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由美の純愛 その2

高台の由美の棲家は、由美の心を落ち着かせる。由美は、由美の棲家を由美の親兄弟にも教えていなかった。誰にも教えていない由美の棲家。由美と宗郎の二人だけの棲家。由美は由美をいらいらさせる街から夜空の方に目を移した。


夜空。

月のない夜空。

小さな星たちが慎ましく点滅している夜空。

無数の星たち。

星を眺めている由美は目を瞑った。

目を瞑ると、

由美の瞼に星空が広がった。

鮮やかな星空。 

天の川が星空の中央に横たわっている。

宇宙に飛び出した由美は彦星を探す。

あったあった。

彦星があった。

小さな粒のような星たちの中で、

燦然と輝いている彦星。

宇宙を飛んでいる由美は、彦星を目指して進む。

ぐんぐん進む。


進んでいる内に、いつの間にか由美の意識は遠のき、十数分後に、由美はバルコニーのベランダの上に両手を置き、腕の上に顔を載せて、寝入っている自分に気がついた。

由美はまだ眠るわけにはいかない。由美には部屋を片付ける仕事が残っている。由美が愛する宗郎の世話もしなければならない。由美は、ベランダから離れ、部屋に戻った。



疲れている由美はすぐに寝たいが、荒れた部屋をそのままにしておくわけにはいかない。由美は服をジャージに着替えると、片付けを始めた。


床に転がっているお椀を拾う。

壁に激しくぶつけられたコップはねじれていた。

お箸やスブーンは床に散乱している。

本は、床や部屋の角に、ベージが開いた状態でだらしなく寝そべっている。

掃除機は廊下でひっくり返り、吸引ホースはだらしなくくねっている。

由美は食器を食器棚に並べ、本を本棚に戻し、掃除機は部屋の片隅に置いた。散乱している衣服類は、丹念に畳んでタンスに入れた。延々と続く静かな夜の片づけ作業。夜の時間は過ぎて行く。由美は黙々と散乱している物たちを片づける。ひとつひとつ物は片付き、廊下から散乱している物たちは減っていき、居間やキッチンの床に散乱している物たちも減っていく。やがて、由美の片付け作業は終わる。

片付けが終わると、最後に部屋中を掃除をする。

掃除を終わった由美は、ジャージを脱いでシャワー室に入り、シャワーを浴びた。


湯の飛沫を浴びながら、皮膚の表面に残った汗やゴミを丁寧に手で擦り、洗い流す。首を手で擦った後に、腕を擦る。胸、腹、大腿、足と由美の手は由美の体を擦り続ける。手で擦っても、病院のあの嘔吐しそうな臭いは消えない。由美は、シャワーのノズルを壁に掛けてから、石鹸を着けたタオルで、体を満遍なく洗う。タオルで体を洗った次に、垢こすりで、再び丹念に体を擦る。垢こすりで丹念に体を擦った後は、再びタオルで体を洗う。由美は由美の体から、病院の腐臭を完全に消すために、何度も体を洗う。


由美は、白衣から病院の腐臭を完全に落とすために、白衣を三度洗濯する。一度洗濯しただけでは薬臭は消えるが、薬瓶から抜け出て気体になった薬が、病院のカビや病人の体臭と融合して白衣に付着した腐臭は消えない。その腐臭は二度洗っても、鋭敏な由美の臭覚を悩ませる。三度目の洗濯で、白衣から由美を悩ませる病院の腐臭はやっと消える。


由美は、由美の柔肌を丹念に洗い、病院の腐臭のすべてを由美の肉体から洗い流して、由美は、身も心も純になってシャワー室を出る。


 これから宗郎の体を拭く。ベッドに横たわっている宗郎。起きているのか寝ているのか、由美には分からない。

宗郎は、由美が部屋に居る間はベッドの上に身を横たえたままである。起き上がって、由美の相手をしてくれない宗郎。由美は、宗郎が起きてくれないことに一抹の寂しさを感じるが、宗郎の心を由美の自由にすることはできない。由美は宗郎に合わせて、由美の愛を宗郎に注ぐしかない。


由美は、柔らかいタオルと、お湯の入った洗面器を持って宗郎の部屋に入った。由美は一糸纏わない裸のままだ。シャワーを浴びた後の由美は、一糸も纏わない真裸になるのが習慣になっている。ここは、他人の居ない由美の自由な部屋なのだから、由美は一番自由を感じる裸でいる。


由美は、宗郎が横たわっているベッドに近寄り、宗郎を覆っている毛布をゆっくりと剥ぎ取った。白く痩せた宗郎の肉体が、ベッドの上で露になった。宗郎の体は、透き通るように白く、骨や内臓が透けて見えてしまいそうだ。由美は、タオルを洗面器のぬるま湯に漬けて絞る。絞る時に、ぎゅうっと力を入れるが、思い切り力を入れようとすると、気力がすうっと抜けていく。

すーっと気力が抜けていき、その後に、どこからかけだるい安堵感が由美の体内にやってくる。外界では一度もやって来ないこのけだるい安堵感。病院で看護士として働いている時の緊張と不安も、街で感じる緊張と不安も、由美の体から消えていき、軽いハミングが思わず鼻から流れ出そうな幸せの感情をもたらしてくれるこのけだるい安堵感。

渾身の力でタオルを搾ろうとすると、すーっと気力が抜けていき、その直後にやってくる幸せの感情をもたらしてくれるけだるい安堵感を、宗郎の体を拭きながら、由美は毎夜体感する。


毎夜、幸せを感受する由美は、現実の嘆きを中和するために、子供の頃の純な時代の思い出に浸る必要はない。

幸せの感情に浸れるけだるい安堵感を、由美は毎夜感じるのだから、数えることのできる過去のわずかな楽しい思い出を、記憶のタンスから引き出す必要もない。

幸せの感情をもたらしてくれるけだるい安堵感に由美は毎夜浸れる。だから、由美はロマンティズムな小説の主人公に、わが身を変身させる必要もない。

けだるい安堵感に包まれて、幸せに浸っている由美には、過去の思い出に浸ったり、空想の夢に浸ったりして、今の我が身から逃避する必要はない。


毎夜、由美は宗郎と由美の二人だけの世界に浸ることができる。由美の愛と幸せが行き着く場所。ここがその場所。宗郎が横たわるベッドが、由美の愛と幸せが行きつく場所。由美の愛の世界。由美の幸せの世界。


力の抜けたけだるい右手は、柔らかなタオルを握り、左手は宗郎の手首を掴む。細い宗郎の手首。青白く透き通った宗郎の腕。補助灯の弱い光の中へ消えてしまいそうな宗郎の透き通った腕。爪を立てたら、宗郎の皮膚は破けてしまいそう。

由美と宗郎の二人の部屋の深夜の時間の流れは、大河の流れのようにゆったりと流れている。由美はゆっくりと宗郎の腕を拭き、それから胸を拭き、何度もタオルを洗面器のお湯につけて、タオルをけだるく絞りながら、宗郎の首を拭き、宗郎の顔を拭き、宗郎の腰を拭き、腹から大腿へ、大腿から膝へ、膝から脛へ、脛から足へと拭いていく。足裏と足の指を拭き終えた由美は宗郎の顔を見詰める。


宗郎は目を開かない。眠っているのか、眠った振りをしているのか・・・・・・。


宗郎は息と心臓を止めているかのように動かない。


蝋人形のように、静かにベッドに横たわっている宗郎。由美は宗郎に声を掛けたくなったが、思いとどまり、ベッドを離れて、風呂場に行き、洗面器のお湯を棄てた。

 風呂場から出た由美は、再びコーヒーを入れて椅子に座った。宗郎の裸体を隅々まで拭き終わり、由美の一日が終わった。


・・・宗郎 由美 出会い・・・

・・・由美 宗郎 愛・・・

・・・由美と宗郎だけの 愛の部屋・・・


由美はステレオのスイッチを入れた。ジョン・コルトレーンのサックスが奏でるバラードが部屋に流れた。由美はコーヒーを飲みながら、ジョン・コルトレーンのサックスのバラードを聞く。闇の中の切なさ。

切ない愛の音、

深い愛の音、

孤独な愛の音、

コルトレーン・サックスの切ない音。一日の終わり。


由美はテーブルに肘をつき、コーヒーを飲む。コーヒーを飲みながら、一日が終わったという安堵感が由美の体と神経を安らかにしていく。


由美と宗郎。

宗郎と由美。


由美は、宗郎との将来に少しも不安はない。

宗郎は由美のもの。

由美は宗郎のもの。

それだけ。


それだけのことが全て。

難しいことではない。

難しくない由美と宗郎の今の状態が、明日も同じように続けばいい。来年も今と同じ状態であればいい。五年後も、十年後も、二十年後も・・・・。

由美は、今の生活を淡々と続けていく。それが由美の幸せ、それが由美の大切なこと。

宗郎の過去を思い出すことも、由美の過去を思い出すことも、由美には必要ない。宗郎の未来を思い描くことも、由美の未来を思い描くことも、由美には大切ではない。今をそのまま持続し続けることだけが由美には必要で大切なこと。

由美は、そのように疑うこともなく思っている。


コルトレーンのサックスは、最初の曲に戻り、再び囁くように部屋に流れている。由美は目を瞑り、コルトレーン・サックスの切ない音の流れに、心を溶かしていった。


 人の動いている気配がした。

きっと、ベッドから起きてきた宗郎に違いない。


気配は、由美の側にやって来た。由美から一歩ほど離れた所で気配は止まった。宗郎は由美から一歩ほど離れた所に立って、由美をじっと見つめているのだろう。


由美は目を開けて宗郎の方を振り向き、宗郎と話したいと思った。しかし、由美の上瞼と下瞼は強力な接着剤が塗られたようで瞼を開くことができない。コルトレーン・サックスを聞きながら安らいでいる脳は、無理やりに目を開こうとする気力を失っている。由美の体も心地よいけだるさに酔い、宗郎の方を振り向こうとしない。

「いちにち」を終えた由美の体と脳は、安らぎの世界に溶けていこうとして、目を開き宗郎を振り向きたい由美の気持ちを無視して、由美の側に立っている愛する宗郎に反応しようとしない。


 宗郎は、コルトレーン・サックスのバラードを消すために起きてきたのだろうか。宗郎はジャズが嫌いだった。ジャズは雑音でうるさい存在だと、宗郎が言っていたような気がする・・・・・・。宗郎は「エリーゼのために」のような、ソフトできれいなクラシックが好きだったような気がする・・・・・・。

由美はなぜか知らないが、ソフトできれいなクラシックは嫌いだ。特に、「エリーゼのために」はとても嫌いだ。宗郎が好きだから、宗郎が好きな「エリーゼのために」を好きになる努力をやったはずだけど、どうしても「エリーゼのために」を好きにはなれない。

・・・いや、「エリーゼのために」を好きになる努力をやったことは一度もないような気がする。・・・・ずっと昔・・・・

少女時代の由美は「エリーゼのために」というクラシック曲はとても好きだったような気がする。・・・・しかし、いつの間にか好きではなくなっていた・・・・

・・・・。なぜ好きではなくなったのだろう。・・・その理由を由美は知らない。・・・。

とても好きだった「エリーゼのために」が、好きではなくなった頃を由美は覚えていない。好きではなくなった理由を由美は知らない。とても好きだった「エリーゼのために」というクラシック曲を、由美は、いつの間にかとても嫌いになっていた。


宗郎が、「エリーゼのために」を好きだったから、「エリーゼのために」を好きになろうと努力したことはあったはずなのに、・・・・・いや、好きになろうと努力したことはなかったような気がする・・・・・。

「エリーゼのために」を少女時代には好きだったのだから、「エリーゼのために」を好きになる努力をしたとは考えられない。ひょっとすると、好きになる努力をしたのは、「エリーゼのために」ではなくて、コルトレーン・サックスのバラードだったかも知れない。そんな気がする。でも、そうではなかったかも知れない。由美は覚えていない。


暗い部屋で、膝を抱えて涙を流しながら、とても長い時間。コルトレーンのサックスのバラードを聞いていた頃があったような気がする・・・・・。


なぜ、膝を抱えて涙を流していたのか、その理由を由美は覚えていない。とても孤独だったような気がする。とても大切なものを失った悲しみの涙だったような気がする。由美の命より大切なものを失った悲しみの涙だったような気がする。でも、大切なものがなんであったか由美は覚えていない。

・・・暗い部屋で、永遠を思わせる程長い時間、由美はコルトレーン・サックスのバラードを、涙と一緒に聞いていた・・・・・ような気がする。なぜ聞いていたか、由美は覚えていない。


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