由美の純愛 3
由美は、コルトレーンの曲はバラード以外の曲は好きになれない。マイフェバリッティングスも、ミスターPCも、由美にはうるさいだけだ。
もしかすると、ジャズが嫌いだったのは、宗郎ではなく由美だったのだろうか。そうだったかも知れない。もしかするとコルトレーンのバラードが好きだったのは、由美ではなくて宗郎だったのだろうか。そうだったかも知れない。でも、由美の記憶にはない。由美は覚えていない。
由美は、いつ頃から、コルトレーンのバラードを好きになったのだろう、なぜ好きになったのだろう。由美には分からない。少女時代に好きだった、エリーゼのために」は何故嫌いになったのだろう。その理由を由美は知らない。覚えていない。
喫茶店で、「エリーゼのために」の曲が流れ出した瞬間に、悲しみと孤独の感情が高まり、コーヒー代金を払わずに喫茶店を逃げるように出たことがある。
大好きだった「エリーゼのため」にという曲を宗郎と一緒に聞いていた由美だったが、宗郎に裏切られて、「エリーゼのため」を聞くと惨めに感じるようになったのだろうか。
宗郎は「エリーゼのために」が本当に好きだったのだろうか。「エリーゼのために」は由美が好きで、宗郎はジャズが好きだったのではなかっただろうか。そうであったような気もするが、由美は覚えていない。
宗郎に裏切られて、裏切った宗郎が恋しくて、宗郎の好きだったコルトレーン・サックスのバラードを何度も聞いているうちに、コルトレーン・サックスのバラードが好きになったのだろうか。由美には分からない。宗郎がコルトレーンを嫌いだった記憶は由美にはない。宗郎が由美を裏切り、由美を絶望させたという記憶は、由美にはない。
コルトレーン・サックスのバラードが好きな理由も、「エリーゼのために」が嫌いな理由も、宗郎とは関係のないことなのかもしれない。でも、「エリーゼのために」を嫌悪するようになっていた頃、いつも、喫茶店には由美ひとり座っていたような記憶がある。「エリーゼのために」の曲が流れて、逃げるように喫茶店を出た場面の由美はいつもひとりぼっちの由美だった。宗郎が一緒にいた記憶はない。
「エリーゼのために」の曲が喫茶店で流れている時に、一人ぽっちの悲しみの涙があふれ出ていた由美の記憶。その記憶は現実だったのだろうか。夢だったのだろうか。もしかすると、夢だったのかもしれない。
夢だったのか、現実だったのか。今の由美には定かではない。
コルトレーン・サックスのバラードを聞きながら、目を瞑り、疲れた体と心を安らぎの中に溶かしていた由美は、由美の側に立っている宗郎を振り向こうとしたが、目は開かないし体は動かなかった。その内に由美はうとうとしてきて、いつの間にか眠ってしまった。
眠っている由美は息が苦しくなっているのに気がついた。あれ、どうしてだろう。由美のまどろんでいた意識が元に戻った。あれ、変だ・・・。聞こえてくる曲はコルトレーン・サックスのバラードではない。・・・この曲は、ああ、由美の嫌いな「エリーゼのために」だ。なぜ、「エリーゼのために」が流れているの。おかしいわ。由美はコルトレーン・サックスのバラードを聞いていた。急に「エリーゼのために」が流れるはずがない。変だわ。誰かがCDを入れ替えない限り、「エリーゼのために」が聞こえることはない。もしかして、私がうとうとしているうちに、宗郎が、「エリーゼのために」に入れ替えたのかしら。 でも「エリーゼために」のCDはこの部屋にはなかった筈だわ。どうして、「エリーゼために」の曲が流れているのかしら。もしかして、「エリーゼのために」が好きな宗郎が、こっそりと買ってきたのかしら。
・・・・・・・・
うう、息が苦しい。
・・・・・・・・・・
・・・なぜ、息が苦しいのかしら。・・・・。・・・あ、由美は首を
絞められている・・・。
由美は、首を締められているせいで息が苦しいことに気がついた。
由美の首を締めているのは誰だろう。宗郎なのか。
しかし、宗郎が、由美の首を締めるはずはない。絶対にない。宗郎は由美を愛している。愛している由美の首を宗郎が締めるはずはない。首を締めているのは、絶対に宗郎ではない。とすると、由美の首を締めているのは誰なのか。この部屋には由美と宗郎だけが居る。宗郎意外の人間が居るとすると、それは侵入者以外に考えられない。部屋に侵入者が居る。由美の首を絞めているのは侵入者・・・強盗・・・。由美の部屋に強盗が侵入してきたの。なぜ、強盗が侵入してきたの。由美は鍵を掛け忘れたのかしら。
由美は玄関の鍵を掛けたかどうかを思い出そうとした。しかし、思い出せない。由美はいつもの習慣で玄関の鍵は無意識に掛けている。
今日は、玄関の鍵を無意識に掛ける癖がうっかりしていて、鍵を掛け忘れたのだろうか。でも、今まで玄関の鍵を掛け忘れたことは一度もない。だから、鍵を掛けたはずだ。侵入者がいるなんて考えられない。
ステレオからは、由美が嫌いで宗郎が好きな「エリーゼのために」が流れている。「エリーゼのために」が流れているということは、宗郎が起きてきたということだ。由美の首を締めているのは、もしかして宗郎なのだろうか。でもなぜ宗郎が由美の首を締めるのだろう。
宗郎は由美を愛している。宗郎が由美の首を締める理由はない。宗郎が由美の首を絞めるはずは絶対にないわ。
首を締めている犯人は、部屋に侵入した強盗に違いない。
絶対にそうだ。由美は、きっと鍵を掛け忘れたのだ。「エリーゼのために」が流れているということは、宗郎は起きている。宗郎はどこにいるのだろう。
由美は、「宗郎、助けて。」と叫ぼうとした。しかし、喉を締められて声が出せない。
由美は身を翻して、首の圧迫から逃れようとした。しかし、体の筋肉に力がはいらない。首を締めている手を解こうとしても、由美の腕は、麻酔薬を打たれたように動かない。由美はますます息が苦しくなってきた。
由美の首を締めている犯人は侵入してきた強盗なのだろうか。
今日に限って、玄関の鍵を掛けなかったということはあり得るかもしれないが、由美は鍵を掛け忘れたことは今まで一度もない。もし、鍵を掛け忘れたとしたら今日が初めてである。鍵を掛け忘れた今日に限って強盗が入るという確立はとても低い。本当に強盗が侵入したのだろうか。玄関の鍵を掛けることは、由美の嫌いな外の世界を断ち切る由美の儀式である。由美が玄関の鍵を掛け忘れたということはあり得ない。
もし、玄関の鍵を締めていたら、強盗が由美の部屋に侵入できるはずがない。首を締めているのは、強盗ではなくて宗郎なのだろうか。いや、宗郎が由美の首を締めるのは考えられない。しかし、強盗が入ったとも考えられない。誰、誰なの、由美の首を締めているのは誰なの。
首を締めている手の冷たさは宗郎の体温の冷たさに似ている。宗郎が、由美の首を締めている・・・・。
なぜ、宗郎が由美の首を締めるのだろう。
宗郎が由美の首を締める理由があるのだろうか。
いや、そんな理由なんかあるはずがない。
なぜ宗郎が由美の首を締めるのか。由美はわからない。
由美は死ぬのはいや。
由美は殺されるのはいや。
首を締めているのが強盗であっても、宗郎であっても、由美は殺されるのはいや。由美は死ぬのはいや。
由美は死を拒絶して全身に力を込めた。