恋、おしまい。
夢を見たことは告げずにいたんだ。
言ってしまうと百合香に微かな不安を与えてしまう気がして。
これ以上ないほどの幸せの中で生きていたとしても、それは百合香がいるからで。当たり前の話、百合香がいなくなってしまっても幸せでいられるかは、僕にはわからない。
夢は突拍子もなくて、何故か長い階段をあがった部屋に百合香と僕は住んでいて、僕が息を切らして階段をあがって部屋に戻ると、百合香は白い棺の中にいた。
百合香の飼っている白猫のハルは、窓辺でくつろいでいて、なんでハルは無事なんだ?と思った瞬間に目が覚めた。
ハルは可愛いし、もしも百合香に何かあった時は引き取るつもりでいたよ。でも、夢の中で百合香を失った僕は、残されたハルと過ごす意味を見つけられなかった。
あくまで百合香がいるから、取り残されたハルと一緒でも大丈夫と思えるわけで、百合香がいなくなった時、僕はハルを大切に思うことはできなくなるんだと、夢の中で悟ったよ。
百合香といる幸せの中でだから、愛しく思えるもの。それはきっとこの世界のすべてで、君を失えば、すべて色を失っていくんだろうなと思う。
いつもの喫茶店の窓際のテーブルで、白のワンピースを着た百合香は両肘をテーブルについて、両手の上に顎を乗せて、宙を見つめていた。
僕が向かいの椅子に腰掛けると、視線だけ僕に送って何も言わなかった。
僕はおはようと言いかけて、声が喉に詰まったのでやめにした。
テーブルの上に僕の分の水があったので、グラスを口に運んで、少しぬるい水で喉を潤してから、口を開いた。
「もう何か頼んだの?」
まだ、と一言瞳を閉じて百合香は言った。
素っ気ない態度をとりはじめたのは、もう2ヶ月くらい前からだろうか。
店員の女性が来て、注文を尋ねてきたので、僕はモーニングのセットをアイスコーヒーで頼んだ。
「私は、アイスレモンティーで」
店員を横目に見ながら、百合香は言った。
「食べないの?」
僕が聞くと百合香は、食べてきたから、と答えた。
同じことを共有することも、百合香は避け始めていた。予感はしていた。
「考えて欲しいんだけど」
百合香は言って、両手をテーブルに置いて、背を伸ばして僕を見た。
「何を?」
「お別れ」
冗談なんて微塵もない真面目な顔で百合香は言った。
僕は寂しさが息を吸う度に、全身を巡るのを感じた。
百合香が不安がるかもなんて心配は無用だったなと思った。夢が百合香の死を予期しているかもとか、ハルを僕が愛せないとか、君にとってはどうでもよいことだっただろう。
「なんで、急に」
予感はあったから、急にではない。でもそう言えば、2人で過ごす時間を少しでも稼げる気がした。
「愛されることに飽きたから」
「飽きたって、どういうこと?」
理解ができず、僕は聞き返した。
「私は恋人に愛されたいとか、そういう可愛いことを考えるタイプの女性じゃないなって、最近思ったの。達也は私を愛してやまないから、私が求める男性像とは違うなって、気づいた」
「それは僕が変わればいいってことじゃ」
「無理だよ。私が愛さなくていいって言ったって、変われないでしょ?どう変わるの?」
百合香が嘲笑して言ったので、何とか百合香を納得させる答えを僕は思案したけれど、何も浮かばなかった。
「無理だな。僕は百合香を好きすぎるから。ドライに接することもできない」
「でしょ?ずっと愛してくれてはいるけど、何かズレてるなって思ってたの。まぁ、私がそういう愛を求めてないからなのか、はじめから達也のことが好きじゃなかったのか、はっきりは言えないけど、ただなんとなく、自分が愛されて満足するタイプの女性じゃないことはわかった」
「それは、愛されるよりも愛したいってことで、僕は愛するには値しない男ってこと?」
「まぁそうかな。好みのタイプでは、正直なかったから、愛されても喜びが感じにくいのかもしれない」
僕は心底ガックリしながら、また水を飲んだ。
「ハッキリ言われるときついなぁ」
「何となく別れは匂わせてたでしょ?それでもわかってくれないから、やっぱりハッキリ言わなきゃって思ったの」
百合香がそう言ったところで、店員が僕のモーニングセットと彼女のアイスレモンティーを運んできた。
店員が去ると、僕は口を開いた。
「素っ気なくなったことには、気づいてたよ。でもよくある倦怠期か何かと思ってた」
そう思いたかっただけで、予感から、別れから目を逸らしていた。百合香が冷たく僕をあしらう度に、僕の心がどれだけ傷ついて切り裂かれたか、百合香にはわからないんだろうか。
それでも僕は、百合香を好きでいた。
「そう?私にはもうわかってるように見えたけど。私が別れたがってて、それを認めたくないだけって風に」
全部お見通しか、と僕は思いながら、アイスコーヒーを口に運んだ。なら僕が傷ついていたことも、わかっていただろう。それでも、最後の決定的な所、別れという僕にとっての絶望を、百合香は言えずにいたのか。それは優しさなのか厳しさなのか、気まぐれなのか。
「僕から別れを切り出すのを、待ってたわけだ。ずるいなぁ、いっそすぐにでもフってくれたらよかったのに」
僕が少し狼狽えながら、でも皮肉を滲ませて言うと、百合香は両腕と足を同時に組んで、椅子に深くもたれて、顎をあげて僕を見下げるような態度を取った。
「達也の方が私のことを好きなんだから、決めなきゃいけないのはそっちでしょ?じゃあすぐに別れたいって言って納得できたの?ウジウジ引き下がらずに、絶対に別れようとしなかったでしょ?今だってまだ何とかなると思ってる」
「そりゃすぐには無理だよ。好きだから百合香のことが」
「ありがとう。でももう私は達也とこれ以上、一緒にいる気はないから」
素っ気なく百合香は言った。出会ってから1年近く。こんな風に素っ気なくされて、別れるとは思わなかった。
僕はぼんやりと、窓の外を見つめた。朝の日差しが道路を照らしていて、人はいなかった。向かいの歩道を黒猫が歩いていた。
僕は黒猫を見ながら、無意識に夢のことを口にした。
「この間、夢を見てさ。長い階段の上の部屋に百合香と僕は住んでいて、僕が帰ると君は棺の中にいたよ」
「へぇ、死んでたんだ私。どんな気持ちになった?」
別段興味はなさそうに、百合香は言った。
「受け入れられなかったよ、当然。ハルは窓辺でくつろいでいて、なんでハルは無事なのに百合香がって思った」
百合香はふーん、と言って、アイスレモンティーをストローから飲んだ。
「僕は百合香に何かあったら、ハルを引き取るつもりでいたけど、夢の中ではとてもそんな気になれなくてさ」
「あー、ハルは私に何かあったら、佳奈が引き取ることになってるから、変な心配しなくていいよ」
百合香の言葉に、僕はその先を言いそびれた。百合香を失うと、それほど僕の世界は色を失って、何もかもが無駄に思えるんだよ。
「で、何がいいたいの?私を引き止める為にその話したんじゃないの?」
「いや、ただ何となく思い出しただけ。幸せなんて、百合香を失えば吹き飛んでしまう、そんな脆いものなんだなって。何もかも満たされているように思えても、何が欠けた途端、世界は変わってしまうんだなって。百合香を失っても、この世界を同じように幸せに感じられるか、僕にはまだわからない」
「私の存在だけで、世界が幸せだとかそうでないとか、そんな考え方して、情けなくない?」
切ない恍惚感を百合香がぶった斬り、僕はもう、居たたまれなくなって、トーストを半分急いで食べて、立ち上がった。
「何?どうしたの?」
百合香の問いに、僕はトーストをコーヒーで流し込んでから、答えた。
「もういいよ。百合香には、何もわからないんだって、わかった。人を好きになるってどんな気持ちか」
「好きになったことくらいあるよ。ただ、達也みたいに、その存在に幸せを左右されないだけ。いてもいなくても幸せでいられなきゃ、寂しさを乗り越えていけないでしょ?」
「幸せでいられなくて、寂しくて、何がいけないんだよ!それだけ好きだってことだろ!?その感情の何がいけないんだよ!」
「別に、捉え方が違うだけで駄目だなんて言ってないから。寂しくいたいなら、いればいい。でも私と達也の感覚はそれだけ違うんだから、一緒にいられなくなって当然だね」
「いや、百合香は俺を見下げている。失恋ごときでショックを受けて狼狽えてる俺を嘲笑ってる!」
「どうとでも思いなよ。私には関係ないから。もしかして優しくされたいの?慰めてもらって、私より良い人見つかるよとか、言って欲しかったの?それならさ、達也どれだけ私っていう人間をわかってないのって話になるけどね。私、そんなことするタイプの女じゃないよ?達也は私の何を見て好きでいたの?自分の幻想の中の私を見てただけじゃないの?」
僕は何も言えなかった。僕の中の百合香は、優しくてどこか儚げで守ってあげないと消えてしまいそうで。
でも、そんな百合香は今目の前にはどこにもいない。
僕は本当に何を見ていたんだろうと思う。1年、僕は僕の中の百合香と過ごして、目の前の百合香とは生きていなかった。
それが百合香が言っていた、何かズレてる感じだったんだろう。百合香は愛されたらきっと幸せになれる女性だ。僕が百合香でない、僕の中の幻想の百合香を愛していたから、愛に迷ってしまっただけだ。
「言っとくけど、ちゃんと私を見て、なんて私思ったことなかったからね。ああ達也何か勘違いしてるなぁ、でもまぁそんなもんかこういうタイプの男はって、何の期待もしなかったから。さっきは綺麗に別れたかったから、色々嘘ついたけど。それに今更本当の私を達也が見たところで、別れ話がなくなることはないから、もうこれ以上こじらせないでね」
また、お見通しだった。もう何も言えない。僕が思うことは百合香に筒抜けで、もう僕が出来ることは何もない。
でも何か、百合香に一矢報いたいような、そんな気持ちが湧いてきて、僕は思ってもないことを言った。
「じゅあせめて、ハルをさ、引き取らせてもらえないかな。百合香に何かあった時に」
「無理に決まってるでしょ。私の代わりにとか思われたらハルが可哀想だし、その考えも気持ち悪いし、だいたい世話できないでしょ。猫の世話をなめるな。はいっ、もうさっさと帰って。じゃあね。まぁ良い1年だったよ。色々貢いでくれてありがとう」
百合香は右手をあげて、僕が誕生日にあげたダイヤの指輪をひけらかしてから、バイバイと手を振った。
その瞬間、僕の心はスンと冷めて、百合香への気持ちもどこかへ行ってしまった。
最後に目を覚まさせてもらって、ありがとうございます。
悔しくて言えぬまま、僕は百合香に背を向けて、喫茶店を出て行った。
朝の日差しの中で、向かいの歩道に黒猫が、座って僕を見ていた。
嘲笑されている。僕は恥ずかしさに俯きながら、朝の空気の中、帰路についた。