連休最終日ー非日常の始まりー
「お母さん、もう決まった?」
あの日私は、楽器屋さんの本棚の前で、次の日の授業で使う楽譜を選んでいました。
5月の連休最終日、明日から始まる日常が当たり前のように来ると信じて疑わなかった私と上の娘、、、。
その後起こってくる様々な困難を知らなかったからこその、穏やかな休日のよくある風景でした。
2人とも買い物を終えて、その後行ったトイレで出ようとドアに手をかけた瞬間でした。
ピッと、突然、頭痛が始まったのです。
ふつうは頭痛って、いつの間にか始まり痛みを徐々に感じて自覚するものなのに、この時は、この瞬間始まった、ということが自覚できていました。その始まりの異常さを当時の私は気にもとめませんでしたが、このことこそ、この病の最初の警告だったのです。
ですが、もともと肩こりで頭痛持ちの私。普段の頭痛と変わりなくそれほどひどい痛みでもなかったし、鎮痛剤は鞄に常備されていましたので、ソファで待っていた娘のところに戻り、
「頭痛くなったし薬飲むわ。」
と隣に座りました。娘も、いつものことと気にもとめてない様子で、
「私、買いたい本あるで、本屋さん行ってくるね。」
と席を立ちました。
「うーん、肩こってんのかな。」
と考えながら首をぐるぅりと回した瞬間、首から前頭部にかけて何か太いものがつながった感じがし、人生で今まで感じたことのないような頭の痛みを引き起こしたのです。それと共におそってくる強い吐き気。
「気持ち悪いんならトイレ行って吐いてきたら?」
と戻ってきた娘に促され、トイレに行って吐けるだけ吐きましたが、首を動かすと先ほどのひどい頭の痛みが襲ってきます。鎮痛剤飲んでる場合じゃない、、、そんなことを考えていた覚えもあります。
(これじゃあ首が動かせないな、、、となると車の運転が無理っぽいな。)と考えた私は、主人に迎えに来てもらえるよう娘に電話してもらい、連れて帰ってもらうことにしました。
この時の娘は、まさかこの事の重大さを知らなかったからとはいえ、本当に冷静に適切に対処してくれました。中1になったばかりの娘のこの冷静な行動には、今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
6年ほど前に1型糖尿病を発症していた私は、この不調が低血糖や高血糖によるものからかもしれないと考え、血糖を測定し異常値ではないことを確認していました。一応医者には診てもらっておこうとは思ったのですが、その頃、コンビニ受診が休日や夜間の病院診療を圧迫しているという特集を見ていた私は、頭痛くて吐いちゃうくらいで病院の救急に迷惑はかけられない、と近くの休日診療所に行ってくれるよう頼みました。
連休最終日で、休日診療所は多くの人。ひといき待って、やっと診察。そこでは、もちろん症状から内科の医師が診察をしてくれ、
「特に異常は見られませんが、吐いたんでしたら脱水起こしたらいけないし、点滴受けて帰ってください。」
と言われ、点滴を受けました。首を動かさずに寝ていたら楽になった気もしたので、そのまま主人の車で家に帰ることにしました。
しかし、車のちょっとした揺れだけであの痛みと吐き気が襲ってきて、その苦しむ様子に主人がただ事ではないと感じ「病院行くぞ!」と、家に娘を降ろし、たまたま来ていた主人のいとこに付き添ってもらい、隣の市のA救急病院に運んでくれました。
その間、たった20分くらいの時間でしたが、あんな苦しい時間は初めての経験でした。
「早く、、、早く着いて、、、」
祈るような気持ちで、吐き気と痛みと言いようもない苦しさに耐えていました。
やっと病院に着きましたが、先に運ばれてきた救急患者の検査が行われていて、私は待たされることになりました。とはいえ、揺れさえなければ、安静にさえしていればあの痛みも吐き気も襲ってこないので、自分の中では何の焦りもありませんでした。本当なら一分一秒を争う事態だったのに、、、。
やっと私の順番が回ってきて、頭部CT検査をしてもらいました。
その後、何だか周りが騒がしくなってきたな、、、と感じてはいましたが、安静状態で楽になった気でいた私は、あまり気にもせず横になっていました。時々意識を失っていたのかもしれません。記憶は途切れ途切れとなっていきます。
次の記憶は、
「くも膜下出血を起こしていますので、別の病院に搬送します。」
と言われた瞬間に移ります。その時の私は、くも膜下出血が死に直結するような病気だとも知らず、ただ、(頭で出血してるなら大丈夫なんかな、、)くらいにしか思いませんでした。だから、
「え、、、?私、大丈夫なんですか?」
と聞いてしまう始末。聞かれた救急隊員の方は優しく、
「大丈夫なように、これから搬送いたしますね。」
と答えてくれました。それでも、まだ私は事の重大さをわかっていませんでした。
救急車に乗せられ動き出したとたん、その救急車の揺れに、またあの痛みと吐き気と苦しさが襲ってきました。その様子から救急隊員の方が、
「楽になるお薬使いますね。」
とおっしゃってから、私の記憶は途切れます。家族によると話しかければ反応はあったようですが、記憶としては残っていません。
後で聞いた話によると、主人はA病院で、くも膜下出血を起こしていること、ただ幸いにも出血はひどくはないこと、しかし今この病院には手術を行えるスタッフがそろっておらず、一番近くのB病院には先ほどの患者を搬送したため送れず、別のそこより離れた別の病院に搬送します、と説明を受けていました。
別の病院はいくつか候補を挙げられましたが、脳神経外科にお世話になるのも初めてで、どの病院にしたら良いのかもわからず主人が困っていたところ、付き添ってくれていた従姉妹の方が
「脳外なら、C病院が良いって聞くで!」
と、候補の中で一番近いC病院を勧めてくれました。
C病院でも検査を受けたところ、搬送中に再出血を起こしていたようで、かなりひどい出血量になっており、主治医からは
「手術には入りますが、かなりの出血量で、頭を開けた途端その出血の圧で脳がとび出してくる可能性があります。その場合には閉じるしかありませんから、覚悟はしておいてください。」
と告げられたそうです。
そして手術までに家族を呼ぶよう言われ、手術室に入る私に家族は会ってくれていたようです。手術前、娘たちの「頑張れ、お母さん」との言葉に私は「うん」と答えていたようです。実家の両親と姉も病院に駆けつけてくれました。
手術開始がPM11:00頃、あの突然の頭痛から8時間はゆうに経っていました。
手術は7時間にも及びました。
幸いにも手術はでき、破裂した脳動脈瘤のクリッピングも成功しました。
ただ、かなりの出血量だったため、意識が戻るかどうかわからないと主治医に告げられ、ここから私の意識不明の日々が始まるのです。