プロローグ 二人の女神 ①
「目を覚ませ、迷える魂よ」
誰かに呼ばれた気がする。
意識がはっきりしてくる。
誰だろう、起きなくちゃ……。
目を開けると、そこには予想外の景色が広がっていた。
何もない…?かろうじて床はある。白い、何の装飾もないただの白い床。目に見える限りそれが永遠に続いていて、それ以外は白い世界が広がっている。
……俺はどうしてこんな所に?
「ここだ」
後ろから呼び声が聞こえる。
俺の他に誰かいるのか?
振り返るとそこには二人の女の人が立っていた。
一人は、燃えるような赤い髪の女性。年令は20代前半だろうか。長身で、赤い髪は美しいウェーブを描き、肩下まで伸びている。顔立ちは威圧感のある、燃えるような瞳、意志の強そうな表情と相まって、苛烈な炎を想像してしまう。一転、服装は、キラキラとした光が輝くような布で織られ、彼女の体を包んでいた。それはその炎の様な女性の豊かな胸を、しなやかな腰を、美しくスラリとした長い足をより美しく見せていた。腰には素晴らしい装飾のついた組み紐が結ばれ、彼女の細い腰回りを強調している。
えっと、これは、海外の映画に出てくる女優さんだろううか……?
片や、もう一人は銀髪の少女だった。年令は小学校高学年か、中学生くらいといったところだろうか。サラサラとした長い髪は、腰のあたりまである。先程の炎のような女性の印象と比べると対照的に、物静かで儚げな印象だ。身長は赤い髪の女性の胸のあたり。華奢な手足は、白くたおやかで優美である。服装は、体のラインを隠すようなゆったりとした、ドレープのある長いドレス。ウエストの位置にベルトを巻いてある。細かなドレープのひだの美しさが、儚げな美少女によく似合っている。
「これが、例のやつか?」
赤い髪の女性が銀髪の少女に問いかける。
銀髪の少女はうなずいた。
え、俺の事?……例のやつ?
「聞いた通りこれは、この世界の人間ではない。それでも構わんのか?パナケイア」
俺の事など気にかける様子もなく、赤い髪の女性は、再び銀髪の少女に問う。パナケイアと呼ばれた少女は、またうなずいた。
「ふむ……」
不意に赤い髪の女性が、俺の方に視線を向けた。上から下まで値踏みされているような視線だ。
「な、何でしょう?」
「黙っていろ」
有無を言わせぬ威圧感に、黙り込むしかなかった。
赤い髪の女性はしばらく俺を眺めると
「シノハラ=ミナト、か」
俺の名前だ。何で?なにも言っていないのに?俺は何か言おうとしたが、声が出なかった。
「年は38歳、在学中に就職活動に失敗。何とか小さい会社に潜り込むが、体育会系のブラック企業で、心身に異常をきたし退職。その後、職を転々とし、気付けばこの歳に、か、何ともパッとしない人生を送っていたようだな」
呆れたような憐れんでいるような表情を見せる。
パッとしないか……。確かに就職活動に失敗して、やっと入った会社もパワハラがひどかった……。毎日、毎日理不尽に怒鳴られ、馬鹿にされて、それでも自分にできる限界まで頑張った。怒鳴られ続けて、だんだん自分が何の為に生きているのか、分からなくなった。夜は眠れなくなり、死ぬことも考えた。
「そんな事ぐらい自分で考えろ!」
「こんな事も分からないのか!」
「今年の新人は使えねぇ奴しかいねえのか!」
ロッカーを蹴り上げて脅してきたり、その蹴りが俺の方に来ることもあった。会社に行く足がとてつもなく重くなり、吐くこともあった。同期は早々に辞めていった。それでも、俺は頑張った。頑張ったけど、駄目だった…。非正規の仕事も不景気で切られて、職を転々としていても、それが俺の精一杯だったんだよ!パッとしない人生だろうが大きなお世話だ!
「私はお前の心に問いかけて、お前の噓偽りのない本心を聞いたのだ。私は同意したに過ぎん」
なんなんだ、テレパシーでも使えるのかよ……!
「私にとっては会話など無意味だ、貴様には理解できんか」
俺の事は何でもお見通しって訳ね、怖すぎるよ!
「フレイア……」
銀髪の少女、パナケイアとがめるように赤い髪の女性を見上げ名前を呼ぶ。赤い髪の女性はフレイアと言う名前なのか。
「そうだな。確かに下らん事をしている時間は無かった。さっさと用件を伝えよう」
赤い髪の女性、フレイアは高圧的な眼差しでこちらを見た。
「お前の使命は、ここにいる女神パナケイアの選定者になること。そして、パナケイアの教祖として、フォルナの地に赴き、人々から信仰を集め、信徒を増やすことだ」
……女神?教祖?信徒?フォルナって何???
「フォルナは地上世界の事。そしてお前は、パナケイアによって選定された魂。女神パナケイアの加護の下、パナケイアの名を広め、信仰、崇拝を集める。それがお前の為すべき事だ」
「為すべき事って……何故、俺が」
「パナケイアが選定したからだ。お前は今魂だけの存在。そのままではいずれ消える。お前はすでに死んでいるのだからな」
え、死んでるの……俺?
「お前の近くで召喚魔法が発動した際、膨大なエネルギーが周囲を破壊し、崩壊させた。要するに何者かの発動した召喚魔法によりこの地に召喚された者がいて、お前はそれに巻き込まれて、崩れた瓦礫に潰されて死んだのだ」
……死んだのか……死、潰れ……押しつぶされる!痛み!突然俺の魂が、強大な力に押しつぶされた記憶を思い出した!いたいいたい苦しい……!頭が……あああああっ!
「生き方もパッとしなければ死に様も同様だな。この様な弱い魂で何ができる?ただの情けない人間ではないか」
フレイアが俺を見下しながら、嘲笑しているのを見て俺は怒りを覚えた。過去の記憶がフラッシュバックする。死、恐怖、痛み、惨めさ、怒鳴り声、嘲笑う声!怒りが俺の口からあふれ出てくる。
「ふざけるな!あんたに何が分かる!俺は俺なりに頑張ってたんだ!なのに、人を見下して嘲笑う、自分勝手に好きな事を言って、相手を黙らせて!何が使命だ!女神だ」
頭の中がしびれて、怒りや悲しみがぐるぐると駆け巡る。
「お前みたいな奴は、会社にもいた。怒鳴ることで相手を委縮させて、上から目線で物を言い、罵倒して、自分の鬱憤をはらす……最低だよ……そいつらと一緒だ!」
「そもそも、なんで俺が……!」
言いかけた時、また声が出なくなった。
「私はカイシャの人間でもなければ、お前のジョウシでもないぞ」
フレイアの片腕が、俺のいる方に向けられ、その手がゆっくり握られる。
苦しい……呼吸ができない……!何かに絞めつけられているようで、声を出そうとしても口がパクパクとしか動かない。
「神に対する冒涜、目に余る。この様な魂はいらぬ。のう?パナケイア。処分しても良いな」
フレイアの手がだんだん閉じられる。
力が入らず意識が遠くなっていく……。
「止めなさい、フレイア」
絞めつけが無くなり、呼吸ができるようになる。必死で息を吸う。痛みも、フラッシュバックも消えていた。
気が付くと、俺の目の前にパナケイアが立っていた。
俺をかばうように立ち、華奢な手を大の字に広げ、フレイアと対峙している。
「なぜ止める?パナケイア。この者は我ら神々を侮辱したのだぞ?」
「フレイアが、あんな言い方では……!」
「こいつらは、甘やかすとすぐに調子に乗る。常に抑えつけるぐらいで丁度良い。そうじゃないか?パナケイア?」
「お、脅し、抑えつけても、反発するだけです。それでは人はついてこない」
一つ一つの言葉をかみしめる様にパナケイアさんは言った。
「人と共に生き、人と共に栄える……私はそうありたい。……信仰も、時に教え、時に与え、時に導きながら集めていく」
「相変わらず甘いな、パナケイア。そんな事を言っているから、人ごときにまでなめられるのだ」
フレイアが小馬鹿にするように言う。
「また、国を滅ぼすのか、パナケイア?」
「!」
パナケイアさんが固まる。
「以前、お前が選定し英雄と呼ばれた男は、自らの能力が与えられた物だという事を忘れ過信した」
「やめて……フレイア」
パナケイアさんの腕が下がり、うつむくように顔を下げた。
「人の欲望は果てしない、穴のあいた壺だ。いくら注いでも、満たされる事はない。ただ、与え続ければそれが日常になる」
フレイアは俺をちらりと見て笑った。
「当たり前になる前に、制御し、抑圧するのも、管理者たる女神の役目だ。その程度も分からずに何が人と共に栄えるだ」
「違う……ちがう……!」
だが言葉とは裏腹に、パナケイアさんは力なく座り込んでしまった。肩が震えている。
「何が違うんだ。そんな事も理解できないから、貴様はいつまで経っても、あの御方の期待に応えられぬ出来損ないの見習い女神なのだ。さっさと消えた方が他の女神の為だぞ」
それを聞いた時、俺の中に、また過去の記憶がよみがえった。同期の女の子が上司に怒られていた。
見かけたのは一度や二度ではなかった。
そして、その子は心を病んで辞めていった。
俺は自分の事で一杯一杯で、何も声をかけられなかった。俺自身も、負けたくなかったから、声をかけられたり、慰められたら自分が惨めになると思っていた。
……でも、声をかければよかった。惨めなんかじゃなかった。一緒に戦えば良かった。
もう、やらずに後悔はしたくない!
そう、俺は一度死んだんだから、怖いことはないはずだ!
「いい加減にしろ!フレイア!」
パナケイアさんの前に立ち、フレイアを睨む。
「何だ、また握りつぶされたいか」
「うるせえよ、黙って聞いてりゃ虐めじゃねえか!こんな小さい子供を泣かせて、楽しいのかよ」
一瞬フレイアはパナケイアを見た。そして……
「あはははは!」
大笑いした。
「何がおかしいんだ!」
「本当に人間は愚かだな。パナケイアが子供だと?見た目だけでしか判断ができないらしい」
フレイアは嘲るように続ける。
「姿形など仮初めの物に過ぎんという事だ。パナケイアですら、千年を超えて存在しているのだ。お前のような塵芥と一緒にするな」
「へー、千年か、そりゃスゲェ。でもよ、千年生きようが百万年だろうが、長生きすれば偉いわけじゃないよな?間違ったり、できなかったりしたら、周りが助けてやったり、力を貸してやったらいいんじゃないの?お前らは助けてやらなかったのか?お偉い神々達は!」
「口の減らぬ魂だ。そんなに消えたいなら消えるがいい」
再びフレイアの腕が俺に向けられる。
「ミナトは私の選定者、勝手に消す事は許しません!」
俺の後ろでパナケイアさんの声がした。
そういえば、俺はパナケイアさんの選定者に選ばれていた……のか?
しかし、フレイアは鼻で笑う。
「こいつが選定者?無理だな。心が弱く、頭も弱い。お前の国の英雄だった男より資質がないわ!フォルナの地に赴いたとて何ができる?」
「そんな事ない、彼はフレイアが思う程、弱くない」
「どうせすぐ野垂れ死ぬ。まあ、出来損ないの女神にはお似合いか」
パナケイアさんを見下す表情には、嘲りの色が浮かんでいた。
「やってみないと分からないだろう」
俺の声に、赤い髪の間から燃える瞳がこちらを見る。
「俺には選定者がどんなものか分からない。ただ、分かるのは、どれだけ偉い女神か知らないが、あんたがとてつもなく無礼で身勝手だってことだ」
フレイアは表情を変えない。
「それは光栄だ、それで?」
「だから、あんたの鼻をあかしてやりたくなった」
「ほう、私の……ククッ、それでどうする?」
「俺はこれからフォルナへ行って、パナケイアさんの信者や信仰を増やす」
「貴様にできるか?何も知らない土地で、一人生き抜くのだぞ?」
「ああ」
「では、パナケイアの選定者、引き受けるのだな?」
「そうだ」
俺の決意を聞くと、ニッと笑みを浮かべるフレイア。
「よかろう、では女神パナケイアの選定者として、シノハラ=ミナトを認める。すぐ死なぬよう気張るがよい」
散々、こき下ろした割に随分あっさり認めるんだな。それからフレイアはパナケイアさんに向かって、こう言った。
「この頼りない選定者が、お前の信徒をせいぜい増やしてくれる事だろうよ。パナケイア。良いか、あの御方が、いくらお前に甘いといっても限度がある。もう次は無いのだからな」
そして、俺とパナケイアさんを見て
「では、甘ちゃん同士頑張ることだ。期待を裏切るなよ」
と言った後、フレイアの姿がかき消えた。