突然の明日ー春香の姉、秋香の世間のわな
「どうしちゃったの? 無視しないで何か言ってよ」
春香は、姉妹愛のあまり語気を荒くした。
「今は、一人にしておいて」
秋香は、ぶっきらぼうに答え、一人で缶ビールを一気飲みし始めた。
そのときだ。急にチャイムが鳴った。
ドアをあければ、なんと夏祭りの金魚すくいで知り合った、吉村康祐が立っていた。
「秋香さん、いらっしゃいますか?」
春香と康祐は思わず顔を見合わせた。
「あっ、君は夏祭りのときの子だね。秋香さんに、どうしても伝えたいとがあるんだ」
なんだろう。秋香を呼んできた。
「あれは、誤解だったんだ。僕が仕組んだこと? とんでもないですよ。僕はただ、部長の言う通り、ホテルのレストランを予約しただけ。それ以降のことは、僕、何も知らないんですよ」
春香は、康祐の話を聞いて、想像をめぐらした。要するに、クライアントから仕事をあげるなどと誘われ、その代償としてホテルの一室をとれと言われたのだろう。社内のセクハラと違って、相手がクライアントなら始末が悪い。
「何を信じようと、秋香さんの自由ですが、僕は秋香さんに誤解されたまま、終わりたくない」
そう言い残し、康祐は去っていった。
「私、今の仕事に女としての限界を感じてるの」
秋香がようやく、重い口を開いた。
「私は、一生懸命に後輩に仕事を教えてるつもりでも、上から目線の後輩いびりとしてしかうつってないし、クライアントには、セクハラまがいの仕打ちはしょっちゅうだしね。
オーナーに相談しても、取り合ってくれないの。僕だって、クライアントからいやがらせを受けることはしょっちゅうだ。しかし、僕はそれを自分の力で解決してきた。それに、その為に君に課長待遇に来てもらったんじゃないか。
君は今何歳なの? 小学生じゃあるまいし、セクハラなんて自分で処理しなさい。水商売の女性はどうなるの?といわれるのがオチよ」
「姉ちゃん、やるだけのことはやってみたらいいじゃん。でもどうしても、精神的に苦しかったら、お酒を飲む前に転職を考えた方がいいよ」
これが、私の姉ちゃんに対する精一杯の慰めだった。
翌日、春香は金魚すくい名人である康祐から呼び出され、新店したばかりのカフェにいた。
オープンしたばかりの真新しい店で、花が飾られ、クラシックの流れる素敵なお店。
なんだか、ちょっぴり大人になったようだ。
五分遅れて、康祐が二人連れで現れた。
「紹介します。この人、僕の信頼できる上司」
「初めまして。私は天体企画の宇根といいます」
ギョギョ、天体企画というと、アダルトビデオの制作会社だ。
「今日は、折り入ってお願いがございます。このDVDを引き取って頂きたいのです」
見ると、なんと秋香姉ちゃんが写っている。タイトルは‘美人派遣社員の不祥事’などと比較的古典的なタイトルだ。
「なんですか、これは。姉がこういうものに出演したとでもいうのですか?」
「そうですよ。なんなら、このDVD差し上げますよ」
嘘よ、そりゃあタレント志願の女が騙されたのならわかるけど、秋香姉はまったく芸能界には興味を示さなかったはずだ。
春香は、康祐に言った。
「どういうこと? それって金目的の恐喝なのかな?」
康祐は、沈黙を守っている。
「こういうのは、如何でしょうかね。康祐君」
その男は、今度は男性好みの紺色のパッケージのDVDを見せた。
なんと、康祐の尻丸出しの裸の後ろ姿が映っている。
タイトルは‘美少年狩り、ゲイ好みのあなたをイカセマス’などと書かれている。
確かに康祐は、美少年の部類に入るだろう。しかし、金のためとはいえ、こんなものに出演していたのか。
男は、にこやかなつくり笑顔で、紳士的な態度で話を続けた。
「このDVDはまだ、市販されていませんが、きっとかなりの金額に化けると期待できます。
誤解のないように言っておきますが、私はあなた、いやあなたじゃ失礼ですね、春香さんのお姉さな、秋香さんをこのような、猥雑で悪どい金儲けをしている連中から、救い出したい一心なんですよ」
男は、急にバカ丁寧な敬語に変わっていくが、それとは裏腹に目は欲望でギラギラと光っている。
こんな不気味な男は初めてである。いつかドラマで見た、サラ金会社の社長のようだ。
「このDVDは、もう百枚生産されています。これを春香さんに買い取って頂きたいのです」
要するに、これは金目当ての恐喝だな。
しかしDVDに内容は何なのだろう。
直接見てみなければわからないが、秋香姉さんは、いくら金のためとはいえ、こういう類のものに出演する人じゃない。
まあ、風俗と同じで好きでこういうアダルト系の仕事をする人はいない。たいていの場合は、借金地獄やタレント事務所まがいに脅されて、莫大な違約金を取られる、いやなら裁判沙汰になるとかいう話を聞いたことがある。
秋香姉ちゃんは、お人よしのところがあるから、まんまと引っ掛かったに違いない。
こういったことは、自分一人の胸にしまいこんで即決すると、あとで取り返しのつかないことになる。まず、誰かに相談することだろう。そうしないと、ドツボにはまり、孤独になり、もう世間は相手にしてくれなくなるほど追い詰めるのが、恐喝者の手口である。
相手はひょっとして、私をびびらせているだけかもしれない。
これは、悪い奴の典型的な手口だ。びびらせ、精神的に動揺させて、思考能力を鈍らせてから、自分の思い通りにさせるのだろう。
まず、家に帰って姉にこのDVDを見せて、問い詰めてみよう。
春香は、初めて口を開いた。
「一応、このDVDは、一枚だけ買い取らせて頂きますが、後のことは姉と相談してみます」
男はゆっくりと微笑みながら言った。顔はにこやかだが、目は鋭く春香に威圧感を感じさせ、自分の言いなりにならせようとたくらんでいるのが、ありありと肌に伝わってくる。
「まったく、世間知らずのお嬢さんだ。そんなのん気なことを言ってる間に、このDVDは、世間に出回っているんだよ。一刻も早く食い止めなきゃ。お姉さんのためにも、そしてあなたとあなたの家族の名誉と将来のためにも」
典型的な悪党のワンパターン手口である。一見相手の身になり、かばうような演技をしながら、相手をびびらせ考えるスキを奪い、まるでオレオレ詐欺のように大金をせしめようとする。
そりゃあ、確かに私にも世間体も将来もあるが、こんなことに屈服するものか。
だいたい、こんな男の言いなりになるのが悔しいし、この件に応じたら、どこまで調子にのって金をせびってくるだろう。もしかして一生つきまとわれ、骨の髄までしゃぶられるかもしれない。
そのとき、康祐が口を開いた。
「俺もこの人に騙された一人だ。芸能界でデビューさせてやるといって、信用したらこのザマだ」
康祐は、自分の出演しているホモビデオらしきものを見せた。
しかし、待てよ。今は合成写真どころか、フェイク動画も横行しているという。
こんなことで、いちいち金を払ってたらキリがないじゃないか。
春香は、バカらしくなった。
「勝手にどうぞ。こんな茶番劇につき合っているヒマはないわ。珈琲代だけは置いておきます」
春香は、小銭を置いてカフェを後にした。
まったく、世の中油断もスキもない、何に悪用されるかわからないから、肖像権許容書があるのだと思った。
それにしても、あの康祐という男性は、一体何者なのだろうか?
さきほどのDVD恐喝まがい男と組んで、私から金をせびり取るのが、魂胆なのだろうか?
そのとき、ドアチャイムが鳴った。窓からのぞくと、康祐が旅行カバンを持って立っていた。
「さっきはごめんよ。これ、君の姉さんのDVDだよ。全部押収してきたんだ」
見ると、百枚ほどのDVDが旅行カバンに入っている。
「これを私に買いなさいってわけ?」
康祐は、すねたように言った。
「そんな金儲け主義じゃないよ。これを引き取った方が、あんたらの身の為だろう。僕は金目当てじゃないんだ。第一そんなことをしたら、恐喝で逮捕されちゃうじゃないか」
まあ、それもそうだ。
康祐は、春香を見据えるように言った。
「実は俺、警官志望なんだ。だから、今から、探偵の真似ごとをしてるってわけ」
春香は、呆れたように言った。
「フーン。まるでサスペンスドラマみたいね。ほら、あるじゃん。警視総監の弟がルポライターのふりをして、警察顔負けの凄腕推理力で、事件解決するなんて話、その真似をしているの?」
「まあ、俺はあれほどの推理力はないけど、隠された迷宮入りの事件を解決しようとしていることは事実だ。世の中から、泣き寝入りしている人を出さないようにな」
春香は、疑問にも思っていたことを聞いてみた。
「あの、ゲイDVDは何なの? あれはあなたが出演したんじゃないの?」
「確かに、俺は顔出しで出演したよ。しかし、これも事件解決のためだ。別に本番したわけでもないし、エイズをうつされることもない。実際、外国の子供は、来日して騙されてゲイDVDに出演させられている子はいるんだよ。残念ながら、悪党に搾取されるのが目的だけどね」
「じゃあ、あなたのゲイ男優役というのは、世間を欺く仮の姿ってわけね。その正体は秘密探偵」
「まあ、そういうところだ」
春香は、なんだか自分がサスペンスドラマの主人公になったような気がした。
康祐といると、なんだかワクワクするようなスリリングな事件に巻き込まれそうだった。
「ねえ、あのDVDたかりまがいは何者なの? 正体は、インテリヤクザ屋さんだったりしてね」
春香は早速、康祐に聞いてみた。
「いや、正式に杯をもらった組員ではないし、親分に忠誠を誓うといった部類ではないが、まあ、そういった金目当てのうさんくさい部類の輩だね。
でも、一見やさしそうな紳士的なもの言いで、一見そんな風には見えないだろう」
まあ、だいたい詐欺師といい、人を悪のドツボに陥れる輩は、例外なく愛想のいい機転のきく人が多い。やさしくしてくれる大人は、いい人=自分の味方みたいに錯覚し、反対に人見知りな子は無視しているなんていう淋しい誤解を受け、疎外されたりする。
もともとは人見知りで臆病者の秋香姉ちゃんは、それで悩んだ時期があり、高校三年のとき十日間サボっていたという。
人見知りな人は、人を知らない、人を見る目のない人であり、当然のことながら食わず嫌いの如く、臆病になる。
社交的な人=善人ではないが、人を見る目があり、博識で、この人にはこういう話題をすれば喜ぶだろうとさり気ないほめ言葉まで用意したうえで、会話を進めていく。
この世では、どちらが世渡り上手になるかというと、間違いなく後者であり、前者の人見知りな妙な誤解を受け疎外されやすく、いじめや差別の対象に選ばれることも多く、ひきこもりの原因になるケースもある。
いじめや差別はスパイラルのように連鎖し、それが戦争へとつながっていくのだろう。
国家同志の利害関係がうまくいかなくなったときは、戦争は起こるというが、しょせん個人の力が止めることはできない。
まあ、私はDVD男のたかりまがいにひっかからなかったが、第二第三の被害者は続出するのだろうか。やはり、痴漢の冤罪同様、気の弱い人が狙われるんだろうなあ。
「康祐君、ありがとう。礼を言うわ。でも、あまり探偵の真似ごとをしていると、今に痛い目にあうかもよ。後ろからグサリとやられたり、車で拉致されて港湾に放り込まれたりなんてこともないとは限らないし、取り返しのつかないことになっても、知らないわよ。
私は康祐君になにもしてあげることなどできないんだから」
康祐は、悟りきったような表情で答えた。
「わかってるよ。兄貴から口を酸っぱくして言われたよ。でも、僕も殺されるのを覚悟でしてるんだ。あっ、何かあったら連絡して」
康祐は、春香にスマホの番号を書いた名刺を渡した。
春香は、ある種の感慨をもってそれを受け取った。
「春香、帰ってたの。びっくりしたじゃない」
秋香姉は、キャバクラのキャストのような濃い化粧をほどこしている。
「どうしたの。その化粧、秋香ねえちゃん、何があったの?」
秋香は、面倒くさそうに投げやりな調子で言った。
「子供には関係のないことよ」
えっ、こんな投げやりな言い方をする姉は初めてだ。生真面目で、ちょっぴり口うるさい姉に、いったい何が起こったというのだろう。
「姉ちゃん、仕事の方はどう? うまくいってないの」
姉は無言のまま、私を避けているようだ。
それにしても何があったの? よほどの傷つくことがあったのかな、それとも私に言えない何かグレーなことに巻き込まれたの?
濃い化粧をした姉は、まるで別人のようだった。もう私とは違う世界に行ってしまったのだろうか。私の手の届かない世界をさ迷っているのだろうか?
姉は、無言のまま背中を見せて去っていった。
その夜、姉は帰って来なかった。一体何があったの?
警察に捜索願いを出そうか。
ちょうどそのとき、ドアチャイムが鳴った。
「こんばんは。僕、秋香さんにいつもお世話になっている、拓也といいます。
今日は、売掛金の督促に参りました」
拓也と名乗る男性は、紺色の名刺を差し出した。
紺色の名刺の四隅は丸形になっていて‘レディースペース クリス新庄拓也’と表示されている。
なあに、これホストクラブの名刺?
「僕は秋香さんの担当なのですが、二万五千円、未回収なので本日は督促に上がりました」
「じゃあ、あなたホストさん?」
新庄は頷いた。
しかし、マスメディアから想像される、派手さもあくどさも感じられない。髪も栗色で平凡な二十歳前後の若者でしかない。
「はい秋香さん担当のホストです。今、払って頂かないと、僕が自腹切ることになるんですよ」
拓也は、切羽詰まったように春香に訴えた。
「一応は払いますが、領収書下さいね。姉に見せますから」
春香は、貯金の中から二万五千円を払った。春香にとっては、かなり手痛い出費であったが、ほかならぬ姉を助けるためである。姉の行く末が気になる。
「ねえ、もし姉のこと、知ってたら教えて下さい」
今度は春香が、拓也に哀願し千円渡した。
「これはチップのつもりですか? この千円は受け取る必要はありません。
まあ、本当はお客さんのプライぺートは、秘密厳守なんですが、実の妹さんですよね。
実は僕も困ってるんですよ。彼女、最近店に来てくれなくなって、なんでも転職するとかって言ってましたよ。僕、こういう職業でしょう。
こんなこと言うと誤解されちゃうけどね、本気で秋香さんのことを心配してるんですよ。
僕、昼間は現役大学生なんですよ。学生証見せますよ」
苗字も名前も全く違うが、確かに大学の名と、商学部四回生が明記されている。
「僕、こういう職業してるから、なかなか恋愛ってできないんですよ。
だって、私のためにホストを辞めてくれって言われたり、なかには、女性の方からエッチ目的で誘惑してくる子もいますよ。
でも僕、エッチなんてほとんどしたことないから、下手なんですよ。そうすれば、ホストの癖に下手ねえなんて言って、僕から逃げていく、全くおふざけもいいとこですよ」
春香は、意外だと思った。ホストって女の扱いに慣れている筈じゃなかった?
「こういう仕事をしていると、性欲が萎えるんですよ。毎日、女性客ばかり相手にしているでしょう。しかし、客だから触れることさえできない。女に対する新鮮味も興味も失われるんですよ」
マスメディアで放映される華やかなイメージとは反対に、結構、辛い職業なんだな。
「そんな僕を、秋香さんは可愛がってくれた。どんな新人のヘルプがきても、嫌な顔ひとつせずに、相手にしてくれた。なんだかまるで、母さんのように癒しの存在だった」
今度は春香が尋ねる番だ。
「姉に、なにか変わったことはありませんでしたか? この頃様子がおかしいの」
「そうですね。ときおり青ざめた顔で、深く傷ついてるみたいでしたね。何があったか、それは僕にわかるはずがない。でも、なんだか僕を避けてるみたいな」
急に、拓也は小声で言った。
「ひょっとして、この前秋香さんが来店したとき、僕の接し方が間違ってたのかな」
拓也は恥ずかしそうに言った。
「こんなこと、大きな声で言えないことですがね。僕、ちょっと酔っぱらっちゃってね、先輩が秋香さんにエッチなこと言ったんですよ。そのとき、僕、先輩だからなにも言えなかったんですよ」
「姉にどこなことを言ったの?」
「オナニーしたことあるとかね。秋香さんに失礼だとは思ったけど、相手が世話になっている先輩だから止めることもできなかったんです。
でも、まあ現役のニュースキャスターも『エイズ撲滅のために、オナニーをしましょう』と言ってることだしね。まあ、一人で楽しむ行為であり、犯罪ではないですからね、エイズ撲滅や性犯罪を防ぐためにも、悪いことではないんですけどね」
「フーン、やっぱりホストってエッチなこと言うんだね」
春香は呆れたように言った。
「そんなことはないですよ。でもね、ホストを長くやってるとね、女に対する考え方が変わってくるんですよ。女を楽しませ、女に気を使い、でも好きになった女でも触れることさえできない。
ただひたすら、売上を上げるために女から金を使わせることしか考えられない。だから、逆に女をからかったりするんですよ。特に秋香さんのようなしっかりタイプの人をね」
春香はふと思った。
「ねえ、私も姉の通っていたクラブに行っていい?」
途端に、拓也の行相が変わった。
「何を行ってるんですか。あなた未成年でしょう。見つかったら、店が警察に検挙され、過去の売上データや顧客名簿まで徹底的に調べられるんですよ。
だいたい、警察はホストクラブ撲滅を計っているんですよ」
春香は驚き顔で聞いていた。
「昔、警視総監の娘をだましたホストがいて、それ以来、警察はホストクラブというと目の敵にされちゃってるんですよ。今でも警察にマークされているホストクラブは、抜き打ち検査があって、過去の売上データの提出を強要されているんですよ。
僕のためにも、店のためにも未成年が来店するなんて、営業妨害は禁止ですよ」
春香は、納得して頷いた。
「あのう、これは秋香さんのためにも、本当は言いたくないことなんですけどね、秋香さんが、車に連れ込まれる現場を見た後輩がいるんだ」
「えっ、それじゃ、姉は男に連れ込まれたわけ?」
「いや、連れ込んだのは女だったらしい」
多分、裏に男がついていて、それに操られる女が存在しているのだろう。
拓也が名刺を置いていったのは、また連絡してほしいという無言の合図だったに違いない。