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カフェ・ソラリスの窓辺で ―― 少女たちの微熱と星座  作者: 霧崎薫
第1章:六角形のテーブルとカプチーノの泡
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第1節:カフェ・ソラリス、再び


 ざわざわとした喧騒と、新しい教科書のインクの匂いに満ちた一日がようやく終わる。新学期が始まって三日目。まだどこか身体が重たいような、浮足立っているような、そんな感覚を引きずりながら、わたし――天野ひまりは、カフェ・ソラリスの木製のドアを開けた。

 カラン、と真鍮のベルが軽やかな音を立てる。途端に、ふわりと漂うコーヒーの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、さっきまでの学校の空気がすうっと遠ざかっていくのを感じた。

「こんにちはー、星野さん」

「……いらっしゃい、ひまりちゃん」

 カウンターの奥で、いつものように静かにカップを磨いていた店主の星野さんが、穏やかな目でこちらを見た。白髪混じりの髪を後ろで一つに束ねている。口数は少ないけれど、その存在がこの店の空気を作っている気がした。

 いつもの六角形のテーブルには、すでに二人の姿があった。

「あ、ひまり! おつかれー!」

 手を振ってきたのは、橘葵。相変わらず、ボーイッシュなパーカー姿がよく似合っている。その隣には、高遠玲奈がすでに座っていた。綺麗な姿勢で、テーブルに置かれたティーカップを静かに見つめている。

「お疲れ様、葵、玲奈ちゃん。早かったね」

「んー、部活、今日はミーティングだけだったから」

 スポーツ万能の葵は、バスケ部のエースだ。玲奈ちゃんは、確か今日は委員会があったはずだけど。

「高遠さんは? 委員会は終わったの?」

「ええ。今日は早めに終わりましたの」

 玲奈ちゃんは、ほんの少しだけ口角を上げて答えた。相変わらず、表情からはあまり感情が読み取れない。育ちの良さが滲み出る丁寧な言葉遣いと、どこか人を寄せ付けないような、見えない壁。

《大丈夫かな、玲奈ちゃん。新しいクラス、まだ馴染めてないって言ってた気がする……》

 わたしは内心でそっと呟きながら、いつもの席――葵と玲奈ちゃんの間に腰を下ろした。六角形のテーブルは、それぞれが自分の領域を保ちつつ、顔を見合わせられる絶妙な距離感を作ってくれる。

「ひまりは何にする? あたし、もう頼んじゃった。クリームソーダ」

 葵が、いたずらっぽく笑う。彼女は時々、こうして子供っぽいものを頼むのだ。

「ふふ、葵はそれ好きだね。わたしは……カプチーノにしようかな」

「はいよー。じゃ、星野さーん! ひまりにカプチーノ!」

「……はいはい」

 星野さんの静かな返事が聞こえる。

 カプチーノ。ふわふわの泡が乗った、甘くて少し苦い飲み物。今の気分に、なんとなく合っている気がした。

 ドアベルが再び鳴る。振り向くと、そこに立っていたのは、長い三つ編みを揺らした一ノ瀬詩織と、少し遅れて入ってきた結城まひるだった。

「あ、詩織ちゃん、まひるちゃん! こっちこっち!」

 わたしが手招きすると、詩織ちゃんは少しはにかんだように頷き、まひるちゃんは相変わらずの猫背で、自分の足元を見ながらテーブルに向かってきた。

「……お、お邪魔します」

「……うす」

 詩織ちゃんは玲奈ちゃんの隣に、まひるちゃんはわたしの隣に、それぞれいつもの場所に座る。まひるちゃんは椅子に座るなり、大きなリュックから早速タブレットを取り出した。

《よしよし、これで五人……あとは》

 そう思った時、またドアベルが鳴った。

「……こんにちは」

 静かな声。白石紬が、ゆっくりと入ってきた。今日はマスクはしていないけれど、少し顔色が白いかもしれない。

「紬! 大丈夫?」

 思わず声をかけると、紬はふわりと微笑んだ。

「うん、大丈夫だよ、ひまりちゃん。ありがとう」

 彼女は、わたしたちのテーブルには加わらず、少し離れた窓際の、いつもの二人掛けの席へと向かった。そこが彼女の定位置だった。

 これで、いつもの六人が揃った。

 カフェ・ソラリスの、いつもの午後が始まる。

 すぐに、星野さんがカプチーノと、詩織ちゃんの頼んだアールグレイ、まひるちゃんのコーラフロート、そして紬の席にはポットサービスのハーブティーを運んできてくれた。

 わたしの目の前に置かれたカプチーノ。カップの縁ギリギリまで盛られた真っ白なミルクの泡が、ふるふると揺れている。その泡は、まるで今のわたしたちの関係みたいだ、とふと思った。

 一見、穏やかで、綺麗に調和が取れているように見える。けれど、その下には、それぞれの温度や味が隠れている。そして、この泡は、時間が経てば消えてしまう、儚いもの……。

《ううん、考えすぎかな》

 わたしは軽く頭を振って、スプーンで泡をそっとすくった。口に含むと、ミルクの優しい甘さが広がる。

「でさー、新しいクラスの担任、めっちゃ怖くない?」

 葵が口火を切った。新学期の話題。誰もが共有できる、当たり障りのないテーマ。

「そう? 私は結構好きだけどな、ああいう厳しい先生」

 葵の言葉に、玲奈ちゃんが静かに反論する。

「えー、まじで? 玲奈はほんと、真面目ちゃんだよなあ」

「真面目なのではなくて、合理的かどうかの問題ですわ」

《あ、また始まった》

 わたしは内心苦笑しながら、二人の会話に耳を傾ける。対照的な二人のやり取りは、いつものことだ。

 隣のまひるちゃんは、すでにコーラフロートのアイスをすごい勢いで食べ終え、タブレットの画面に夢中になっている。時折、「ふむ」「なるほど」と呟いているけれど、わたしたちの会話は聞いていないだろう。

 詩織ちゃんは、紅茶のカップを両手で包み込み、静かに目を伏せている。彼女はこういう、少し棘のある会話が苦手なのだ。きっと、頭の中では好きな物語の登場人物が駆け巡っているのかもしれない。

 そして、少し離れた席の紬は、窓の外を眺めながら、ゆっくりとハーブティーを飲んでいる。彼女はこちらの会話を聞いているのかいないのか、その表情からは窺い知れない。ただ、その横顔は、まるで一枚の絵画のように静かだった。

 六角形のテーブル。六人の少女。

 カプチーノの泡の下には、どんな味が隠れているんだろう。

 わたしはもう一度、カップに口をつけた。泡の下から現れたコーヒーは、思ったよりも少しだけ、苦かった。

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