沖縄の危機
夕日の照り返す水面を揺らし、夕凪がそよぐ海原へ向かって戦艦大和は今、第二艦隊を率いて広島湾を出港する。
湾内に残る全ての艦艇が、第二艦隊の為に一斉に汽笛を鳴らし、これを見送った。
夕空に吸い込まれて行く汽笛の音と相まって、何とも幻想的で幽玄な情景を浮かび上がらせる。
この時、第二艦隊を見送る誰もが、心の何処かで感じていたのかも知れない。
「戦艦大和の勇姿を目にする最後なのではないか」と──
沈み行く夕日に向かい、出撃する大和がもの悲しくみえる。
それ程、悲壮感を匂わせる寂しい出撃風景だった。
広島湾から出ると、第二艦隊は佐世保へと向かうべく瀬戸内海を西に進む。
広島から佐世保への航路は、大まかに分けて二通りある。関門海峡回りと豊後水道回り、二つのルートがそれだ。
だが、関門海峡は先日の二十七日に敵の機雷散布により、海上封鎖された後である。
必然、航路は豊後水道にのみ限定される。
大和以下第二艦隊は、豊後水道を南下し、大隅半島を通過して進路を北へと転身、佐世保への航路を執るつもりだった。
ところが、出撃から程なくしての事だ。
周防灘へと差し掛かろうとした頃、第二艦隊の佐世保への回航が急遽延期される事と相成った。
敵機動部隊が、接近との報せによるものである。
当初の作戦通り、第二艦隊の動きに応じ敵機動部隊が誘いに乗って北上して来たと言うのに、肝心の日本海軍が菊水作戦との連携を上手く行う事が出来ず、出遅れてしまったのだ。
先手を打つつもりが、否応なく後手に回された感が否めなくない状況であった。
しかも、敵の機動部隊はこの隙を逃す事なく、三十日には艦載機から機雷を散布し、広島湾一帯を海上封鎖して大和の逃げ道を断ったのである。
退路を断たれ、第二艦隊は三田尻沖での待機を余儀なくされた。
大和は、またしても世界一と謳われたその巨体を弄ばせ、ただ水面に浮ぶのみとなった。
思い返せば、大和は誕生以来、不遇だったのかも知れない。
戦艦として、生まれて来たにも関わらず、その誕生以来、敵と砲火を交える機会すらなく今日へと到った。
特に姉妹艦の武蔵が連合艦隊に編入され、その旗艦に就任した昭和十八年頃は、大和が所属する第一艦隊第一戦隊は戦場に赴く事もなく、トラック島で前線指揮を執るだけとなっていた。
その為、他の艦の乗組員からは『大和ホテル』『武蔵旅館』と揃って揶揄されたものだった。
大和がトラック島の前線基地にいたのは、もう二年も前の話である。
「思い出すのぉ…」
慌ただしい出撃から一転して、大和は今、静かに海上に佇む。
穏やかに波立つ水面を見詰め、梅太郎がポツリとつぶやいた。
出撃が延期となり、緊迫した雰囲気から、解き放たれたからなのかも知れない。梅太郎は、大和がトラック島に停泊していた頃を不意に思い出していた。
「班長、どうされましたか?」
隣にいた大石が不思議そうに尋ねると、梅太郎は照れくさそうに口許をゆるませて答えた。
「トラック島におった頃を思い出してのぉ。あの頃も大和は、出撃もせんでずっと海に浮かんじょった…」
「聞いた事があります!トラック泊地は、連合艦隊の艦艇がズラリと並び、雄壮な眺めだったと」
あの頃は、山本五十六連合艦隊司令長官も健在で、武蔵のマストには、いつも大将旗が掲げられていた。
トラック泊地に停泊していた艦艇も、錚々たるものだった。
そんな威容を誇っていた連合艦隊も、今や見る影もない程の有り様である。
山本司令は戦死し、次に連合艦隊司令長官となった古賀峯一大将はダバオで消息を断ち、今は豊田副武大将が連合艦隊の司令長官として指揮を執っている。
戦局の悪化に伴い、大和も他の艦艇同様、追われるようにトラック島を後にして内地へと引き返して来た。
姉妹艦の武蔵も、今は遥かフィリピンのレイテ沖シブヤン海の底深くで多くの英霊達と共に静かに眠っている。
華やかなりし栄光の日々は、もう遠い思い出の彼方となってしまった──
四月一日、かねてより危惧されていた米軍の沖縄本島上陸作戦がついに始まった。
沖縄の周辺海域に集結した多数の艦隊が、上陸部隊を支援する為に一斉に攻撃を開始する。
嵐のように降り注ぐロケット弾の数々、容赦のない艦砲射撃は大地を穿つ。
機動部隊より飛び立った艦載機の波状攻撃は、地上のあらゆる物を破壊する。
敵の大規模な攻勢は、激しさを増して民間人に襲い掛かり、日本軍の守備隊は為す術もなく駆逐されて行く。
物量に物を言わせた攻撃に抗う術などなく、今や沖縄は民間人をも巻き込んだ凄惨極まりない激戦地に変わり果ててしまった。
そんな時、海軍は三田尻沖で待機中の第二艦隊を沖縄へ突撃させる事を決定する。
待機中とは言え、第二艦隊へ発令された天一号作戦は未だ継続中のままであった。その為、第二艦隊を沖縄周辺の敵艦隊へ特攻させようと言うのだ。
「長谷川班長、よろしいでありますか?」
まだ、あどけなさの残る少年兵達が、艦内通路で擦れ違い様に梅太郎を呼び止める。
「ん?お前ら、どうした」
梅太郎を呼び止めたのは、松本睦夫一等水兵、佐竹衛一等水兵、香川次郎一等水兵ら、三人の少年兵だった。
彼らは昨年、補充要員として大和に配属されたばかりの新兵で、梅太郎の最も若い部下達だ。
「班長、次はいよいよ沖縄でありますか?」
少年兵達は、思い詰めた様子で梅太郎に尋ねる。
「多分、ほうじゃろのぉ…」
すでに、大和艦内でも次の出撃先は沖縄ではないかと、その話題で持ち切りであった。
沖縄周辺には、すでに多数の敵艦隊が大挙していると云う。
沖縄へ出撃ともなれば、激しい戦いとなるのは必至だ。
少年兵達は、その噂を聞き付けて不安で堪らないのだろう。
「お前ら、下船許可は申請せんのか?」
梅太郎が、少年兵達を見やり尋ねた。
来るべき出撃に備え、第二艦隊司令である伊藤中将は、長男や嫡子、特に兄弟のいないお家断絶に関わる者や年端も行かない年少者などを対象にして、希望者への下船許可を考慮していた。
この考えに大和艦長である有賀幸作大佐も賛同、申請をすれば下船許可が下りたのだ。
伊藤長官や有賀艦長、二人のせめてもの温情である。
勿論、梅太郎もこの考えには賛同であった。若い者には、国を築く礎となって欲しいと常々考えていた。
「班長、我々もご一緒させて下さい!我々も日本を守る為、戦いたいのであります!!」
懇願するような眼差しを梅太郎に向け、少年兵達が言う。
若い彼らも、国を憂いる気持ちに変わりはない。
そんな尊い思いを抱く彼らだからこそ、大和から降りて内地に残り、これからの日本の為に活躍して欲しいと梅太郎は願った。
「お前ら、無理をせんでもえぇんじゃぞ!下士官以下の年少者は、下船許可が下りとる。艦を降りても、誰も文句は言わん」
梅太郎の言葉に、三人は戸惑いの表情を一瞬のぞかせるが、すぐ様、思い直したように決意に満ちた顔付きに変わる。
「我々も国を守りたい気持ちは負けておりません!是非とも、次の出撃もご一緒させて下さい!!」
まっすぐに梅太郎を見据え、少年兵達が言う。
彼ら三人の覚悟の程が、痛い程伝わって来た。
「──分かった!じゃがのぉ、命だけは粗末にしちゃあいけん」
「はい!」
次の作戦が沖縄だとすれば、今度の出撃は、今までになく厳しいものになろう。それ程まで、沖縄の状況が逼迫していると言う事である。
「どんなに厳しい作戦であってものぉ、諦めちゃあイケンで!」
梅太郎は、松本、佐竹、香川ら一人一人の肩に手をやり、言葉を掛けた。
それが今、梅太郎が彼ら少年兵達に掛けられる、せめてもの言葉だった──