後編
帰り道、雨が降ってきた。早く寝床に帰らないとさすがに風邪をひく。
俺の寝床は橋の下だ。最悪、雨はしのげる。風は…そこそこ。
床も、壁も、屋根も揃った「家」なんて、俺にはない。
段ボールをベッド代わりにして、雨の音を聞きながら目を閉じると、俺の意識はすぐに深い闇の中に沈んでいった。
—―—ピアノの音が、聞こえる。
兄だ。俺の兄はピアニストで、世界を股にかけて活躍しているんだ。
「兄貴…」
実家の居間の光景とともに、ダークウッドのグランドピアノを弾く兄が浮かび上がる。
懐かしいブロンドの髪の間から、サファイアブルーの瞳が俺を振り返った。
その口が、俺の名を呼ぶ。
「聞いたよ。大学に上がるんだって?」
僕は行けなかったからなあ、と兄はつまらなそうに呟いた。
「僕は勉強ができなかったから、仕方ないんだけどね。」
名前を出すだけで人に羨まれる兄が微笑む。
「大企業にだって入れちゃうんじゃない?」
そんなことはなかった。
その辺の会社に入って、普通程度に働いて、不景気で潰れた。
俺程度の存在は掃いて捨てるぐらいいる。何個も会社を受けては落ちた。
だけど俺は、結果としてスラムで暮らすことになったって食らいついてやった。
兄を見返してやりたい思いだけで。
才能に恵まれて、俺ができなかったことを軽々やってのけた兄。
俺がのろのろと一曲を弾く横で、余裕で二曲目を弾き終えた兄。
いつも褒められるのは兄ばかりで、俺はまるでいなかった存在みたいだった。
ピアノで追いつけなかったから、他のことで追い越してやりたかった。
金だ。金さえあればやり直せる。あの兄よりも、もっと上の存在になれる。
俺は…兄貴を超えたかったんだ。
それに気づいた時、兄の姿は蝋燭の炎が吹き消されるように揺らいで消えた。
同時に訪れた寒気で飛び起きる。
曇天の中、冷たい風が吹きつけていた。
「家」についた時、ジムはいなかった。
他の全員は揃っているというのに。
…いや、トゥーバもいない。
「アインズとハッター、どうしたんだ?」
「トゥーバは知らないけど、ジムがいないってことは…あいつまさか、金を独り占め…するとは、思えない奴だけどさあ。」
「ビリー、カーチス。」
ガンドが指さすは、遅れてやって来たつり目の男…トゥーバ。
全身濡れネズミの男の目はギラギラと光り、まるで獲物を捕食する喜びに満ちた肉食動物のようで、俺は内心引いた。
いや、何よりも…。
「トゥーバ、あんた…そのナイフ、どうしたんだよ?」
昨日洗ったはずのトゥーバのバタフライナイフに、血がこびりついている。
嫌な予感がした。
「あいつが喋らないから悪いんだ…金が必要なんだよ…。」
「お前…」
「金のありかを知ってる奴は?ジムから何か聞いてないのか⁉」
トゥーバは、ガンドの言葉に弾かれたように叫ぶと、俺達にその切っ先を向ける。
麻薬でもきめてるみたいに、ヒステリックに。
「あいつ、ヤバいよ…ジムが来ないってことはさあ…つまり、トゥーバが…」
「アインズを…ナイフで?」
「止めろ。」
カーチスとビリーを、ガンドの低音が鎮める。
「トゥーバ、俺らはジムから何も聞いちゃいねえよ。」
「じゃあ、何でここにいんだよ…ああそうだ、ジムが昨日言ってたんだっけ…」
自分で疑問を抱いては自分で解決しているのだが、その様子がおかしい。
狂ってやがる。
「ひ…ひと、ごろし…」
「何で…アインズを…」
「動くな!」
ビビりながら引いたカーチスとビリーに、トゥーバはバタフライナイフを見せつける。
「この場で主導権を握っているのはオレだ!金はオレが貰う…金さえあれば、オレは…」
今は逃げるのが最善手か。
「ボケっとするな。今の内に逃げるぞ!」
ガンドの言葉に、ビリーとカーチスも従う。
こいつを放ったらかしにするのは危険だが、止め方が分からないしな。
銀行の時のように、三人でバラバラに逃げた。
ジム以外の全員は、互いの寝床を知らない。
よく考えればジムが共通の知人のようなものであり、彼を除けば個人的な付き合いなどなかった。
そもそも知り合ったのは、ジムが俺達を見つけて共同で仕事を探したからだ。
一日単位の仕事から始まってはジムの「家」に集まって、馬鹿騒ぎしていたっけな。
表通りがちらりと見え、電気店のテレビだろう音声が人のさざめきとともに聞こえる。
『今日未明、路地裏で死亡が確認されたのは、元大学教授、ジム=アインズ氏とのことです。同氏は工学技術科において、火薬の安全性などについて研究しており———』
ああ、やっぱりか。
ジムが死んだからといって悲しまないわけはないが、いつ死ぬか分からない状況で生きている俺達は、多分感覚が麻痺してる方だ。
だが、スラム住人だからって石を投げられ、救済の手なんかくれなかった連中よりはマシだ。
いっそお前らが考えてる通りにやってやるよ。
「だからスラム住人は」?うるせえ、お前らが最初に見放したんだろ!
見下しやがって、自分達は関係ないって面しやがって、何の行動もせずに助けもしなかった奴ら。
見返してやる。
このまま車まで行けば、まだチャンスはあるかもしれねえ。
あ?これって…。
「あれ、ベルツは…」
きょとんとしたビリーの声が、ガンドに呼びかける。
「見てないな。」
「そうか…あれ?フォムレイ、何で銃を取り出してるんだ?」
「お前、算数はできるか?」
「算数?」
ぽかんとしているビリーに、ガンドは容赦なく銃を撃つ。
路地裏だからか、誰かが聞きつけた様子もない。
大通りの連中は自分の用事に忙しく、他の人間のことに気が回らないのだから。
ビリーは自分の左胸にできた赤い染みを押さえる。
「フォムレイ…?」
「三千万を五人で割ると、一人六百万。四人で割ると七百五十万。三人なら一千万、二人なら一千五百万、じゃあ一人なら?」
膝をついたビリーを見下ろし、ガンドはため息をつく。
「三千万、だろ。あー、せっかくだから教えておこうか。トゥーバは死んだよ。カーチスにその辺のガラクタで殴り殺されてな。」
「な…で…?」
「そのカーチスだが、奴も俺と同じ考えに至ってな…だから殺した。これで、俺が丸ごと金を独り占めってことだ…もう聞いてねえか。」
既に地面に倒れているビリーに興味をなくしたガンドは、車に乗り込む。
別にビリーに頼らずとも運転はできるのだ。
「どうせ監視カメラにゃ映ってねえ位置にいたしな。ジムの家までこれを使わせてもらうか。」
彼はニヤリと笑って車のエンジンを入れ、アクセルを踏んだ。
瞬間、車があっという間に燃え上がった。
ガンドは車から出ようとするも、パニックを起こし、ドアを開けられない。
信じられないといった顔のまま、焼死することになっただろう。
車のマフラーにぼろ布が詰められていた。挙句にブレーキオイルも漏れていたため、エンジンをかけた際に引火したのだ。
…なんて。
「仕掛けをしたのは俺だがな。」
ビリー=カナビル…つまり俺は、平気な顔で立ち上がる。
「頭の空っぽな男を演じるのも疲れるもんだ。とはいえ…そのおかげで油断してくれたか。」
道の途中に二人の死体が転がっていたんだ、傷口から犯人ぐらい推測できる。
左胸の内ポケットには、万が一に備えた血糊と折り畳み式手鏡、腕時計を入れてあった。
ずっと昔、兄貴が俺の入学祝いだと言って、耐衝撃性だか防弾ガラスだかを使った頑丈な腕時計を、お守り代わりに買っていた。
鏡をぶっ壊した弾丸は、そのガラスを砕いたところで止まっていた。
そりゃあかなりの衝撃はある。膝をついたのはマジだ。
「さてと…ジムの家に行くか。」
誰もいなくなった「家」。
だが、ジムはあの「家」のどこかに金を隠したはずだ。
昨日俺達の前に一度もスーツケースを出さなかったのだから、金は隠し場所から出してない。
で…あの路地裏で死んでいたってことは。
ジムは金から少しでも離れた場所で話をしたがるだろう。だから他の奴には聞かせたくない、とか言いくるめてあの路地裏に誘導し、説得しようとしたんじゃねえか?
考えている内に「家」についちまったが…しかし隠し場所なんてこのジムの「家」にあるのか?
あんな金、この「家」のどこに隠せる?三千万もの重さなら、こんな床抜けるぞ…!
「そうか!」
俺はジムの「家」、ガタガタのテーブルの下、くすんだ薄っぺらい絨毯をどかす。
思った通り、金属部分の錆びかかった地下室への扉があった。
多少扉に物が当たって音が出ても、このテーブルの脚の高さの違いで気づかない。
これで…ようやく日の下で暮らせる。多少時間がかかろうと、三千万あればスラムとはおさらばだ。
海外だって行ける。
はやる気持ちを抑えきれず、俺は地下室への扉を力任せに引っ張った。
開けた扉の蝶番に通されていた、細く所々灰色の糸がプツリと切れるのが目の端に見えた。
カチッと鳴ったスイッチのような音、何かが作動したと思った時にはもう遅い。
雷が落ちたとも思わせるような爆音がして、猛烈な熱を感じながら、俺は床…いや壁か?に叩きつけられた。
一瞬閃光が見えた?駄目だ、前が見えない。
痛い…痛い、痛い痛い全身が痛い!
何が起こった⁉何の音だったんだ⁉
水、そうだ、誰か冷やすもの、水をくれ!熱い、服が肌に張り付いているのが分かる!
酷い火傷だろう、だから誰か!
ジム、トゥーバ、カーチス、ガンド…誰でもいい!
「あ…う…」
何も分からない。目の前は黒く塗りつぶされているから。
待ってくれ、俺は、まだ兄貴を———
「…おーい。」
誰だよ…寝かせてくれ。
「ビリー。」
兄貴?
「早く起きなよ。何をしてるんだい?」
何って…何だったんだろうか。
「寝ぼけてるな…仕方ない、教えてあげよう。今日は、君の大学入学式だよ。」
そうだっけ…ああ、そうだった。
俺は、居間に荷物を用意したところで眠っていたんだ。
「僕の分も楽しむんだよ。ほら、入学祝いにコレあげる。とびっきり頑丈なものにしてもらったんだ。何と防弾ガラス製の特注品!」
オーバースペックだ。
「弟を心配してのものだよ。いつも左胸に入れとけば、弾丸も防げるかも!」
馬鹿馬鹿しいが、たまには聞いてもいいか。
「やれやれ、生意気な弟だよ。僕が都合をつけてきたのに。」
兄貴…。
「何だい?」
俺は、いつかあんたを超えてやる。ずっとそう思ってるんだ、なめるなよ。
「うん、知ってる。僕もそんな君に負けないように特訓していたからね。」
嘘だ。特訓なんてあんたはしてなかったじゃないか。天才な姿しか…。
「僕は、君の前で努力を見せたくなかっただけ。兄の方がピアノが下手だなんて、滑稽じゃないか。」
今までのは、俺の一人芝居じゃねえかよ!そっちの方が滑稽だ。
「ごめんごめん、でも大丈夫だよ。君は僕と違う生き方ができるんだから。」
うるせえ。
「あれ、どうしたの?」
…普通に眠いんだよ。兄貴が朝早く起こすからだな。
「そうだね、入学式にはまだ早かったかな。おやすみ、ビリー。良い夢を。」
『速報です。スラム街の小屋から火の手が上がっているとの通報があり、駆けつけた消防隊によると、小屋の中から一人の男性の遺体が発見されたとのことです。損傷が激しく、まだ身元は分かっておらず―――』
それぞれの名前について、おまけを少々。
ジム=アインズ→ボムをもじったもの、アインス(ドイツ語で一を表す)
トゥーバ=ハッター→ツー、つまり二を表す単語から、初期では帽子の男だったのでハットより。
カーチス=ベルツ→スカウト、ここでは斥候の方の意味で。ベルツはツヴァイが飛んだから。
ガンド=フォムレイ→ガン=銃+ドライのド、はちょっと苦しいか。フォー、四人目なので。
ビリー=カナビル→ファイブで名前を作るのが難しく、バ行しか残らず。あとはカーナビから。
長々と読んでいただき、ありがとうございます。