突然の明日ー春香のリスペクト
「すべてのことは、イエスキリストに働いて益となる」(聖書)
私の名は春香。どんな厳寒の凍り付きそうな冬でもときがたてば春が訪れ、春の香りがするという温かい希望の意味を込めて命名された名前である。
あれは高校二年の頃だった。
平凡な田舎の高校生だった私にとっては、都会からやってきた彼は、まぶしすぎる存在だった。
私は内気でちょっぴり舌ったらずの癖のある、地味な女子高校生。
でも、高校に入学したあたりから、なぜか街でよくナンパされるようになった。
初めてナンパされたのは、地元の本屋だった。たいていの男子は時間を聞くふりをして、ねえ、お茶でもと言ってくる。
もちろん私は知らない男子と喫茶店など行く勇気はなかった。
しかし、あの日は特別だった。中学の親友だった彼女と、夏祭りに行ったのだ。
ここ二、三年、夏祭りや成人式という、なぜか暴走族まがいの連中がうろうろしている。
爆音を立てて、バイクを乗り回すだけだが、なかにはそれがカッコいいと思い込んでる子もいた。刺激のない田舎では、打ち上げ花火のように目立った存在だったことは誰しも認める事実だった。
「ねえ、彼女たち、金魚すくいしない?」
ミニバイクに乗った男の子が、声をかけてくる。
暴走族とは程遠いアイドル+お笑い系の可愛いフェイス。
「こう見えても、うまいんだよ。競争しようか」
「えっ、私たち、金魚すくい初心者ですよ。全然競争の対象にはなりませんよ」
「まあ、いいや。僕が教えてあげようか」
そういって、彼は金魚すくいのポイを片手に、いきなり金魚をすくい始めた。名人みたいに上手い。
一秒に一匹のスピードで救っていく。あっという間に、三十匹はすくっていた。
「さあ、交替」
私はすくい始めたが、なぜか金魚は私の手から逃げていく。
やっと一匹すくったときは、ポイを破れていた。
「ありがとう。今日は楽しかった。僕、こういう者なんだ」
丁寧に名刺を渡された。
愛無プロと表記されてあり、その下には‘吉村 康祐’と明記されていた。
なあに、どこかの芸能プロダクション!? 聞いたこともない名前。
こりゃやばい だまされてるぞ
私は逃げるように、その場を立ち去った。
二学期まであと十日。
宿題は済ませたが、相変わらずネットばかり見ている。
私は、自分のブログに私小説を書いている真っ最中。内容は、私の見聞をモチーフにしたフィクションである。でも、なぜか書き始めたらやめられない。
少数ながら、毎日読んで下さる人もいらっしゃるし、温かいコメントを頂戴することもある。
でも、私は毎日書き続けるというよりも、一日でも書かないとかえって怖いのである。
明日は我が身というが、自分がその事件の主人公になるかもしれないという予感さえする。
決して対岸の火事ではなく、一寸先は闇なのかもしれない。
そんなときだった。
一編のブログが目にとまった。
‘僕の金魚すくい記録’のタイトルを掲げ、写真まで掲載している。
開けてみると、この前の夏祭り、金魚すくいで出会った男の子だ。
なんと、私との絡みもブログに掲載されている。
もちろん、私の写真は掲載されていないが、今日、女の子と出会ったということが、さりげなく書かれている。
私は、早速ブログにコメントを書いた。
‘金魚すくいプロはだし君、この前はポイの扱い方など教えてくれてありがとう。
また、いつかご縁があればいいですね’
そう、私はいつか縁が生まれると思っていた。金魚すくいというキューピットが引き合わせてくれた素敵な出会いだと思っていた。
「ねえ、春香、夕食まだかな?」
姉の秋香が、アルコール度1%以下のライトビールを片手にせかしてくる。
私は、仕上げに小さじ一杯の酢を加えた。すると味がまとまるし、防腐効果も生まれる。
「ねえ、春香、私、就職決まったよ。人材派遣会社でなんと課長待遇に抜擢されたのよ。初の女性課長に抜擢されちゃった」
姉の秋香は、ちょっぴり自慢気であるが、ちょっと話が上手すぎるんじゃない?
だいたい、中間管理職なんて上役からノルマをかけられ、部下からは文句をいわれ突き上げられ、板挟み状態になるという。
「一応、若さを売りにしている会社でね、平均年齢三十歳。私は三十一歳だから、年長の部類に入るの。だから、皆、私に敬語を使うのよ。
まあ、私は以前勤めていたアパレル会社では経理主任だったけど、総務全般できる人だったから、実力が認められたのかな。
仕事内容は、得意先との交渉。わが社に登録している派遣社員を企業に紹介する仕事よ。
あと、自ら企業にわが社を売り込みにいくの。まあ、いわば男性代わりの営業ね」
私は、思わず心配になり口をはさんだ。
「でも、秋香姉ちゃんは今までデスクワーク一辺倒だったんでしょう。営業なんて畑違いじゃないの?」
それでも秋香姉ちゃんは、
「でも、今のうちにいろんなことを体験しておくって、人生の糧になると思うのよ」
とやる気まんまんだった。
まあ、人生の糧になるならいいが、人生の傷になると厄介だな、セクハラ、パワハラ、アルコールハラスメントに巻き込まれなければいいがと私は、不安なものを感じた。
秋香姉ちゃんは、最初の一か月は、張り切って出勤していたが、徐々に疲労の陰を見せ始めた。肉体的疲労というよりは、精神的抑圧が感じられる。
「秋香姉ちゃん、何かあったの? 最初の元気はどこへ消えたの」
私が何を聞いても、ひたすら沈黙のままである。