獣の辺境伯
目を覚ました時、そこはどこかの室内だった。
「……生きて、る……?」
状況の差異に混乱した様子の女性は、身体を起こそうとしたが、力が全く入らずに断念する。自分がひどく発熱して、弱っていることは理解できた。
何とか視線だけを動かすと、室内はかなり広く、置かれた調度品も質の良いものばかりだった。貴族の屋敷だろうか、と彼女は思案する。
そうしていると、扉が開く音が聞こえた。誰かが入ってきて、足音がこちらへと近付いてくる。
視界に映った人物の姿に、女性は驚いたように少し目を見開いた。
「目を覚ましたか」
静かに響く、低い男性の声。黒を基調としたスーツを身に纏った男。身分の高さを伺わせる身なりだったが――驚いたのはそこではない。彼自身の見た目だった。
全身を覆う深い青の毛皮。2メートル近い巨躯の上にあるのは、獣そのものの頭。男は、狼の獣人だった。彼女も初めて見るわけではないが、この国では珍しい種族だ。それに、このように整った服装の獣人は、今までにいなかった。
「あな、たは……」
「無理に動こうとするな。まだ、目を開けるのも辛いだろう」
凍死しかけて丸一日を眠っていたのだと聞かされ、彼女は身を震わせる。その様子にも、狼は表情を変えはせず、しかし静かに声をかける。
「案ずるな、ここは安全だ。貴女を脅かすものはない」
「すみ、ません……」
「謝ることではない。ともかく、意識が戻って何よりだ。雪原で見付けた時には肝が冷えたがな」
思いのほか優しい言葉に、女性から緊張が少し抜ける。少なくとも、害意がある様子ではないのは分かった。
「あな……たが、私を……助、けて?」
「普段は人の通らない道なのだが、見回りはしていてな。見付けられて幸いだった」
「あ……その、私、は……」
普段は人の通らない道。そこで倒れていた自分は、どう考えても不審者だ。何とか言い訳を考えようとしたが、その前に狼は首を横に振った。
「問い詰めているわけではないから、無理に話さなくていい。今は体調を戻すことだけ考えろ」
そう言いながら、狼の手が彼女の額にそっと触れる。やはり熱が高いな、と呟く獣の手はとても大きい。
「あな、たは……いったい?」
「俺はクルト・ランベール。この街、ヴァイスベルグを中心とした一帯の、領主を務めている」
「……領主、様……?」
ならば、ここは彼の屋敷なのか。予想外の答えだったが、女性もひとつ思い出した。
この国において、獣人種は数が少なく、そして地位も低い傾向にある。ここ100年ほどで移民として流れてきた彼らは、身体能力に優れるため傭兵としては重宝されるが、まだ偏見や恐れも残っており、差別の対象になりやすい。
そんな中、ひとりの獣人が辺境伯の爵位を得たという話は、大きな噂となっていたのだ。
つい3年前まで、人類は魔物の侵攻にさらされていた。彼らの王が討たれて今は沈静化しているが、それまでは多くの人々が戦いに巻き込まれていた。
この国でも幾度となく大きな戦闘が起こったが、その獣人は多大な戦果を上げ、戦場で第一王子を救ったこともあるらしい。
獣人に爵位など前代未聞だ。しかし、王は反対意見を押しのけた。防衛の要として彼以上の人材はいない、という王家のお墨付きを受けて、その獣人は北方の領土を任されたのだという。
「クルトでいい。貴族としての扱いには、あまり慣れないのでな」
「……クルト、様」
様もなくていいがな、と淡々と告げながら、不思議とそこに冷たさは感じなかった。低めの声は、聞いていると何だか落ち着く。
「貴女は……名前だけでも、聞いてもいいか?」
「あ。……リア……です」
咄嗟に答えてしまってから、彼女、リアは己の迂闊さに気付く。それは、彼女の本当の愛称だった。立場を考えれば偽名を考えるべきだったと気付くが、もう遅い。
幸い、獣人の領主、クルトは特に反応を見せなかった。
「分かった。では、リア。薬を用意するから、今はゆっくり休むといい」
最後まで表情を変えず、クルトは部屋を出ていった。彼自ら薬を持ってくるつもりなのだろうか。
考えることは山ほどありそうだが、リアも高熱で頭が回らない。クルトの言う通りに休むしかないだろう。そのまま、ベッドに身体を預ける。
「…………」
そうして、彼女は身体を震わせた。己が死に瀕したことへの恐怖。それ以上に、己が全てを諦めてしまったことへの恐怖で。自分の心があそこまで容易く折れてしまうのだと、自分でも知らなかった。それが、今になって恐ろしくなった。
状況も変わっていない。彼女は、逃げなければならない。今すぐ気付かれはしなくとも、ここにいることはいずれ知られるだろう。
(ここにも、長くはいられない。私の事情に、巻き込む前に……早く、出ていかないと)