匂わせる。僕はピアノを弾けなかったが、弾けたらどんなに楽しいだろうと思うことが度々あった。

しかし今日はその調律もどうでもよかった。由貴子の「お父さんを殺そうとしたの」その暗黒を思わせるワードが頭から消えない。僕は由貴子にどう手を差し伸べればいいのだ?こんな夏のカンカン照りの中、由貴子はどこかへ向かおうとしている。こんな切ない思いをするために由貴子と僕は出会った訳ではない。

カーテン越しに見える有能と才能の狭間を僕は午前中行ったり来たりしていた。長内の顔が頭に浮かぶ。いつも堂々としている長内を、慕う女性は多かった。そのかわいらしい笑顔に、一喜一憂する女性たち。まるでタカラジェンヌのように両脇には、取り巻きの女性がいた。その女性たちを従えて彼女はさぞかし歯がゆかったに違いない。

「ちょっと学校へ行ってみようかな?」十時くらいになって、僕はやっとそう思えるようになった。もしかしたら長内に会えるかもしれない。そういう淡い期待を持ちながら、学校への道のりを自転車で急ぐ。初めて由貴子に出会った交差点。今は思い出したくもなかった。そこを通過して陸橋を超えると、茶色いチャペルのような建物が見えてくる。それは僕らが通っている学校だった。屋上に人影が見える。僕は長内の姿を捉えて「長内!」と手を振る。長内もそれに気づいたらしく、手を振り返してくる。取り巻きの女性たちの憮然とした顔が目に入ったがそんなものはどうでもよかった。僕はただ長内に会って、長内と話をしたかっただけだった。

駐輪場に自転車を置き、屋上へ外階段を駆け上がる。屋上に上がると、真っ先に長内の下へ行った。

「長内、自主練が終わったら君の家へ行っていいか?」僕は願いを込めて長内を見上げた。急いで屋上まで駆け上がったせいで、僕は膝から下へ崩れ落ちていた。

 「そんなに急いで駆け上がって来るから。何をそんなに急いでいるんだ。急に私の家に来たいなんて、いいに決まっているだろ」長内は恥ずかしそうに下を向いた。落ちたな。僕は落ちたなと心の中で二度呟いた。

 取り巻きの連中が黄色い歓声を上げて階下へと降りて行く。誰もいなくなった屋上で僕は長内を抱きしめた。胸のふくらみを感じ、優しさがこみ上げてくる。

 その日の夕方西友で買い物を済ませて僕は初めて長内の家に上がった。学校側が用意したマンションで、アップライトピアノが部屋の隅にポツンと置いてあった。

 「ここは防音装置が付いているんだな」

 「そうだよ。ちょっと高いけど、手が出ない金額ではないから、奨学金とバイトで何とかやり繰りをしているよ」長内は照れくさそうに唇をなめた。

 「今日は僕が料理を振舞うよ。料理は得意なんだ。今もファミレスの厨房でバイトをしている。長内はゆっくり、くつろいでいてくれ。包丁とか、まな板を、勝手に使わせてもらうよ」

 「何でも好きに使ってくれ。私はピアノの練習をしているからな」長内はそう言ってラヴェルの『水の戯れ』を弾いた。澄んだ空気が部屋に漂う。その日僕は長内を初めて抱いた。


 それから僕は長内と度々寝た。それは由貴子との時間を簡単に過去のものへとしてしまった。僕は由貴子のことを完全に投げ出していた。それ程長内は魅力的な女性だったし、長内には気兼ねなく何でも話すことが出来た。ほんとにこれが一八歳なのかという疑問を持った時、そんなことどうでもいいやと、自分の言葉をかき消していた。

 

夏休みが終わり久しぶりに授業が再開した。学校では長内と付き合っていることは内緒にしようと口裏を合わせたが、いつの間にかバレていた。それでも長内の取り巻きの女性たちは芸能人と囲むように長内をいつも囲んでいた。この女性人気は尋常ではなかった。それは異性ではありえない同性特有のものであると改めて思った。彼女のどこに男らしい魅力があるのか?しいて言えばあの男のような言葉遣いだろうか?まあそんなことはどうでもいい。長内は僕のものなのだから。


 九月も初旬を過ぎて残暑も徐々に弱まってきた。その頃長内は一関のお母さんが重病ということで岩手に帰郷していた。僕はファミレスでアルバイトをしながら、調律の勉強にいそしんでいた。長内はすぐに戻ってくると思っていた。しかしそんな日がこようとは心にも思っていなかった。そしてそんな九月の夜に由貴子は血まみれになって僕の前に現れた。

 

 弁護士は続けた。

「長内智子は西野由貴子の高校時代の同級生です。彼女らは都内の名門私立の同じクラスに属していました。いわゆるいじめを西野由貴子は長内智子等数名によって受けていました。長内智子は音大を目指していましたが、途中で挫折して早々に諦めています」

「それで何故、僕を殺人犯に仕立て上げたんですか?」

「いじめの延長ですよ。彼女たちは由貴子さんが高校を辞めた後も執拗に彼女をいじめまくっています。由貴子さんがあなたと付き合っていたことに腹を立てて彼女を追い込みます。由貴子さんが自殺未遂をしたのも彼女たちのいじめが原因でした」

「そんな・・・。僕は何ということを・・・。僕は長内の家で料理したことがあるんです。その時長内の家の包丁を使いました。もしかしてそれが凶器ですか?」

「残念ながらそうなりますね。長内智子はそれを自供しています。あなたはまんまと長内智子にはめられたんですよ。あなたは明日釈放されて長内智子が殺人強盗の容疑で収監されます。智子の友達数名も、由貴子さんに暴力を振るい、由貴子さんのご両親殺害をほう助した疑いで逮捕されます。全てが長内智子の計画とシナリオによって由貴子さんをいじめたいがために行われた犯行でした。あなたは長内智子とその友達を名誉棄損で訴えることが出来ます。私もなるべくあなたに協力します。あなたが勝ったんですよ。長内智子に」弁護士の矢田は僕に熱心に説いたが、僕に長内を訴えることが出来るはずもない。長内をまだ心のどこかで思っている節がある。同郷という思いもある。そう簡単に長内だけを責める訳にはいかない。僕が長内を訴えたら、長内はこの先どうなってしまうのだろうか?長内は最低でも無期懲役だろう。それ以上は死刑しかない。確かに由貴子は可哀想だ。非業の死を遂げた事にも同情する。しかし自分が由貴子を殺したのではないか?という思いがどうしても拭いきれない。由貴子が僕と出会わなかったら、この事件は起きていなかったのではないか?胸が苦しくなる。しかし長内には同情する余地がない。しかし・・・。僕が長内を見捨てたら長内は生涯孤独ではないか。僕は曲がりなりにも今でも長内を愛している。ここ数年独居房にいる間、長内のことを一日たりとも忘れることはなかった。このまま僕は長内の代わりに死刑になっても後悔はないとさえ言えた。もう外の空気もしばらく吸っていない。

「今の僕には帰る場所もないんです」出所後、僕は専門学校の恩師に電話で伝えた。先生は岩手に帰ればいいじゃないかと簡単に言うが、僕は逮捕された日から、家族に縁を切られている。

騒々しい車列が行政道路を暴言を吐くように隊を成して行く。アパートに立ち寄ると、そこには二階建てのこぎれいなアパートが建ち、大家の家も解体されていた。裏の畑は老人ホームと変わり、土の匂いも、アパートまでの砂利道も全てアスファルトになっていた。

僕は全てが変わったこの街に一人だけ取り残された人間になり、希望のない世の中に絶望するしか方法がなかった。このまま死んでしまおうかとも思ったが、長内が生きている限り僕も生きようと心に決めた。僕が長内を見捨てたら、長内にまるで生きる価値がなくなってしまうような気がしてならなかった。僕はとりあえず長内を待つことにした。まだ家族以外も面会は出来るはずだ。明日にでも差し入れを持って行って長内に、改めてこの思いを伝えよう。長内は「余計なことをするな」とはにかんでくれるだろうか?僕は赤く染まった西の空にそして全ての人間に「さよなら」をした。


P・Sあれから三年。長内智子に死刑判決が出た。私は昨日、矢田弁護士からその知らせを受けた。全てが私の計画通りに物事が進んだと、ほくそ笑んだ。由貴子を殺害したのはこの私なのだ。長内智子には何の落ち度もない。私は朝のコーヒーを飲みながら、笑いが止まらなかった。長内は死んでも死にきれないだろう。私の罠にはまった君が悪いのだ。後、いじめがいけなかった。由貴子が私に告白をしていたのを長内は多分知らないだろう。君の名前が真っ先に由貴子の口から出たことを僕は君に黙っていた。僕は由貴子に自分を殺してほしいと頼まれていた。しかしいくら頼まれたからと言って、由貴子を殺すことを私は認めなかった。恋人が殺してくれと言って君は殺せるかい。それは容易ではなかった。由貴子を僕は愛しているから、そんなことはできないと言った。しかし由貴子は君への復讐を刻々と推し進めていた。泣くがいい泣き叫ぶがいい。君は永遠の復讐を由貴子から受けたのだ。私はこれから由貴子の下へ行く。思い残すことは何もないのだから。これで由貴子の復讐は完了した。この文章を書き残して、これで私の人生の終わりとする。

僕は一つ深呼吸をして首にナイフを突き刺した。



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