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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

助けて

作者: 三色団子

「そのスキンめっちゃかっこいいっすね」


 夏休みに入ってもゲームばかりしていた俺は、マッチング相手が決まるまでの待機画面越しに、最近ゲーム内で知り合い、たまにカスタムを組むAさんとVCで雑談をしていた。


「そうなんだよ、いいよねこれ。X君分かってんじゃん」


 Aさんはご機嫌に言った。そのスキンにはゲーム内で有利になるバフがあるわけではなく、見た目と各種モーションが変化するという、自己顕示欲を満たすためだけのの廃課金者向け装備であった。でも、俺はそれが欲しかったし、持っているAさんが羨ましかった。


「いいなぁ。俺も欲しいっすわ」

「買えばいいじゃん」

「金ないんですよ」

「X君高校生でしょ? 小遣いとかないの?」

「月五千円じゃ全然足りなくて」

「えー何にそんな金使ってんの」

「ソシャゲのガチャ回すのにちょっと」

「あーなるほどねぇ、まあそりゃ足りんわな。バイトとかしないの?」

「学校でバイト禁止されてんすよ」

「でもコソコソやってる人いるでしょ」

「まぁ、いますね。女子にはパパ活してるやつとかもいるし」


 クラスの女子が脳裏を過ぎる。声と態度がやたらとでかくてうるさい、けばけばした女たちだ。進学校で勉強についていけず落ちぶれた彼女たちは、彼氏とカラオケでヤっただの、パパ活で定期のおじさんから五万もらっただの、今度は美人局をしてみるだのと、気持ちの悪い会話をまるで周囲に自慢するように語るのだ。


 パパ活なんて緩い言葉を使ってはいるけれど、所詮はただの脱税売春婦で、ともすれば特殊詐欺を公然と行っている犯罪者である。


 自分たちは他のやつらにはできないことをやっているという反転した劣等感が暴走し、弱者は食い物にして当然と考えるつるつるな脳みそと、強者にでもなったと粋がり周囲を蔑む目が気に入らなかった。


「まあでも、やっぱ働くのってだるいじゃないすか」

「だるいねー」

「求人はほとんど接客業ばっかだし、時給も安いし。コスパとタイパ考えたら、家でゲームしてる方がいいってなるんですよ」


 よく聞く話だと、接客業はどれも毎日くそみたいな客が一人や二人はやってくるし、店員とのコミュニケーションも面倒くさいらしい。遅刻をしてはいけないし、覚えることもたくさんあるし、何より一時間働いて千円くらいしかもらえないとか終わってると思う。仮に一回のパパ活が一時間で五万だとして、普通にバイトしたら五十分の一しかもらえないのは、不公平であり不平等であり、ジェンダーギャップがどうのとか、男女平等がうんぬんとか叫ばれている昨今では、由々しき事態ではないだろうか。女は体を売るだけで楽して大金が手に入るなんて、人生イージーだよな本当に。


「あー、楽して稼ぎてぇ」

「ん、それならちょうどいいバイトあるよ」


 マイクどころか心の声すらミュートし忘れていたらしい。俺の言葉を拾っていたAさんは、登校中にパンチラを見たと語る男子高校生のような気安さで言った。


「どんなバイトすか」

 タンブラーが机に置かれて小さく音を立てるのが聞こえる。Aさんは少し間を置いて、新キャラの性能解説をする時みたいに、要点さえも端折って聞かせた。


「俺の個人的な仕事のお手伝い的な感じでさ、まあ内容は荷物運びかな」

「宅配とかってことすか。それはちょっとなぁ」


 〇berとかの配達バイトは確かに興味があるけれど、大変そうなだけで稼げるイメージがまるで湧かない。乗り気じゃないのが伝わったらしく、「露骨に嫌な感じ出すじゃん」Aさんは言ってむせたように笑っていた。


「大丈夫だって。報酬は一件ずつ出すし簡単だから。それに配達区域はそんなに遠くも広くもないし」

「うーん」

「一回五千円でどう?」

「……まじすか?」

「まじまじ。なんならたくさん受けてくれるなら徐々に報酬アップさせるから」


 この時点ではもう、やってみようかなという方に気持ちが傾いていた。それでもまだ均衡を保とうとする天秤の反対側にあったのは、「面倒くさそう」と「怪しくね?」という自身の怠惰と、人を信用しきれない心の弱さだ。


「ま、無理にとは言わないけどね」


 俺が悩んでいることを悟ったのだろう、Aさんは改札で名残惜しそうに手を振り見送る彼女のように言った。彼女なんてできたことないし、別に欲しいとも思っていないけど。


「A君がやらなくても俺がやるし、他の人にお願いするだけだから」

「いや、ちょっと、考えていいすか?」

「んーや、これはここだけの話で」

「一日だけ」

「ダメ。今承諾しないなら他の人に回すから。X君さぁ、チャンスっていうのは予期しないところでやってくるし、見逃したら次はないんだよ。で、どうする? やるのやらないの? はい、十、九、八」

「もー分かりましたよ、やりますよ」


 半ば言わせられたような気がしないでもなかったが、興味があったのは事実だし、やってみてキツかったら辞めればいい。まだ少し燻ぶる疑義に蓋をして、俺はAさんのバイトを受けることにした。


「じゃあ専用のチャットに招待するから、これダウンロードしてくれる」


 そう言って送られてきたURLをクリックすると、アプリのダウンロード画面が開かれた。アプリをスマホの方にダウンロードし、Aさんの指示に従いながら設定を進めていく。

 どうやらそのアプリは匿名性の高いものであるらしく、顧客情報や個人情報が漏れるのを防ぐために使用しているのだとか。


「あとはX君の個人情報送っといて」


 Aさんはそう言うと、登録したアプリのチャット欄に俺に入力してもらいたい項目を貼った。名前や住所や電話番号だけでなく、親の電話番号や勤務先、学校名、口座情報なども求められていた。


「こんなに必要なんですか」

「当たり前でしょ」


 不安と心配に煽られた猜疑心が、考えるより先に疑問を口にさせていた。

 最近の授業で情報リテラシーを学んだ身としては、個人情報の流出という事件は、人里に熊が下りてきたなんてニュースよりもっぱら時事案件だった。


「X君に何かあった時に緊急連絡先とか控えないといけないし、口座情報知らないと振り込めないでしょ」


 Aさんは声をワントーン下げ、授業終わりの一分前に質問を繰り出される先生のように、面倒くさそうに答えた。


「まあ、たしかに」

「バイトしたことないから知らないのも分かるんだけどさ、そういうもんだから」

「はい」

「あ、書き忘れたんだけど、身分証明できる画像も送っといて」

「学生証でも大丈夫ですか?」

「あー、いいよそれで。ついでに親のも」

「え、いや、それはちょっと……」


 父親は元からだが、母親とは高一の学年末あたりからまともに口を利いていなかった。原因は成績が落ちてきたのをゲームのせいだと言って、物理的にPCを破壊しようとしてきた母親と口論になり、ついカッとなって殴った壁に穴を空けてまったからだ。


 以来、一度だけ父親が話を持ち掛けてきたのを無視したところ、干渉されなくなり、ある種必然的に互いが互いを避けるようになっていた。


 その時の母親の表情がフラッシュバックしてきて、思わず台パンしそうになった。まるで自分が被害者だとでも言いたげな目をして、非難がましく去っていく後ろ姿が、当時のままの苛立ちを思い起こさせる。


「あ? まあできないならいいや」


 Aさんの呆れたとでも言いたげな感情が伝わってくる。ただ、どうしたってハードルが高く、言い返す言葉が見つからなかった。


「仕事の詳細は後で送るから確認しといて」


 押し黙る俺を突き放すように、Aさんはそれだけ言うと、バイトの話は一切会話に出なくなった。

 その後対戦相手が決まり、一戦だけやって解散した。



 キョロキョロと周囲を見回す。目当てのコインロッカーを見つけ、暗証番号を入れると扉が開いた。中に入っていたのは黒くて小さめのショルダーバックだった。それを手に持ち、指定された住所まで地図アプリで確認しながら歩いていく。距離は大体一キロメートルくらい先にあるホテルであった。


 Aさんから依頼されたバイトの内容は、このバックをとある場所まで配達するというものだ。少しだけ経緯を聞くと、荷物を駅近くのコインロッカーに入れて飲みに行き、そのまま滞在先のホテルに帰ってしまったらしい。要するに忘れ物を届ける、ただそれだけである。そして、それだけなのに五千円も貰えるなんて、コスパがよすぎる。


 赤信号に足を止めて、ふと、ショルダーバックの中身が気になり、耳元に近づけ上下に振った。

 硬い金属同士がぶつかり合う音が聞こえるのと、少し大きめで重たいものが揺れているのが分かる。何が入っているのかは分からないが、まあ、中身は見るなと言われているし、俺もそんな非常識なことをする気はない。そうこうしていると、信号機は青に変わった。


 それから十分程度して目的地のホテルへと辿り着いた。見た目は相当にぼろっちくて、廃墟と言われれば納得もできそうなほど汚れていた。


 手をかざして、自動ドアがゆっくり開く。あまり冷房の効いていない生温さと、煙草とよく分からない甘い匂いなどが入り混じった空気が、外気と入れ替わり押し寄せてくる。マスク越しにでも分かるくらい気持ちが悪く、きっと今鏡を見れば、俺はひどい顔をしていることだろう。


 エントランスには従業員の姿がなかった。こちらとしては好都合ではあるのものの、あまりにも不用心がすぎないだろうか。これでは俺みたいに無関係な人間でも入り放題だ。

 そんな疑問をそのままに、エレベーターに乗って五階を目指す。ホテルの外観に違わず、エレベーターも古いもののようで、ガタガタと揺れ、今に落ちるのではないかと不安になった。


 ちん、と音がなって、エレベーターの扉が開く。降りたすぐ正面に、擦れた部屋の案内図を見つけ、指定されている部屋番号までやってきた。


 扉の前で、ごくり、と唾を飲む。事ここに至ってようやく緊張を自覚した。少し躊躇い、浅く深呼吸をして、指示の通りに間を置かずノックを五回する。


 どっ、どっ、どっ、と鼓動にも似た重たい足音が聞こえてきて、ドアが開いた。

 出てきたのは、身長が百七十センチメートルの俺より少し背の高い、上裸で小太りのおじさんだった。ただ、両腕に肩までびっしりと刺青が入っており、坊主頭と左頬の傷も相まって、一刻も早く逃げ出したくなる様相をしている。街中で見かけようものなら、目を逸らして、なんなら道を変えるほどの圧があった。


「あ、あのこれ」


 適切な言葉が見つからず、持っていたバックを差し出す。おじさんは舌打ちをしてひったくると、バタンと音を立ててドアを勢いよく閉めた。


 少しの間放心して、浅い呼吸が繰り返された。

 ふぅ、と呼吸を整えると、ふらりと視界が揺れて、壁に手を付き体を支える。遅れて頭が少しくらくらしてきて、平衡感覚がおかしくなってきた。


 それは緊張から解かれたからや熱中症になった、というだけではないように思えた。要因は臭いだろうか。香水や芳香剤のものとは違う、ホテルに入った時のそれに似た何かの臭い。嗅いだことのない、そして嗅いではいけないような臭いが、扉の先から漂っている。長居するべきではないと判断した俺は、息を止め、早歩きでエレベーターに乗って一階に下りた。


 エントランスには先ほどまでいなかった従業員がおり、目を合わせないようにしながら、特に呼び止められることもなくそそくさとホテルから出た。


 外の空気はうだるような熱気であっても、ホテルの中のそれよりずっとマシだった。

 しかし、炎天下であることに変わりはなく、またホテルに入ってほんの数分だったというのに、正午に近づいた日差しがより強さを増したように感じる。


 スマホを開いて、配達が完了した旨をAさんに報告し、太陽に背中を焼かれながら、家へと帰った。



 それから一日一件ずつ、計四件の配達をした。最初の一件目はその日のうちに報酬が振り込まれており、疑う気持ちも晴れたことで、立て続けに受けてしまった。しかし、二件目以降はまったく振り込まれる気配がなく、Aさんに確認したところ、「立て込んでるから支払いが遅れる」とのことだった。


 即日即金じゃないなら受けたくない旨を伝えたところ、「じゃあ別のバイトでもするか?」と紹介され、話を聞いてみることにした。


 バイトの内容は、集金と荷物運びであるとのことだった。どうやら廃品回収のようなものであり、依頼された物品の回収作業と、支払いが滞っている人へ直接取り立てに行くらしい。遠出をすることもあるようだったし、複数人で作業するようだし、重労働っぽい感じがしたのであまり乗り気ではなかったが、報酬が一件で三万円と言われたらやる以外の選択肢はなかった。例に漏れず「嫌なら他に回す」という文句もすっかり背中を押す要因となっていた。



 集合場所は自宅の最寄りから三つ進んだ駅近くのコインパーキングだった。この辺りのものではないナンバープレートを付けた黒のワゴン車を見つけて近づくと、助手席から若そうな男の人が出てきた。黒髪のマッシュヘアに黒いマスクをした量産型ホストみたいな人だ。


「X君?」

「あ、はい、えと、Bさんですか?」


 その人は寝起きのような、酒焼けでもしたような声で「うん」と首肯する。

 Bさんは俺の全身をさっと確認したかと思えば、苛立たし気に、かつ眠たそうな目をして睨んできた。


「学生証」

「へ」

「身分証出せって言ってんの」

「は、はい」


 背負っていたリュックの中を漁って学生証を差し出すと、Bさんは引っ手繰るように受け取って中身を見る。


「ふーん。○○高ね、進学校じゃん。頭いいんだ?」

「いや、まあ、それなりに。学年で二十番くらいですけど」

「へー。そんなエリート君がねぇ」


 咄嗟に口をついて出た言葉は嘘だった。二十番以内だったのは一年の一学期中間だけであり、以降は順調に下がっていった。二年生になった今ではもう、下から数えた方が早い。

 事実に即しているわけではないけれど、だからと言って嘘を吐いているわけでもない。それに、確かめられることのない見栄を張ってする自慢は、安心しながら優越感を満たせる自己防衛の延長でもあるのだ。


「まあいいや。じゃあ車乗って」

「あの、学生証は」

「コピーとか取んないとだし、次会った時に返すよ」

「分かりました」

「あと二人くるから乗って待ってて」


 促されるまま車に乗った。ガンガンに冷房の効いた車内は、窒息しそうなくらい煙草の臭いで溢れていたが、それ以外は想像していたよりずっときれいに使われている様子だった。


 言われて二列ある後部座席の一番後ろの右端に座る。車内には助手席に座るBさんの他に、運転席に座る生え際の後退したおじさんがいた。見たところ四十代くらいだろうか。特に挨拶をされたりということもなかったので、心の中でCさんと呼ぶことにした。


 数分後、新たに乗車してきたのはBさんと同年代くらいの男であった。パツパツのシャツを着せられた筋肉と膝丈の半ズボンを履き、ゴテゴテとした指輪やネックレスやピアスを身に着け、金と黒のプリンカラーをした短髪という、いかにも柄の悪そうな見た目の人だ。


 Bさんが量産型ホストなら、この仮称Dさんは暴力団に入りたての量産型チンピラと言った感じだろうか。道端で見かけようものなら、鳩のごとく絡んできそうであり、いくら同じ仕事をするとはいえ、出来ることならあまり関わり合いになりたくないと思った。


「おせーよ」

「まだ遅れてねぇだろ」

「五分前には来いっての」


 やり取りを聞く限りでは、二人は以前からの顔見知りなのだろう。

 そうこうしていると、今度は俺と同じ年くらいの男がやってきた。Bさんは車を降りて短いやり取りをし、そいつも車に乗った。一応、小さく会釈をすると、会釈で返され、俺の隣に座った。車内の配置としては、運転席にCさん、助手席にBさん、二列ある後部座席の前側にDさん、後ろ側に俺ともう一人といった具合である。


「じゃあ行くか」


 車が駐車場を出発して少し走った後、バックミラーを通してBさんがDさんに目配せをするのが見えた。


「おい」

 Dさんはこちらを振り向き、ドスの効いた声を出して睨みを利かせた。

「XとYだっけ。お前らスマホ出せ」

「え、」


 言われるなり俺はすぐさまポケットからスマホを出してDさんに渡す。この手の輩には、従順にしているのが一番安全であることを実体験として身に付いていた。


 そんな俺とは対称的に、Yはスマホを渡すことを渋って見せた。早速機嫌を損ねたDさんは舌打ちをして、「早くしろよ」と声を深める。


「いや、え、でも」

「Y君さぁ。これからやることって一応企業秘密とかプライバシー保護とかあんの。万が一写真でも撮ってSNSにあげられたりすると迷惑なわけ。高校生のX君でも分かってるのに、大学生の君がその辺のこと理解できないわけないよね」


 なおも渋るYに対して、今度はBさんが苛立ちを見せながら諭した。観念したのか、Yはスマホを出してDさんに渡した。


 瞬間、ゴン、とDさんの拳が飛んで、Yが殴られた勢いで頭を窓にぶつけた。

 俺は驚いてびくりと肩を震わせ、横目でYを見る。


「口応えしてんじゃねぇよカス」


 吐き捨てるようにDさんは言ってスマホをBさんに渡す。Yは幸いなことに怪我をした様子はなく、ただ困惑と恐怖の表情を浮かべていた。一瞬だけYと目が合い、なぜだか恨みがましいような表情をしてこちらを睨んでいたので、さっと目を逸らした。被害者面をしているけれど、素直に従わなかったお前が悪いだけなのに。


 出だしは最悪なまでに躓いており、窓を閉め切った車内の空気は煙草のそれも相まってすごく息苦しい。


 ろくな会話もないため、どこに行くのか、目的地までどれくらいの時間がかかるのか、どのような作業をするのか、一切が謎のまま、ほどなくして車は高速道路へと入った。


 Cさんはかなり飛ばしているようで、車窓から見える景色の流れるのが速い。スマホをいじっていたBさんとDさんはまたバックミラーで意思疎通を図り、Dさんがため息とともにこちらを向いた。


「お前ら、今日何するか分かってるか?」

「いえ、集金と荷物運びとしか」

 先ほどよりかは幾分ま、柔らかい口調で尋ねるDさんに困惑しながら俺が答えた。何が気に入ったのかは知らないが、Dさんは満足そうに口角を上げて悪そうな顔で笑った。

「まあそういう言い方もできるけどな。Yは何か分かるか?」

「……い、いえ」

「強盗だよ」

「ごうとう」


 口の中で飴を転がすように、Dさんの言葉の意味を考える。どうにも合致するものは一つしかなくて、もう一度「強盗?」疑問符の付いた単語をDさんに向けて呟いた。


「そう、強盗。っても簡単な話で、これから行く家の金目の物とか色々奪って逃げるだけ。難しいことは俺たちがやるから、お前らは高く売れそうな物を探せばいい。な、簡単だろ?」


 言うは易いが、未だに、強盗の文字すら咀嚼できていないのだ。現実が追いついてくるのにはもう少し時間がかかりそうだった。


「犯罪じゃないですか」


 ぽつりとYが言う。「あ?」Dさんのドスの効いた声がYに向かって放たれる。Yは「しまった」とでも言いそうな表情をして目を逸らした。


「そう、犯罪だよ。お前らはこれから犯罪者になるんだ。はっ、よく分かってんじゃん」

「い、嫌です。やりたくない」

「あっそ。まあ別に俺たちも無理にとか、脅してでもやらせるって気はねぇよ」

「へっ?」

「やる気のないやつとか邪魔だし、いつ裏切るかも分かんねーから、嫌なら帰れば」

「じゃ、じゃあ」

「あーでもよく考えろよ? こっちはさお前らの個人情報を持ってんだ。この意味は、分かるよな?」


 Yは何かを察したのか見事に押し黙った。


「住所、電話番号、親の勤務先に通ってる学校。まあその他いろいろ、知ってんだよ。今度はお前らの家に強盗が入るかもな」


 Dさんは指折り数えて言った。

 言われてようやく、俺もその可能性に思い至る。まあでも、家に金目の物なんてないし、親が殺されても別にいいか、なんて思い、割り切れている自分に少し、動揺した。思考はもうすでに、まるっきり犯罪者のそれだった。


「それで、やるのやんねーの?」

「やります」

 Dさんは分かり切ったことを改めて聞いてくる。俺は一も二もなく答えていた。

「Yは?」

「や、やり、ます」

「はい言質とりました、と。これで脅されたなんてのは通用しねーから」


 二人の決意が固まった車内の空気はさらに異様な重苦しさを伴った。またやはり会話はなく、エンジン音と車がコンクリートを蹴る音以外に聞こえてくるもののない静けさは、死刑を待つ囚人の牢屋を思わせた。しかし、俺にはまだ犯罪者となった自覚がまるでない。

 休憩を挟まず一時間ほど走り続け、高速道路を降り、徐々に閑静な住宅街へと進んで行く。


「降りろ」


 とある一軒家の駐車場に車が止まり、Dさんが降車を促す。車内で渡されていたキャップと軍手を身に着け、Dさんを除く俺たち四人が車から降りた。


 石構えの塀と柱に、錆の浮いた横開きの門を開き、三段しかない階段を上って、Dさんが家のドアの前に立つ。ちらりと覗いた庭には、家庭菜園用の小さな畑があった。まだ午前十時を回ろうかという時間帯でも強い夏の日差しを前に、土はあからさまに濡れ、蔦にぶら下がっているキュウリは小さく汗をかいていた。


 Dさんはキャップを目深に被り直し、インターホンを押した。少しして「はい」と声がする。


「あ、おはようございます。○○運送です。お荷物のお届けに参りました」


 見た目からは想像もできないほど丁寧で誠実そうな声色をするDさんが、二、三のやりとりをすると、奥から足音が聞こえてきて、鍵が回り、ガチャリと音を立てて玄関のドアが開く。


「朝早くからご苦労様です」


 人の良さそうな笑みを浮かべながら出てきたのは、人の良さそうなお婆さんだった。手には印鑑を持ち、ドアの半分を開けて、Dさんと俺たちの姿を視界に収めた。何かを悟ったのだということが傍から見てもよく分かるほど、お婆さんははっとした表情をして眉を顰めた。何も言わずに、ほとんど反射で、お婆さんは素早くドアを閉めようとする。だが、Dさんの反応と対応はそれよりもずっと早かった。


 閉まるドアの隙間に足を挟み、力ずくでこじ開けると、叫び声を上げようとしたお婆さんの腹を殴って黙らせる。叫び声をキャンセルさせられたお婆さんは呻き声と共にうずくまり、Dさんはその隙にお婆さんの手足を結束バンドで縛り上げ、痛みに震える口の中に布を詰め込み、タオルを噛ませて声を封じた。そのあまりの手際のよさはまさしく圧巻で、たまに格闘技の動画で見る武道の達人の動きにも似た、洗練された技術がそこにはあった。


 Dさんは土足のまま家の中へと上がり、お婆さんを引きずって奥へと入っていく。Bさんもそれに続き、俺とYがその後をついていく。


「BとXは手分けして二階で金目のもん取ってこい」


 リビングでお婆さんを床に転がしたDさんの指示に従い、Bさんと俺は二階へ向かった。軋む木の板を踏み、真新しい手摺を掴みながら階段を上った先には、二つの部屋があった。一つは当時のままを保存したような使われていない子ども部屋で、一つは段ボールなどが積まれた物置となっている。


 どちらをどちらが探すのか、尋ねる前にBさんが物置へ入っていったので、俺が子供部屋を担当することになった。


 カーテンの閉め切られた室内はほの暗い。木製の勉強机には、教科書や参考書が本立ての中でぎゅうぎゅうに収まっている。背の低く横に長い、白い塗装の所々が剥げた本棚には、背表紙の日焼けした古い漫画が並び、プラスチックのタンスと埃の被ったベッド、クローゼットがある他には特筆するものが見当たらない。


 それは殺風景でどこか物悲しく、カーテンの隙間から差し込む光に映り舞う小さな埃の影に、部屋というただの風景の赴きであっても年を取るんだな、なんて哀愁を覚えるほどである。


 強盗という行為に浮足立っていた心は地に足が着いたらしく、まるでテスト勉強をする時みたいに落ち着き払っていた。


 俺は思い出したように机の引き出しを開け、本棚を確認し、タンスの中を見て、ベッドの下を覗き、クローゼットを開く。しかし、金目の物はおろか、そもそも物がほとんど残っていなかった。


 物置の方を手伝おうかと迷ったが、Bさんの邪魔をするのも気が咎めたので、一足先に一階へ下りることにした。


 リビングに行くとDさんがソファーに座ってくつろいでいた。足元には手足を拘束されたまま、轡の外れたお婆さんが倒れている。お婆さんは苦悶の表情と共に、瞑った目から涙の跡を残し、何事かを呻いていた。


「なんかいいもん見つかった?」


 俺のことに気が付いたDさんは、小学生の頃に埋めたタイムカプセルを掘り起こしたかのような調子で尋ねる。友達だと思っていたクラスメイトが、俺を除いてタイムカプセルを埋めていたことに気が付いたのは、SNSでたまたまタイムラインに流れてきたからだったなんて話は、今は関係ない。


「いえ、特には」

「ねこばばしたりすんなよ?」

「し、しませんよ」


 いかにも強面といった様子のDさんが、ねこばばなんて可愛らしい言い回しをするのがなんだかおかしくて、少しだけ、ほんの少しだけ打ち解けたみたいに思えた。

 リビングの扉が開いて、茶色い封筒を持ったYがやってくる。


「おせーよ」

「す、すみません」

「見つけたよな?」

「あ、えと、はい」


 Yは封筒をDさんに渡す。Dさんは封筒の中身を確認して「よし」と満足そうに言って立ち上がった。


「Bは?」

「多分、まだ二階に」

「呼んだ?」


 タイミングよくBさんもリビングへとやってきた。


「いいもんあった?」

「時計と指輪くらいかな。正直微妙、そっちは?」

「回収完了」


 Dさんは得意気に言って封筒をBさんに投げた。中身を確認したBさんは「いいね」言って笑った。


「んじゃさっさと撤収しますか」


 BさんとDさんはリビングを出て玄関の方へと歩いていく。何がなんだか分からないまま俺も外に出た。お婆さんは床に転がったままである。

 車に四人が乗り込むと、またすぐにどこかへと走り出す。Bさんは誰かに電話をかけていた。


「あの」

 後部座席からDさんに問いかけた。

「あん?」

「さっきの封筒の中身って?」

「現金だよ現金」

 Dさんは面倒くさそうに答えた。俺はそれもそうかと妙に納得して、「いくら入ってたんですか?」と尋ねた。

「二百万」

「に、二百万⁉」


 なんでそんな大金が家の中にあったのだろうか。タンス貯金にしたって一桁間違えている気がする。それに、Dさんたちはあの家に現金があることを知っていた風であったことも気掛かりだった。

 俺の驚きに気を良くしたのか、Dさんはさらに続けた。


「事前に業者を装って金庫に金を入れさせとくんだよ。他人のカード使ってATMから引き出すより足が着きにくいからな」

「段取り完璧じゃないっすか」


 その手際のよさに素直に感心してしまった。自分の中の強盗のイメージでは、その辺の民家へ突発的に押し入り、金目の物を盗んで逃走するという杜撰なものだったが、彼らの行為はきちんと計画された犯罪であったのだ。


「まあな。中には金の場所を吐かないやつもいるけど、ちょっと殴って脅せば簡単に吐くから」

「拷問とかってことですか?」

「そんな大げさなもんじゃねーけど、まあそんな感じ。なに、興味あんの?」

「いや、人なんて殴ったことないし」

「今の若い子って喧嘩したことないやつ多いもんな。俺が学生の時なんてヤンキーと殴り合いの大喧嘩しまくってたけど。そうだ、次、Xがやってみるか」

「やるって何を」

「金の場所聞き出すの。さっきはYにやらせてみたんだけど全然ダメでさ、使えねーのなんのって」

「お、俺がやるんですか」

「そんなビビんなって、相手は動けねぇじじいとかばばあなんだから。それに、いいもん貸してやっから」

「いいもんって」

「それは着いてからのお楽しみ」

 そんな会話をしていると、車はコンビニの駐車場で止まった。

「X君とY君さ、ATMでお金おろしてきて」


 Bさんは言って銀行のキャッシュカードを俺に投げた。掴み損ねて胸に当たり、太股に落ちたカードを慌てて拾う。


「暗証番号は○○ね。上限いっぱいでよろしく」


 有無を言わせぬ雰囲気で、俺とYは指示に従い車から降りた。時刻はもうすぐ正午手前で、夏の日差しがより一層熱戦を振り撒いている。岩盤浴でもできそうなほど熱を吸ったコンクリートの地面とに挟まれるのを嫌って、逃げるようにコンビニへと駆け込んだ。冷房のよく効いた店内は生き返るような心地がした。


 レジの横の奥にあるATMに向かい、キャッシュカードを入れて「お引き出し」のアイコンを押し、暗証番号を入力する。一回の引き出し上限は二十万円で、一日の上限額が五十万円であったので、三回に分けて上限いっぱいまで引き出した。


「なあ、このまま逃げようぜ」


 ATMを操作する横でおもむろに、Yが小声で提案してきた。「はあ?」言っている意味が分からず、俺は手を止めYを見た。


「いや、だから、また行くみたいだし、俺、もうやりたくないし」

「だから?」

「警察に連絡して、保護してもらおうって。これ、闇バイトだろ? だから、出頭すれば保護してもらえるんだよ。それに、ここにいれば、あいつらも下手なことできないだろ」


 俺は自然と溜め息を吐いていた。俺はYの言い分を無視してATMの操作を行い、五十枚の札束を持ってコンビニから出た。「おい」Yに呼び止められるが、俺は構わず車へと戻った。

 車に乗り込み、五十万円をDさんに渡す。観念したのかなんなのか、結局Yも車に乗ってきた。俺は溜め息を吐いて、「Dさん」怒りのままにそう呼んでいた。


「あ?」

「さっきYがこのまま警察を呼んで保護してもらおうとか言ってました」

「おい!」

「なんかもうやりたくないらしいっすよ」

 咄嗟に俺の肩へと伸ばしてきたYの手を払いのける。

「ふーん。じゃあいいや、降りたいなら降りていいよ」


 Dさんは振り向くことなく、札束の枚数を数えながら、またあっけらかんとそう言った。


「「えっ」」


 興味なさげなDさんの返答に驚いた俺とYの声が重なる。間を空けることなく、今度はBさんが口を開いた。


「でもまあY君さぁ、降りて警察に行くなり、俺たちのこと話すなりは好きにすればいいけど、でも、その後どうなっても知らないからね。全部逃げたお前の責任だから」


 ごくりと唾を飲む音が聞こえた。Yは何も言い返すことなく、ただ黙っている。出て行くなら早く出て行けばいいのに、と気まずい車内で、Bさんはさらに続けた。


「まあ警察に行っても、一緒に強盗したんだからどうせ捕まるし、万が一釈放されても、どんなことになるかくらい想像できるっしょ」


 Bさんの言葉に俺は心の中で頷いていた。高速道路を走っている時にも言われた話だが、このまま犯罪をするにしろ逃げるにしろ、悲惨な末路を辿る以外にもう、道はないのだ。それならいっそ、行く所まで行って、やりきってしまった方がいいに決まっている。どうせこうなる前からろくな人生じゃなかったのだから、少しくらい他人に迷惑をかけていい思いをしたっていいじゃないか。老い先短い老人たちが宵越の銭を持っていけずに捨ててしまうくらいなら、俺たちが有効活用してあげた方が世の為でもある。

 俯くYの横顔を見ると、ますますそんな思いが強くなった。


「ほれ」


 沈黙のままの車内で、Dさんが俺の方を振り向いて何かを渡してきた。


「これさっきの報酬な。Yの分もお前にやるよ」


 渡された金額は六万円だった。ちょっと家に入って探し物をするだけで、時給千円のバイトを六十時間やった金額を稼げてしまった。それにパパ活をしている女たちより一万円多い。なんてコスパとタイパに優れたビジネスだろうか。こんなのを知ってしまったら、普通に働くなんて、本当にバカらしく思えてくる。


 この瞬間、「犯罪をして生きていこう」と俺は心に決めた。


「で、Y君どうすんの」

 痺れを切らした様子のBさんが回答を急かす。


「……や、やります」

「聞こえねぇよ」

「やります!」

「チッ、じゃあ迷惑料ってことで、お前は次も報酬ないから」


 そうして一悶着あったものの、二件目の現場を目指して車は走り出した。



 次の強盗現場は一つ目の一軒家と違い、六階建ての古臭いアパートが並んだ集合住宅であった。

 駐車場の来客用スペースに車が停まった。車から降りると、Bさんは片手で持てるサイズの段ボール箱を、Dさんはバールをトランクから取り出した。


 宅配業者を装うBさんは帽子を目深に被り、一階にあるドアの前に立った。情報では八十代のお婆さんが一人で暮らしているらしい。

 先ほどの二の舞にならないように、俺たちが離れた位置で様子を窺う中、Bさんはインターホンを鳴らした。


「○○運送です。お荷物お届けに参りました」


 辛うじてBさんの声が拾えるだけで、応答したドアの向こう側にいる人の声は聞き取れない。でも、Bさんの表情が険しくなったのはよく分かった。たった数時間の付き合いではあるけれど、想定とは違う事が起きているくらいのことは察することができる。


 俺はDさんの方に視線を向けた。Dさんは「早くしろ」とでも言いたげなだけで、心配している様子はまるでない。


 チェーンのかかった状態でドアが開いた。ドアの隙間から覗く顔は若い女性のそれで、聞いていた話と違っている。しかも、かなり警戒している様子であった。


 どんなやりとりが行われているのかは相変わらず分からない。固唾を呑んで見守るしかなくて、日差しを受ける全身にじわじわと熱が回る。自分が対応しているわけでもないのに、着火した爆弾の導火線のように焦りが迫ってきてしかし、体の表面とは裏腹に肝は十分なほど冷えていた。


 そんな状況でも冷静な対応を見せるBさんに気を緩ませたのか、一度ドアが閉まって、鍵が回り、またドアが開く。今度はドアチェーンなどなく、体の半分ほどを外に出した女性は、Bさんから小包を受け取った。


 閉まるドアに背を向ける女性の隙を見逃すことなく、Bさんはドアの隙間に手を滑り込ませて家の中へと押し入った。

 それから十分程が経過してドアが開いた。


「入れ」


 俺たちはBさんに促されるまま家の中へと入った。玄関の前にはBさんに応対していた女性が倒れている。ジーンズに半袖のシャツ一枚のラフな恰好の女性は若く、二十代半ばといった年齢だろうか。ハウスキーパーや介護にきた職員には見えないし、娘という年齢でもないことを考えると、孫というのが一番納得感がある。


 一軒目のお婆さん同様、手足は結束バンドで縛られ、タオルで作った簡易的な轡が嵌められている。また俺たちがやってきても一切の反応がないことから、どうやら気を失っているらしかった。


 リビングに行くと、一軒目にいたお婆さんよりもさらに年老いたお婆さんが、玄関の女性と同じように拘束された状態で床に転がっていた。こちらはきちんと意識があるようで、俺たちがやってきたのを見るなり驚きと困惑の表情を浮かべて、短くくぐもった悲鳴を上げた。


「黙ってろ」


 Dさんは言って持っていたバールでお婆さんの腹を殴った。強く咳き込んだ時みたいな声を漏らしたお婆さんは、ピクピクと痙攣して、苦痛に顔を歪ませている。

 痛そうだなぁ、なんて、俺は他人事のように観察していた。


「殺すなよ?」

「手加減してるっての」

「聞くことあんだからほどほどにしろよ」

「分かってるって」


 Bさんは呆れたように言うと部屋の中を物色し始めた。「お前もなんか探して来い」とDさんにバールで小突かれたYは、ふすまを開けて別な部屋へと向かった。


「X、お前やってみろ」

 Dさんはそう言うと、持っていたバールをこちらに投げてきた。


「お、俺がやるんですか」

「何事も経験だろ」

「えと、ど、どうすれば」

「とりあえずそれで一発殴ってみろ」


 受け取ったバールに視線を移す。

 それは意識するとより重く、手に張り付いて皮が剥がれるのではないかと思うほど、冷たく感じた。緊張も相まって手が震える。落とさないよう両手でぎゅっと握りしめ、倒れているお婆さんを見た。


 お婆さんは気絶こそしていないものの、呻き声に似た言葉をぶつぶつと念仏のように唱えている。

 バールに体の熱が伝わり、じんわりと熱くなる感覚があった。心臓の音と衝撃は鼓動を重ねるごとに勢いを増し、耳が遠く視界が小さくなっていく。過呼吸気味な肺が注射針に刺されるように痛んだ。


 ——やるぞ、やってやる。


 バールを上段に構えてふと、お婆さんと目が合った。小刻みに揺れる焦点の合わない瞳に、ひどくブサイクな俺の顔が映っていた。


 その目は何かを訴えるだけの力すらなさそうだった。信号無視の車に轢かれた歩行者のように、困惑しながらも恨みがましくただただ見つめる、被害者の目をしているだけだ。でも俺はまだ何もしていないし、返ってそのことが、「口先だけで実際には何もできない意気地なし」とでも思われているみたいで——。


「チッ」


 舌打ちが聞こえて、俺の手にDさんの手が重なる。意思もなく振り上げただけの腕は、明確な悪意に引きずられて振り下ろされた。

 お婆さんの左肩に当たったバールが鈍い音を立てる。


 ——ああ、なんだ、こんなものか。


 プログラムされた痛みに伴う悲鳴はまるで耳に届かない。蟻を踏み潰したとして、蟻の気持ちや声に耳を傾けようと思わないのと同じで、同情や憐みなどもなく、どうでもいいとすら感じない。あるのは「まあそういう反応だよな」という納得だけだ。


 つまり、いける、だとか、やってやる、だとかいった覚悟は必要なかったのだ。


 俺はゴルフをするみたいに振りかぶり、お婆さんのお腹にもう一発、バールのL字の曲がり角を打ち込んだ。土嚢でも殴った感触だった。間髪入れずに、今度は背中へ叩きつけた。骨に当たったのか、返ってきた衝撃に少しだけ手が痺れる。お婆さんはまだ死んでいない。


「なんだ、やればできんじゃん」


 Dさんは言って、とんと背中を押してきた。こんなことでも、こんな自分でも褒めてくれる人がいるのだと、少し嬉しくなった。


「おいばばあ。これ以上痛い目に遭いたくなかったら、金庫とカードの暗証番号を教えろ」


 Dさんはお婆さんの髪を引っ張り顔を持ち上げて言った。鼻息の荒い頭が縦に振れる。それを肯定と受け取ったDさんは、口に噛ませていたタオルを外した。


「で、暗証番号は?」


 Dさんの問いに、明確な返答はなかった。お婆さんはただ口をパクパクと動かしているだけで、意味のある言語を話しているようには見えない。つまり、喋る気がない、とそういうことなのだろう。

 俺はもう一発殴った。


「ぎぃっ」


 潰れた虫のオノマトペみたいな奇怪な声を上げた。なんだか楽しくなってきた。右足ならどんな声で鳴くのだろうか。


「さっさと言え!」


 俺はもう一発殴った。

 お婆さんの枯れた皺に涙が流れる。

 一向に口を割る気配のないお婆さんにだんだんイライラしてきた。

 もう一発殴ってやろうかとも思ったが、Dさんが手で制してきたので止めた。


「金庫の場所は?」

「たすけてください」

「キャッシュカードは?」

「たすけてください」

「暗証番号は?」

「たすけて」


 辛うじてそう聞こえなくもないほどに掠れた声で、命乞いをするお婆さんの目はすっかり怯えている。気分がいい。しかし、ムカつく。これだけ脅してみても、その口はうわ言のように「たすけて」を繰り返すばかりだ。


「たすけて けいぞうさん たすけて」

「うるせぇな、誰だよけーぞーって」


 今度は業を煮やしたDさんが殴ると、お婆さんは鳴かなくなった。


「なんだまだやってんの」

 物色を終えたのか、BさんとYが戻ってきた。


「このばばあが全然口を割らねぇんだよ」

「へー。つーか、こっちも金庫とかなかったんだけど」

「マジ? っかしーな」


 困った表情をして頭の後ろを掻いたDさんは、スマホをいじって誰かに電話をかけた。


「あ、もしもしDなんだけど。二軒目でちょっと聞きたいことあってさ。あ、ちょっと待って今スピーカーにするわ」

「あーあー、聞こえてる?」

「聞こえてる」


 電話越しでは確実にそうだと断言できるものでもないけれど、相手はAさんのようであった。


「で、どうしたって?」

「いや、二軒目のばばあが全然口を割らねぇんだよ」

「金庫はねーし、金目の物も財布とカードくらいしか見当たんなかった」

「二軒目ってーと、住所は××の〇○だっけ?」

「ん? 〇○の××だろ」

「はぁ? いや……。なあ、ばばあの顔って映せる?」

「おっけー、ちょい待ち」


 Dさんはカメラをオンにして、お婆さんの顔を映した。


「あー、んー、誰それ」

「ここのばばあだけど?」

「……あっちゃー、人違いだわそれ」

「はぁ?」

「お前ら襲うとこ間違えたんだよ」

「マジで?」

「大マジ。今確認したけど、やっぱ××の○○だわ」

「いや、たしかにおかしいと思ったんだよ。ばばあの他に女いたから」

「家にいたのばばあだけじゃねぇの?」

「そう、なんか娘か孫かは知らんけど」

「じゃあそいつはいつも通り拉致って犯して捨てといて」

「ばばあは?」

「縛って放置。間違っても殺すなよめんどいから」

「わーってるよ」

「じゃ、そういうことで今日はもう撤収していいから」

「はいよー」


 Dさんは電話を切ってスマホをポケットにしまった。


「つーわけで撤収。女は拉致るから車に運ぶぞ」


 玄関の方に行くと、女性はすでに目が覚めていた。玄関のドアを支えに頑張って体を起こし、俺たちがもう少し遅ければ外に出られたかもしれないというところだった。


 Dさんが目配せをしてきて、意図を察した俺はその女性の足目掛けてバールで殴った。タオルの奥からくぐもった声が聞こえて、バランスを崩した女性の体はコンクリートの上に倒れた。もう少しで逃げれるところだったのにどんまい、なんて思っていると、女性の股間の辺りに染みが浮いてきて、さらに溢れて水溜りができた。おしっこの臭いと分かって、「ははっ」自然と笑みがこぼれる。玄関に並んでいる彼女たちの靴は、しっかりとおしっこで濡れてしまっていた。土足で上がってなかったら、自分の靴もおしっこまみれになっていたかと思うと、苛立ちがより募る。


「きったねぇな」


 間髪入れずにもう一発殴ると、こちらを向いて涙を浮かべ、しかし悲鳴を押し殺してせめてもの抵抗をしているようだった。こんな醜態をさらしてもなお、「お前らの思い通りにはならない」といったその表情が、俺のへその辺りからぞくぞくと何かを湧き立たせる。


「さっさと行くぞ。Xそっち持て」


 Dさんに言われて俺は殴るのを止めた。楽しくなってきたところに水を差されたが、Dさんの指示なので仕方がない。指示された通りに女性の足を持ち、それぞれ車に乗り込んだ。女性を床に座らせて、俺はDさんのいる座席の方に座った。


 エンジンがかかり、車が駐車場を後にする。


「騒ぐなよ」


 Dさんは言うと、女性の轡を外した。息苦しさから解放されたからか、はたまた恐怖からなのか、玄関前で見せていた威勢など見る影もなく、女性の呼吸はそれと分かるほど不安定に震えていた。


「なんでもします。助けてください。お願いします」


 捲し立てるように言う女性に、「うるせぇ」言ってDさんは顔面を平手打ちをした。

「ごめんなさいごめんなさい」

 女性は小さな声で繰り返しそう言って涙を流していた。俺の中でまたぞくぞくと何かが湧き上がってくる。


「おら、ケツ向けろ」


 Dさんは女性に背を向けさせ、運転席のシートの肩に顎を置くように前傾姿勢にさせた。後ろからジーンズのボタンを外してファスナーを下ろし、膝くらいまでズボンを下げた。

 おしっこでぐしょぐしょに濡れて色の濃くなった紫色のティーバックと、それに縁取られたシミ一つない色白でキレイな二つの山が露になる。


「へぇ、いいケツしてんじゃん」


 一撫でした後、パン、と右の山に平手が打たれ、赤い紅葉が色付いた。「んっ」と痛みか興奮かも分からない甘い声が車内を駆ける。パン、とまたもう一度、小気味のいい音が鼓膜を打った。


「お姉さん名前は?」

「Kです」

「Kちゃんね。年はいくつ」

「二十六です」

「仕事は何してんの」

「事務職で、会社の経理を」

「家にいたあれ、おばあちゃん?」

「はい」

「帰省とか?」

「そう、です。おじいちゃんが死んで、家に一人だから」

「Kちゃんは優しいんだ。おばあちゃん、心配じゃない?」

「い、生きてるんですよね」

「多分ね。まあ放っておいたら死ぬかもだけど」

「お金なら」

「金はいらないかな」

「……じゃあ、どう、すれば」

「分かってるでしょ」


 車は住宅地をくねくねと曲がりながら進み、家々よりも田畑が多くなっていき、徐々に人気がなくなっていく。

 三十分ほどして、山の麓の林の中で車は停まった。


 撫でられたり叩かれたりしながら受け答えをするKさんの肩は小さく震えていた。顔が隠れていて表情は分からなかったが、ぎゅっと握った拳には、彼女の葛藤が表れているようだった。

 期待に思わず胸とあそこが膨らんでいく。


「お、犯していいので、助けてください」


 Kさんの決意に対して、Dさんは何度も叩いて真っ赤になったそれに、平手で返事をした。


「違うだろ。犯していいのでって、俺たちが無理矢理やるみたいじゃん。ちゃんとお願いしろよ」

「……犯してください」

 何が気に食わないのか、Dさんはまた平手を打った。

「ごめんなさい。わ、わたしと、エッチしてください」

「ふーん、どうしよっかなぁ。Kちゃんはそんなにヤりたいんだ」

「はぃ」

「強盗に入られて、おばあちゃんがタコ殴りにされたのに、俺たちとエッチなことしたいとかさ、変態じゃん。謝れよ」


 パン、とまた平手が打たれる。「謝れ」「ごめんなさい」「謝れ」「ごめんなさい」「謝れ」「ごめんなさい」「謝れ」「ごめんなさい」謝罪と渇いた破裂音が車内に木霊した。


 何度か繰り返されたのち、Dさんは満足したのか、ベルトを外してズボンを下ろした。太くて長くて黒々とした、浮き出た血管の脈動するバキバキに勃起した性器が顔を出す。


「そこまでお願いされたら、しょうがないからヤってやるか」


 Kさんのパンツを下ろして腰を落とさせ、Dさんは自分の性器を彼女の性器へなぞるように擦りつけた。


「自分で挿入()れろ」


 堅く閉ざされていた岩戸が開かれるように、鬱蒼と生い茂った密林に絡まれている黒い扉が縦に割れ、中から赤々として恍惚に濡れた洞窟が入り口を見せる。

 兎の巣穴の入り口を探り当てた蛇が、導かれるままにその頭を潜り込ませていった。


 すすり泣く声に、甘い吐息が混ざり、重たく柔らかいものを押し付けるような、平手打ちとは違う音が車内を満たした。


 腕を引かれ、反るように上体が起き上がったかなさんの顔が目に映る。泣きながら歯を噛みしめる表情はしかし、どこか俺を誘っているように艶めかしく、これ以上ないほどに気分を高揚とさせた。

 俺の股間は痛いほどずっと立ちっぱなしで、今にも爆発してしまいそうだった。


「あー出る。おら、どこに出して欲しいんだ」

「へっ、そ、そとに」


 リズミカルな腰つきの中に、幾度と聞いた平手がまた打たれた。Kさんはびくりと体を震わせて、「な、中に」と訂正ののちに懇願する。


「あー、出る出る出る、んんっ」


 一際深く腰を打ち付けたDさんは、マーキングでもするようにぐりぐりと奥へ擦り付けてから、ゆっくりとその穴から聖剣を引き抜いた。白濁とした粘液に濡れたそれは、出てくる勢いと反った力に反発し、上下にたわんで振れた。聖剣を抜かれた台座の方はと言えば、遅れて白い潤滑剤が漏れ出るばかりか、ひくひくパクパクと壊れたみたいに口の開閉を繰り返している。新たな得物が差し込まれるのを期待しているようにも見えた。


 二人の切れ切れの呼気で増した車内の湿度に、「次は俺が」否応なしの期待に、言葉を小さく先走らせてしまう。


「X、お前童貞?」


 じっと見つめる視線に気が付いたDさんが、ニヤニヤと尋ねてきた。

 俺は何と返すべきか少し迷って、「え、あ、はい」と素直に答えていた。


 きっと、同級生などに訊かれていたら、条件反射で「童貞じゃねーよ」などと答えていたことだろう。だが、腹など減っていないと見栄を張って餓死するよりも、恥を受け入れ、どんなに惨めであろうともお恵みを頂き、今日を生き延びた方が賢いに決まっている。


「じゃあ特別に次ヤらせてやるよ」


 騎手の鞭を受けてその意図を察する馬のように、パチンと叩かれたKさんは「入れて下さい」と言わんばかりにそれを広げて向けてきた。


 すっかり扉を開いたままの秘部から目が離れない。


 自然と笑みがこぼれていた。


 焦る手が上手くベルトを外させない。


 パンツごとズボンを下ろし、つい先ほど会ったばかりの人たちの前で下半身を露出させている羞恥も何も感じない。


 今はただ、このパンパンに膨れ上がった煩悩と性欲の熱い塊を発散したいという欲求に従うだけだ。


 どこから入れればいいのかは一目瞭然であったが、意外にもその入り口は狭くて堅く、すんなりと受け入れてくれるというわけでもなかった。Dさんがやっていたように、その扉の境目を上下になぞり、ぐぐぐっと強く押し込んでみる。


「お、おおっ」


 赤々と燃える爆発寸前の火口が、穴を押し広げながら入っていく。頭が入ればそれ以上の抵抗はなく、奥までずんずんと進んでいった。


「童貞卒業おめでとー」


 パチパチと拍手をして祝われてようやく、実感することができた。

 俺は今日初めて、女性を犯したのだ。齢十六にして、大人の仲間入りを果たしたのだ。そんなことが、どこか誇らしく思た。


「ヤってみた感想はどうよ?」

「いや、よく分かんないっす」


 挿入したことで少し平静を取り戻し、感覚を味わう余裕ができたけれど、正直なところ気持ちがいいのかよく分からなかった。ワンストロークしてみると、たしかにひだのようものが絡みついてきて、快感らしきものが鼠径部へと込み上げてくるのだが、中と自分のそれが熱すぎて、また今にも暴発してしまいそうなほどに過充填されているために、あまり感覚がないというのが正直なところであった。


「ま、最初はそんなもんだろ。慣れりゃ気持ち良くなるから」


 Dさんは今日一番の優しい顔つきと声色でそう言うと、「口空いてんだから舐めろよ」Kさんの頭を掴んで、一発出してもまだなお聳え立つバベルの塔をその口へと押し込んだ。


「ぐぼぉっ」


 喉の奥まで押し込まれたKさんは苦しそうに下品な音を漏らして嘔吐き、瞬間、きゅっと穴の中が狭まった。予想外の圧力に我慢が解かれ、ギリギリのところで保っていた火山が噴火してしまう。


「あ、ああぁっ、ああっ!」


 これまで経験したことのない快感が一気に押し寄せてくる。膝ががくがくと震えて立っていることができず、車のシートに深く体を預けた。ポン、と音を立てて引き抜かれた自分の息子からは、なおも白いマグマがびくびくと溢れ出ていた。Kさんの方はと言えば、上の口も下の口からも垂らした涎で車を汚していた。


「もうイったのかよ! 三擦り半じゃねーか、早すぎだろ」


 愉快そうに笑われて、急に恥ずかしさが湧いて出てきた。しかし、快感に呑まれた脳では反論する余力がどこにもない。


「あ、そうだ」


 Dさんがシートの下にある自身の鞄をまさぐり、指先よりも小さくて白い錠剤を取り出した。バベルの塔の攻略を断念させられたかなさんが苦しそうに咳き込む中、その口に錠剤が放り込まれた。


「飲め」


 かなさんは小刻みに首を横に振って抵抗した。


「ただのピルだっての。まあ、妊娠したいならそれでもいいけどな」


 裏がありそうなほど、諭すような優しい口調のDさんの言葉をどうしてか信じたKさんは、口に含んでいた錠剤をごくりと喉を鳴らして飲み込んだ。


「うーし、じゃ二回戦だ」

「待て待て、次は俺だろ。X君、そこどいて」


 それまで静観していたBさんが助手席から身を乗り出してくる。すっかり萎びた息子を前にしては従う他になく、俺はシートを跨いで一つ後ろの座席へと移った。


「んんっ」


 本人もノッてきたのか、Kさんはより開放的な艶のある声を出し、リズミカルな目合(まぐわい)と、スライムでもかき混ぜているかのような音がまた、車内に充満し始めた。


「そういやさっきのあれ、ピルじゃねーから」


 唐突にカミングアウトされたDさんの言葉に、Kさんは驚きで目を見開いた。だが、どちらの口もいっぱいいっぱいに肉棒を咥え込んでいるので、会話はまるで成立しない。


「え、じゃあなんなんですか」


 気になった俺は、代わりにDさんへ質問した。Dさんは待ってましたとばかりに、得意気な笑みを浮かべて言った。


「麻薬入りのラムネ」

「まやく……」


 まるでフィクションの中にしか存在していないと思えるほどに馴染みのない言葉を復唱する。これまで、強盗、暴行、強姦と犯罪行為を重ねてきてもなお、現実のものと認識するには至らなかった。

 それはKさんも同じだったようで、さーっと見るからに顔が青くなっていった。


「ま、ちょっと馬鹿になって気分が良くなるだけだから」


 フィニッシュを決めたBさんは「ふぅ」と一息ついて、残った精液をKさんの太股に擦り付けていた。


「次誰ヤる?」


 俺が、と手を挙げたいところだが、順当にいけばまだヤっていない運転手のCさんの番というのが筋な気もする。


 またYはといえば、興味がないとばかりに俯いているものの、時折、行為を羨ましそうにちらちらと覗いていた。ばれていないとでも思っているのだろうか。Yがそれと分かるほどはっきりと勃起しているのを俺は見逃していなかった。でも、お前には加わる権利なんてないのだ。


 ——こいつはこの先一生童貞なんだろうな。


 俺は心の中でYを嘲り、鼻で笑った。

 それから俺たち四人は順番に飽きるまで輪姦(まわ)したあと、薬も効いてピクピクと痙攣したまま動かなくなったKさんを裸のまま林の中へと投げ捨てて、心地よい疲労感を伴いながら帰路へと着いた。



 冷房の効いた部屋に毛布でくるまりベッドの中にうずくまる。ここ数日の時間間隔が曖昧で、初めての強盗をした日からおそらく三日が経過していた。眠れない日々が続いている。目を瞑っても脳はずっと覚醒していて、気絶するように眠れたかと思えば、一時間もしないうちに目が覚めるのだ。


「たすけて」


 二軒目の家にいたあのお婆さんの声にも似た声が、耳元を離れず、ずっと聞こえていた。

 カーテンの隙間から朝陽が差し込んでいる。


 母親には風邪だと言って会話をしていない。一度だけ様子を見にドアをノックされたとき、思わず怒鳴ってしまって以降、薬と食事を部屋の外に置くだけで、それ以上の干渉はされなくなった。今はとにかく一人にして欲しい。


 スマホの画面をぼんやりと眺める。

 Aさんたちからの連絡はまるでない。


 本当なら、あの強盗の三日後くらい、つまり今日にでも新たな場所へ赴く予定だった。しかし、その日のうちにCさんが警察に捕まったらしく、別のメンバーを探さなければいけなくなったと連絡が入った。そのせいで次の日時は未定となっていたし、追加で連絡が来ることもなかった。


 ——早く、次に行きたい。


 遠くでインターホンの鳴る音が聞こえた。気付けばもう八時手前だ。この時間なら通勤通学などの準備を整えている人々がほとんどではあるものの、一応はまだ早朝である。しかも学生は夏休みだし、俺にはこれといって用事も何もない。いったい誰が何の用でやってきたのだろうか。


 ——もしかして、Bさんたちか?


 俺の頭の中にその可能性が降って湧いてきて、しかし、やはり連絡はまだない。

 いや、直接連絡をしに来てくれたのかもしれないし、このまま直行するという線もあり得る。

 階段を上る音がする。部屋のドアがノックされた。


「X起きてる? ちょっとあんたに用があるって人が来てるんだけど」


 やっぱり!


 俺は毛布を剥ぎ捨て、ベッドから飛び起き、逸る気持ちをそのままにドアを開けた。


 母は飛び出てきた俺に驚いていたが、そんなことはどうでもよかった。


 ドタドタドタ、と急いで階段を下りていく。


 階段の一番下、玄関を視認して足が止まった。


 立っていたのは知らない人たちだった。


 真夏だというのにジャケットを着てネクタイを締めたスーツ姿の男性が二名。片方は二十代後半くらいで若く、片方は四十代、五十代くらいのおじさんだ。思わず生唾を飲むほどに、どちらも張り詰めた空気を纏っていた。


 二人の視線が俺を捉えたのが分かった。


「君がX君かな」


 おじさんの方がそう尋ねてきた。声は穏やかで、犬の散歩でもしているような柔和な表情に切り替わった。「はい」久しぶりに声を出したので、喉が詰まり声が掠れる。


「私たちはこういうものなんだけど」


 おじさんはポケットから手帳を取り出し、開いて中身を見せる。距離があってきちんと見えたわけではないけれど、そのシーンはドラマなどでよく見る警察のそれだった。若い方の人もおじさんに倣って手帳を開いて見せた。


「少しお話を聞きたくてね、今時間大丈夫?」


 カラカラと喉から水分が消えていく。その乾いてひび割れた亀裂が肺と心臓に届いて、裏側にある心もろとも崩れて粉になりそうだ。


 ——助けて。


 またあの声がした。でもその声は自分のもののようであった。

 頭は真っ白だ。プログラムされた機械のように、「はい」絞り出された諦めが体を動かす。

 促されるまま靴を履いて、玄関のドアが開かれた。


「X」


 名前を呼ばれて反射的に振り返ると、階段を下りてきた母と目が合った。母はあのお婆さんと同じ被害者の目をしていた。


 いや、と俺は考えを改める。

 あの目は被害者の目じゃない。

 あの目は、犯罪者を見る目だ。

 俺は紛れもなく犯罪者になったのだ。

 目を伏せ母から視線を外す。

 玄関のドアが虚しく閉まる。


 おじさんと若い人に挟まれながら車に案内された。おじさんたちの代わりに、女の人が家の中へと入っていくのが見えた。


 一見するとパトカーには見えない車の後部座席に、警察官の二人に挟まれながら座席に座った。

 おじさんが一枚の紙を見せてきて、内容を読み上げた。

 何を聞かされているのか、内容はまるで耳に入ってこなかった。


「犯行に心当たりはある?」

「はい。俺がやりました」


 それを潔いと見るか、自暴自棄の精神錯乱による自己防衛の末期と見るかはそれぞれだが、そう答える以外に俺は言葉を知らない。


 ガチャリ、と手錠が掛けられる。


 手首に当たる鉄の輪は、初めて握ったバールよりもずっとずっと、冷たかった。

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