ヴァイスベルグの街で
リアが拾われてから、10日後。
「うん……そろそろ大丈夫、かな」
ベッドから起き上がると、リアは軽く身体を動かし、調子が戻ってきたことを確かめる。病み上がりの重さは残っているが、動くには十分だろう。
だが、身体が治るほどに、彼女の心は重くなった。完治したその時、また逃亡が始まるのだから。
(怖い。でも……この街の人を巻き込むよりは、ずっといい)
己の心に鞭を打ち、覚悟を決める。そんな時、ドアをノックする音が聞こえてきた。
入ってきたのはクルトだ。水と薬を持っている。
「調子はどうだ、リア」
「はい。もう、普段通りに動けそうです」
助けられてからリアが特に驚いたのは、領主であるはずの彼が、自らこうして看病してくれたことだ。使用人たちも良くしてくれたが、顔を見せた回数は彼が最も多い。
(結局、私の事情も聞かずにいてくれたし……)
不審者であるはずのリアを、甲斐甲斐しく世話してくれたクルト。淡々とした振る舞いは相変わらずだが、彼が優しい人物なのは十分に理解できた。深く感謝すると同時に、申し訳なくも思った。だからこそ、これ以上は甘えるわけにはいかない。
「長い間、ご迷惑をおかけしました」
「大したことではない。それから、すぐに無理はするなよ。数日は、軽く動いて慣らす程度にしておけ」
「あ……その」
このまま、ここを離れる話をしようとしたのだが、先に釘を刺された。それはもっともな言葉だが、今の彼女はそういうわけにはいかない。
しかし、黙って出ていけば捜されるだろうし、余計な負担をかけるだろう。どうしたものか、とリアが考えていると、クルトはこう続けた。
「とは言え、屋敷に詰め込まれているのも辛いだろう。そこで、良ければなのだが――」
それから少しして。リアは、クルトに連れられて、ヴァイスベルグの街へと出ていた。
街中はかなり雪深いが、クルトに渡された防寒の魔法石のおかげで、そこまで寒さは感じない。
彼の提案は、自ら街を案内するというものだった。最初は申し訳ないと断ろうとしたが、客人をもてなすのも勤めだと押し切られた。
拒否をしすぎるのも余計に不審だろうし、リアの側も、旅立つ前の支度に必要なものを確認したかった。
「居住区を通って市場方面に向かう。この街を知るには、あそこが一番だからな」
「分かりました。甘えるのは申し訳ないですが……今日はよろしくお願いします」
「任せておけ。貴女は、この辺りに来たのは初めてと言っていたな」
「はい。私は首都の辺りで活動をしていたので、北方には来る機会がなくて」
「そうか。市場は首都にも負けていないから、楽しみにしておくといい」
己の街を語るクルトは、誇らしげに見えた。抑揚の少ない声から、少しずつ雰囲気は感じられるようになってきた気がした。
リアも、これからのことを思いつつも、楽しみだと感じる部分は確かにあった。
(……うん。今くらいは、いい思い出になればいいな……)
期待と寂寥がないまぜになった気持ちで、リアは狼に先導されて、雪降る街中を歩いていった。
居住区を歩いていると、クルトの領主としての在り方がよく見えた。街の皆が、彼を見付けると親しげに声をかけてくるのだ。
「お、クルト様! 良い肉が取れたんで、さっき屋敷の方にお届けしましたよ!」
「そうか。今晩の楽しみがひとつ増えた、感謝するぞ」
「クルトさま、みて! あたらしい魔法、使えるようになったんだ!」
「ああ、凄いな。しっかりと頑張ったようだ。君の将来が楽しみだな」
「おや、クルト様。女性と二人きりとは珍しい。デートですかい?」
「……彼女は客人だ。あまり失礼のないように頼むぞ、まったく」
クルトの側も、それにしっかりと応えていく。子供相手には目線を合わせて、誰とでも対等に、真っ直ぐに。いつもこうなのだろう、とリアにも分かった。
さすがにデート呼ばわりにはリアも少し焦ったりしたが。そう言えば恋人はいないんだな、とも思った。獣人は数が少ない、というのを差し引いても、意外に思える。
「すごく慕われているんですね。こんなに距離の近い貴族は、初めて見たかもしれません」
「貴族の意識が足りないと、よく会合では小言を言われるがな」
確かに悪く言えば、貴族らしくないのは事実なのだろう。もっとも、本人にそれを気にする様子はないが。
「俺の生まれはこの地方だ。顔見知りも多い中で、偉ぶるのも性に合わない。役割に必要な最低限は、わきまえてはいるつもりだがな」
「私は、偉ぶるだけじゃなくて、行動で示せるあなたの方が素晴らしいと思いますよ?」
「……そうか」
「あ……失礼しました! 部外者の私が、こんな気軽に……」
「いや。難しい話ではあるが、そう言ってもらえるのは嬉しいものだ」
嬉しい、と言いながらも、表情は相変わらずの仏頂面だ。獣人の表情は少し分かりづらいと言われるが、彼の場合は個人の性格だろう。
この人が感情を表に出すことはあるのか、などと、さすがに失礼なので口には出さないが。
そうしているうちに、目の前が賑やかになってきた。
「本当に大きな市場……」
「色々と見て回るとしよう」
それから、クルトの先導で、様々な店を回った。初めて見る北方の市場は、首都にも劣らず、それでいて独自の文化も色濃く見える。
良質な魔石のアクセサリ。地産の獣から取れた肉に、その毛皮を加工したもの。それから、この雪深い地で最も人気の食品は、意外にも海鮮なのだと聞かされた。
クルトはリアの興味が向いたものを買ってくれた。最初は断ろうとしたリアだが、領民の商売が潤うのは自分のためだ、というクルトに押し切られた。物静かだが、意外と押しが強いのかもしれない。
クルトの薦めで買ってきた焼き蟹を、おずおずと口に運ぶ。途端に、濃厚な蟹の旨味が口に広がった。
「おいしい……!」
「そうだろう。気に入ってくれたか?」
「ええ、とても。……ふふ。のんびり食べ歩きだなんて、久しぶりにした気がします」
思わず顔をほころばせたリア。その様子をクルトは見守るように眺めていたが、やがて口を開く。
「少しは元気が出たようで、何よりだ」
「え……」
「目を覚ましてからずっと、思い詰めた顔ばかりだったからな。まるで……ここにいること自体に、罪悪感でもあるかのように」
はっきりと言われると、リアは言葉に詰まった。そんな彼女に、踏み込むことを決めたらしいクルトは、言葉を続ける。
「ひとつ尋ねておく。身体が治った後は、ここを出ていくつもりなのか?」
「それは……」
リアはクルトの眼差しから逃れるように、目線を落とした。だが、こうもはっきりと問われた以上、誤魔化すこともできない。
「はい。これ以上、あなた達にご迷惑はかけられません」
「事情があるのは分かっている。だが、そんな顔をした人をそのまま送り出すほどに、薄情ではないつもりだ」
「……クルト様」
「これでも俺は貴族だ。話してもらえれば、力になれるだろう。……聞かせてはくれないか、リアのことを」
「……お気持ちは、嬉しく思います。ですが、あなた達を巻き込みたくないんです」
何も聞かずに助けてくれて、こうして手を伸ばしてくれる。そんな相手だからこそ、危険に晒すわけにはいかないのだと。だが、リアだけでなく、クルトも譲る気はなさそうだ。
「極力はリアの意思を尊重しようとは思っている。だが、その結果、貴女が自分の身を――」
だが、そんな時。
近くで炸裂するような爆音が響いた。