千人針
昭和二十年四月一日、アメリカ軍による上陸作戦が開始され、沖縄本島は敵の激しい攻撃に晒されていた。
絶え間なく続くアメリカ軍の猛攻は、沖縄の全てのものを焼き払い、破壊し尽くす。
しかし、戦時中の情報統制下、遠く広島の町にいる百合子には沖縄の惨状など、この時は知る由もなかった。
爆煙が舞う沖縄の空とは打って変わり、今日も広島の空は澄み渡るような青空が広がっていた。
何とも清々しい、朝の始まりである。
「百合ちゃん、おるんね?」
朝食が済み、しばらくすると、長谷川家の玄関で来客を知らせる弾むような声が聞こえる。
菊江が玄関先をのぞき込む。すると、百合子と同い年の幼馴染み大川夏美が立っていた。
「あら?夏ちゃん…」
百合子と夏美の家は、昔から家族ぐるみでの付き合いがある間柄で当然、二人も赤ん坊の頃からのくされ縁である。
ぷにっと柔らかそうな頬に三つ編みがよく似合うその風貌は、まさしく名前の通り、夏の日差しのような、まばゆいばかりに明るい少女であった。
「おばちゃん、百合ちゃんおるんね?」
クリクリとした瞳をニッコリとさせて、夏美が尋ねる。
「百合子なら、部屋におるよ」
「ほうね!ほいじゃあ、お邪魔します」
菊江の返答を聞くなり、夏美はサッと靴を脱ぎ、家の中に上がり込む。そして、二階にある百合子の部屋へ一目散に階段を駆け上がって行く。
いつもの事とは言え、何とも忙しなく、騒がしい少女だ。
「百合ちゃん、早ようしぃね!」
襖を開け、部屋に飛び込むと、夏美は勢いそのままに百合子へと声を掛ける。
「あ、夏ちゃん!」
「『あ、夏ちゃん!』じゃ、なぁじゃろ?」
夏美とは対照的に百合子は呑気そのものだ。
「ど、どうしたんね?そんとに慌てんさって…」
とつぜん現れた夏美にたじろぎつつ、櫻子はその訳を尋ねた。
「あぁ、櫻ちゃん!はあ(もう)聞いてつかぁさいや」
──と、前置きを済ませると、夏美はけたたましいまでの早口で再び口を開き始めるのだった。
「今度、角の前川さん方(家)の清さんが出征するじゃろ?ほいでな、きんにょう(昨日)千人針を一緒にてごする(手伝う)約束をしたんよ!ほいじゃが、約束の時間になっても百合ちゃんちぃとも来んけぇ、うちがこうして迎えに来た言う訳なんよ」
言い終わると、夏美は目一杯に大きく呼吸を繰り返した。
「──ほ、ほうね」
まさしく、息つく暇もなく矢継ぎ早に繰り出された夏美の言葉に櫻子は只々圧倒されてしまう。
千人針とは、合力祈願の一種で通常は1m程の白い布に赤い糸で千人の女性が一人一つずつ縫い目を結い付けて行く。
そうして出来上がった布は、戦場へ赴く者への武運長久の御守りとして渡されるのだ。
特例として、寅年の女性は年の数だけ結び目を縫う事が出来るのだが、これは虎が『千里を行き、千里を帰る』との言い伝えに由来する験担ぎであった──
「百合ちゃんは、ほんまにぼんやりなんじゃけぇ困るわいねぇ」
「ご、ごめんなさい…」
両手を併せ、百合子は申し訳なさげに頭を下げる。取り敢えず、夏美が言う約束の時間とやらはとうに過ぎていた。
「ほいじゃあ夏ちゃん、うちも千人針てごするわいねぇ」
「え!ほんま?櫻ちゃんがおったら助かるようねぇ」
妹のお詫びとばかりに、櫻子も一緒になって手伝ってくれるのだと言う。なるべく人手を必要としていただけに、この申し出は大歓迎だった。
「ほいで、前川さんらぁは何処で千人針をしよん?」
「相生橋よ!お姉ちゃん」
櫻子が場所を尋ねると、ここぞとばかりに百合子が答える。
何とも必死なその態度が、あまりにも滑稽すぎて、夏美も櫻子も堪え切れずについつい吹き出してしまう。
「ほいじゃあ、早よう相生橋に行くわいねぇ!」
「うん!」
「ほうじゃねぇ、前川さん待っとるかも知れんけぇね」
百合子と櫻子が答える。
とにかく三人は、急いで相生橋へと向かった。
相生橋は、太田川と元安川の分岐する地点に架けられ、百合子達の住む舟入地区と対岸の繁華街、そして両川の中洲に当たる中島地区とを繋けているT字型の非常に珍しい形をしている橋である。
元々、二つの橋が“相合う”形で架けられていた事が、その名の由来だと云う。
昔から人の往来も多く、絵葉書にも描かれる程、市内の名所として知られた場所なのだ。
百合子の家からは、電車道と呼ばれる舟入通りに出て、まっすぐ土橋方面へ向かい、十日市の交差点を右に折れ、そのまま相生通りを東へと進めば橋の西詰めに到着する。
百合子達三人が、急いで相生橋へ駆け付けると、ちょうど橋の真ん中辺り、T字に交差する場所で千人針を募っている清の母芳子と妹の澄子の姿が見えた。
「あぁ、おった!前川のおばちゃんと澄ちゃんじゃ」
人々の往来を掻き分け、百合子達が近付く。
「おばちゃん、澄ちゃん!遅うなってごめんなさい」
「あ〜、やっと来んさった!」
「えぇんよ。わざわざ、てごしに来てくれとるんじゃけぇ、気にせんでね」
ばつが悪そうにする百合子とは対照的に、澄子も芳子も三人が遅れて来た事など気にした様子もなく気さくに笑った。
「おばさん、清さんの御出征おめでとう御座います」
「ありがとうねぇ。清も、お国の為に奉公できる言うて、ほんま喜んじょった」
改めて、櫻子が祝辞を述べる。お国の為に何かを成せると言う事は、国の存亡に瀕していた当時の彼ら国民にとって、まさに誉れであったに違いない。
「澄ちゃん!千人針、どれくらい集まったん?」
「ずっと毎日、千人針をやってたけぇ、半分くらいようねぇ」
夏美に尋ねられ、澄子は誇らしげに白い布を広げてみせる。
この四月から、ようやく国民学校の一年生に進級した澄子は、まだまだあどけなさが残る、おさげの似合う可愛らしい女の子だ。
百合子や夏美にとって、澄子は妹のように可愛い存在である。
「よう集めんさったねぇ」
「うん!」
百合子が頭を撫でると、澄子は何とも嬉しそうに笑う。
「さて、てごする前に、うちらも千人針せんとね!」
そう言って、櫻子が手際よく白い布に赤い糸を縫い付けて行く。これに続き、百合子と夏美も順々に千人針を行う。
「みんなぁ、ありがとうねぇ」
芳子が笑顔で礼を述べる。こんな時、近所付き合いとはつくづく有り難いものだ。
「ほいじゃあ、うちらも元気に声を出して行こうかねぇ!」
さぁ、これよりいよいよ百合子達も一緒になって千人針を募る手伝いの開始である。
夏美の合図で、百合子も櫻子も声を弾ませるように精一杯、道行く女性に向け呼び掛けて行く。
「どうか、千人針にご協力お願いします!」
「ご強力お願いしまぁす!」
往来を行く人々の視線が、声に導かれるように百合子達へと向けられる。
その内、主婦らしき女性数人が百合子達へと近寄って来た。
「あら、可愛らしい針子さんが一杯おってじゃねぇ!」
女性の一人が、百合子達をぐるっと見渡しながら、そう言って優しくほほえむ。
「あ、ありがとう…ございます」
百合子はその女性に対し、何気なくお礼を言う。すると、それに呼応するかのように夏美が厭らしい笑みを浮かべ口を開いた。
「ふ〜ん、百合ちゃん、あんたぁ自分が可愛い思うてじゃね?」
すかさず入る夏美の鋭いツッコミに、百合子は顔を真っ赤にさせてたじろぐ。
「えぇ?うち、そんなんよう思わんよぉ…」
困り果てた様子で百合子が返すと、周囲はとたん、笑いの渦に包まれた。
その後も百合子や夏美、櫻子の呼び掛けは続き、道行く女性達が次々と千人針に協力して行く。その度に赤い糸が紡がれ、白い布を彩りを重ねる。
「ありがとうございます」
百合子達は、ペコリと頭を下げ千人針に協力をしてくれた女性達一人一人に謝意を伝えた。
人と人との繋がり、それがどんなに大切なものなのか、百合子は千人針を通じて気付かされる。
「みんなぁ、今日は千人針てごしてくれて、ありがとうねぇ」
芳子が百合子達を見渡し、改めて頭を下げる。
丸一日、街頭に立って千人針を募り、くたくたになる程に疲れてはいたが、人の為に何かをする事が、こんなにも充足感を得られるものだと百合子は知った。
「澄ちゃん、後もちぃとで千人針が出来るよ!えかったねぇ」
「うん!」
澄子もニッコリほほえみ、百合子の言葉にうなずく。
今日一日の成果で、数日後に控えた清の出征までには千人針も間に合うだろう。
後は、戦地へと赴く清の無事を願いつつ、彼が後顧の憂いを残さぬように送り出すのみである。