夏休み3
人間とともに暮らしたことがなかったわけではない。
ただそれは相当昔のことで、無法者どもが勝手に集まって暮らしているようなところだったので、人の暮らしというものにここまで深く浸かったのは初めてだった。
そこにいるだけで呪詛と怨嗟を振りまく悪鬼であった頃を思えば、なおさらだ。
いくら正体を隠しているからといっても、こうして人間の家で、たいした害もなさずに過ごせているのは、もはや悪鬼としての力の多くを失ったからだともいえる。
さすがにそこらの妖にも、祓魔師にも簡単に負けることはないが、全盛期に比べれば十分の一ほどの力しかない。
なんという無様か。
すでに家を出た兄のものだという部屋を与えられ、飯を食べ、風呂に入り、布団で眠る。
最初は全てが鬱陶しく感じたが、すぐに慣れた。
四六時中実体をとっていることも当たり前になってきたほどだ。
俺が何なのかを知る者が見れば、たったひと夏で随分と腑抜けたものだと嗤うことだろう。
この生活を続けることになんの利がある。
温もりも平穏も、何の力にも、腹の足しにすらならぬ。
力も回復するどころか、弱まる一方であろう。
この夏が終われば、黒塚高校の地下に封じられているものを呼び起こし、何もかもをめちゃくちゃにしてしまうのだ。
学校も、街も、人間も、動物も、草木も、差別なく壊れ死ぬことは避けられない。
そうして人の怨念と憎悪から生まれたものとして、相応しい終わり方をする。
そうあれかしと定められた悪鬼として、呪いと死をまき散らす。
刻み付けてやる。
思い出させてやる。
世が光で満ちる前に。
呪いの声が消える前に。
そう決めたはずだし、今もそう思っているはずだ。
だというのに以前ほど意欲的でない自分がいた。
この暮らしを気に入っている?
まさか!
こんなぬるま湯もいいところの、単調で退屈な日々を?
そうだ、退屈は病だ。
穏やかさは毒だ。
俺は毒に侵されている。
あいつのせいだ。
ベッドの上で寝返りを打ち、天井をみあげる。
電気を消した部屋はほんのりと青い闇に包まれている。
その闇を見つめるうちに、一つの考えが浮かんだ。
あいつを殺してしまおう。
病巣は取り除くしかない。
俺は上体を起こし、久しぶりに実体を解いて黒い靄となった。
そして壁をすり抜け、隣の部屋に忍び込む。
ベッドのふくらみに近づき、相手がぐっすり眠っていることを確かめるため、真上から見下ろした。
眠る横顔は幼気で、柔らかな輪郭を描いていた。
盗み見ばかりしてくる瞳はいまは瞼の下に憩い、投げ出された手は中途半端に開かれていた。
靄から実体に戻り、枕元で膝立ちになる。
そっと髪の毛を払い、露わになった首筋に爪を少しだけ突き立てる。
プツン、と皮の表面が破れて、血の玉が浮く。
なんとも美味そうな血の玉だった。
つい唇を寄せて吸い取ると、久しく味わっていなかったからか驚くほどに甘い。
そういえば以前、こいつが鼻から血を出したことがあったが、あの時はまったくといっていいほどそそられなかった。鼻血だからというよりも、己の意思外で手が汚れたことが不快だったのだ。
さすがに血に飢えるほど知性と余裕を失ってはいない。
あの時はすぐに洗い流したというのに、今は進んで口に含むとは。
小さな傷はもう血が止まりかけている。
そのことを残念に思う反面、ほっとしている自分もいた。
なぜ?
己の感情が理解できずに、俺は眉をひそめる。
「……久羅くん」
はっと身を引き、俺は固まった。
起きたのか?どうごまかす?殺すか?それとも夢だと思わせるか?
しかし一向に目が開く気配はなかった。
まさか寝たまま、俺の名前を呼んでいるのか?
そろそろと顔を覗き込み確認すると、本当に眠っていた。
「お前は起きていても寝ていても俺の名前を呼んでばかりだな」
我ながら言っていておかしくなり、苦笑してしまう。
いろんな名をつけられ、呼ばれてきた。
そのどれよりも「久羅くん」と呼ばれた回数が一番多いだろう。
たった数か月のことだというのに。
そうして俺は理解した。
己の中にも幼稚で、愚昧で、陳腐な願望があったのだということに。
自分が散々見下してきたものが、己の中にも生まれえるのだということに。
……ああ、なんだ。
そんなことも俺はわかっていなかったのか。
「 」
初めて目の前の人間の名前を呼んでみた。
すると、すとんと肩の荷が下りたような、憑き物が落ちたような心地になる。
何も知らずにすやすやと眠っている丸い額に、自分の額を当てて俺は静かに息を吐いた。
小さく白い手に、そっと触れてみる。
簡単に握りつぶせてしまう柔さや、血潮の温もりは、はじめて知るもののように思えた。
諦観の境地で、俺は耳を澄ます。
穏やかな寝息だ。
俺のような恐ろしくおぞましいものを前にして、よくもまぁすやすやと。
なんと度し難い阿呆なのか。
本当に阿呆で、間抜けで、いっそ忌々しく、腹立たしい存在だ。
なのになぜこうも、愛おしい、などと思ってしまうのか。
そうして何もできないまま時ばかりが過ぎていく。
結局空が白み始めるまで、俺は彼女の寝顔を飽きもせずに眺めていた。