導く灯火
――7年前。
「あ、ぐっ……うぅ……」
腹部を中心に深い傷を負ったクルトは、うつ伏せに地面へと倒れていた。
当時、まだ一介の傭兵でしかなかったクルトは、貴族の指揮下で群れの首領と衝突した。そうして敵を討ち取ったは良いが、最後の足掻きで、致命傷を負ってしまった。
血が止まらない。激痛に意識を失ってしまいそうだったが、そうすれば二度と目覚められないだろうことは、感覚で分かった。
(誰か、治療を……くそ。声も、まともに……)
「構わん! 獣人の治療は後回しにしろ!」
「は? し、しかし閣下、彼は……」
「そいつらは頑丈だ、放置しても簡単には死なない。それよりも、人間を優先すべきだろう?」
(……なんだ、それは。限度がある、だろう。致命傷であることは、見れば分かるはず、なのに)
指揮官である伯爵が、獣人に偏見を持っていることには気付いていた。だが、まさか仲間の立場で、そこまでするとは思わなかった。敵の首領を討ち取ったクルトを認めるどころか、これ幸いと見捨てようとするなどと。
周りの者たちも、躊躇いがちながら、クルトを助けようとはしてくれなかった。辺りにいるのは伯爵の配下で、主人の機嫌を損ねないことは、獣人ひとりの命より大事らしい。
「……だ、れ……か……ぐっ! げほっ、ごほっ……!」
絞り出した懇願に、応えるものはない。伯爵が、小馬鹿にするように鼻で笑っただけだ。他のものは、後ろめたさに目をそらす。
咳き込むたびに激痛が走る。肋骨まで折れていた。呼吸が上手くできず、溺れているように苦しくなっていく。
喉の奥から、鉄のような味がこみ上げて、吐き出した。地面に広がる血の全てが、己の身体から溢れたものだと思いたくない。
ひどい寒気で、震えが止まらない。身体から、何もかも抜けていくようだった。いよいよ最期が迫っていると、悟ってしまう。
「……ぅ……かはっ……」
苦しさに耐えきれず、意識が薄れていく。震えの原因に、様々な感情が混じった。
死は、戦士である彼でも恐ろしくてたまらない。そして今は、それと同じぐらいに、虚しかった。
獣人という存在を、少しでも認めさせたいと思っていた。この国で皆が不自由なく生きられるようにしたかった。そのために、大きな戦いで成果を上げようとした。その結果がこれなのか、と。
(……せめて、最期は……。こんな気分で、終わりたくは、なかった、な……)
憤怒や恐怖、絶望すら通り越し、何もかもどうでもよくなるような諦観が心を満たす。そのまま、己の終わりを受け入れようとする直前――誰かが駆けてくる音が、聞こえた。
「――何をしているんですか!!」
(………………?)
「し、神子さま!?」
「どうしてこんな重い怪我の人が放置されているんですか!? 早くしないと死んじゃいます!」
「そ、それは。獣人ですので、それより人間を……」
「獣人も人間もこんな場で違いがありますか! ああ、酷い……! 安心してください、もう大丈夫ですから!」
暖かな光が、クルトの全身を包む。途端に、苦痛が少しずつ和らぎ、出血が緩くなっていく。
神子。強い癒しの奇跡を宿した救済の乙女。当時のクルトでも、その存在は知っていた。この作戦でも、後方支援として待機しているのは把握していた。
だか、前線まで出てくるとは予想だにしておらず、想定外の事態に周囲のみならずクルトも驚きがあった。
獣人も人間も違いがあるか、と声高に叫んだことも含めて。
「そもそも、なぜあなたがここに……! あなたに万が一があれば私の責任……い、いえ、国の損失なのですよ!」
「ここに、私にできることがあるからです! 今はそれよりも……ひとつでも多くを救う方が大事でしょう! そうじゃなければ、何のための力ですか……何が神子ですか!」
少女が、己の手を握る感触が伝わってきた。勇気付けるように、しっかりと。
「しっかりしてください! 聞こえますか? 必ず助けるから、頑張って……!」
傷が塞がっていく。呼吸も安定していく。他とは桁外れと言っていい治癒の力が、生死の境からクルトを引きずりあげる。無論、失った体力がすぐに戻るほど、都合良くはないが。
ぼやけた視界に映る彼女の表情には、確かな恐れを感じた。戦場に出てきたのならば当然だと思ったが、すぐにそれだけではないと気付く。必死にクルトに語りかけるその様から、彼女がこの瞬間に何より恐れているのは、目の前の命が救えないことなのだと理解した。
(……ここに、できることが、あるから……か)
貴族にまで逆らい、己を助けてくれている彼女。朦朧とする意識の中、先ほどの言葉は、クルトの脳裏に強く刻まれていった。
(……ああ。そうか。このように、立ち向かう、人も……いるの、だな――)
「そこで気を失ってしまってな。貴女には、礼のひとつも言えずじまいだったが」
聞き終えたリアは、納得すると同時に驚きを隠せなかった。彼女とて、あれだけの戦場に関わったことは覚えていた。しかし、今の今まで、あの獣人とクルトを紐付けることはしていなかった。
「……気付きませんでした。あの人が……クルト様だった、なんて」
「声のひとつも聞いていない相手だ、それはそうだろう」
種族が違えば外見の相違も分かりづらい。ましてや、血濡れで倒れていた姿しか見ていなかったのだ。
「殿下から聞いたが、あの後、直談判してくれたのだろう?」
「……酷いと思いましたから。そういうことがないように、お願いをするくらいしか出来ませんでしたが……」
「十分だったさ。おかげで、軍の管理も改善されていったからな。……命を救われたこともだが、貴女の言葉は、俺の指針になった」
「指針?」
「元々、獣人の立場を良くしたいと思っていた。人間はどうして認めてくれないんだ、とも。だが、それもまた、種族の偏見と大差ないと気付いた。獣人も人間も、身分もなく……やるべきことを貫いた貴女を見てな」
僅かな邂逅ではあった。だが、そこで見たリアの姿は、クルトにとってはとても煌めいて見えたのだ。
「俺ひとりにできる事は限界があるのだろう。それでも、誰にとっても少しでも良い世界を目指したいと……そう、思うようになった。だからこそ、領主という立場も受け入れたんだ」
「………………」
「少し話が逸れたな。ともかく、これが俺の動機だ。己が命を助けられ、領民まで救われた。助ける理由として、不足はあるか?」
リアはしばし黙した。それを不足と言ってしまえば、彼らの命を軽んじることになる。それでも、踏み出す最後の一歩は、やはり恐ろしい。
「……本当に。良いのですか……?」
「無論だ。理不尽に屈する必要など、どこにもない」
狼の言葉は、不思議とすんなり心に届くものがあった。その力強い言葉は、リアの弱さを、恐れを溶かしてくれる。
「俺を信じろ。今の俺には貴女を、民を守り抜く力がある。……諦めなくていい。貴女はここにいていいんだ、アゼリア」
そうして、クルトは静かに、リアへと手を差し出した。諦めなくていい。その言葉を、リアは反芻した。
(そうだ。私は、どこかで……投げやりになっていた)
雪原で倒れてからずっと、近付く終わりをどうしようもないと思っていた。目を逸らしていただけで、間違いなく諦めてしまっていた。
今も半分は、ここにいるべきでないと思ってしまう。彼の善意に触れるほど余計に、彼を巻き込みたくないという気持ちも強くなる。友に裏切られた恐怖も、未だ残っている。
だが。残り半分の心が声を上げる。
まだ諦めたくない、という声を。そして、それを思い出させてくれた、目の前の男を信じたいという声を。
彼女の内側に残されていたものが、ゆっくりと身体を動かした。
(私、この人を、信じてみても……いいかな……?)
リアは、導かれるように狼の手を取っていた。
――彷徨い続けた闇の中。ようやく見付けた灯火は、暖かく彼女の手を握り返した。