表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
百合子の青い空  作者: 九里瑛太
1/13

昭和二十年三月、広島

 広島と言う街は、城下町の古きよき風情と西洋のモダンな佇まいが同居した、何とも味わいの深い特徴的な街だ──


 そもそも、広島の街が今日のような発展を遂げたのは、戦国末期に安芸の国を治めていた戦国大名毛利輝元がこの地に居城を構えた事に由来する。

 毛利氏は、元々山あいの吉田に小城を構える地方豪族に過ぎなかった。

 それが、元就の代になって頭角を表し、やがて周辺の有力者を次々と併呑して次第に勢力を拡大、ついには大内氏や尼子氏と言った列強を破り、中国地方に覇を唱えるまでの一大国家を築き上げたのである。


 しかし、その孫である輝元の代になると、政務や軍事、経済など領国経営の面において、交通の要衝となる場所への本拠地移転が必要となった。

 そこで輝元は、当時『五ヶ村』と呼ばれた太田川の三角洲にある寒村地帯に築城を開始、この地を『広島』と改めて居城を移し城下の整備を行う。

 城下町全体を拡張する為、開拓や干拓を始めた事が、まさにこの街の発展基盤となったのだ。


 江戸期に入り、徳川家が天下を治めた幕藩体制下には福島家、浅野家と代わる代わるこの地を治めて来たが、開拓、干拓事業は引き続き行われた。

 その干拓事業の一環で出来たのが、市の南側の土地と太田川を本流とした市内を幾重にも流れる川であった。

 この為、広島の地は水運なども古くから盛んに行われて来た。


 明治を迎えると、広島市は商工業や殖産業にも力を入れるようになり、様々なイベントを展開し、それらの育進を街全体で推奨したのである。

 その発展のシンボルとして元安川の畔に建設されたのが、広島県物産陳列館、後の広島県産業奨励館であった。

 新鋭的なフォルムを持つ建物、その近隣には、細工町や猿楽町など、昔ながらの職人町が隣接し、対岸の中島地区は映画館やビリヤード場などの娯楽施設も充実する歓楽街を形成した。

 街の発展と共に移動や運搬など利便性を高める為、広島電鉄による路面電車網が整備され、市内を行き交うようになった。

 最盛期には、人口も四十万人を越え、繁華街も賑わいが絶えず、広島市は中国地方でも最大の都市へと発展を遂げた。


 しかし、その一方で、広島市は軍都としての側面も持ち合わせていた。

 明治時代、広島鎮台を母体とした陸軍第五師団が編成されると、第五師団は広島城に常駐、城周辺にも軍施設が設営された。

 日清日露の戦争時には、本丸に大本営が置かれ、ここで戦争の指揮が執られたのである。

 その後、広島城には中国軍管区が置かれ、中国地方の軍政を一手に統括するようになった。

 また、昭和十六年十二月に始まった今次大戦においても、広島城には前線司令部が置かれ、主に南方戦線に部隊を派遣していた。

 まさに、広島は西日本最大の軍都と言っても過言ではない程の大都市なのだ。


 そんな対米戦争も、今や佳境に入りつつあった。

 日本の各主要都市は、連日連夜の空襲で壊滅的な被害に遭い、大勢の人々が家を焼け出されて路頭に迷っていた。

 国中で本土決戦の気運が高まる中、いよいよ米軍が本格的に沖縄本島への上陸を試みる。

 もはや、日本中が戦場と化すのも時間の問題であった。


 ところが、そのような逼迫的な状況を迎えるに到っても、広島市は今のところ大規模な敵の攻撃を受ける事もなく、幸いにして甚大な被害を被ってはいなかった。

 軍事拠点として、真っ先に狙われてもおかしくはないはずなのだが、敵が攻撃するのは近隣の呉市や岩国市ばかりである。

 つい先日も、呉の海軍関連施設や残存艦艇が攻撃を受けたが、広島市は全く無事であった。

 無論、今まで一度として警報が発令されなかった訳ではないが、本格的な攻撃で被害を受けた事は未だになかった──


 そうした戦時下にあっても、変わる事なく暦はめぐり、桜の花が咲き誇る季節が訪れをみせる。

 広島市も、それは例外ではなかった。

 暖かい春の日差しが、何とも肌に心地よい。

 そんな長閑な雰囲気の中、百合子は家族と共に広島電鉄の線路が通る舟入通り、通称“電車道”にある電停に向かっていた。

「お父ちゃあん…」

 潤んだ大きな瞳で梅太郎を見上げると、百合子はまとわり付くようにオカッパ頭を父の体に預け、軍服の袖を掴み、甘えてみせるのだった。

「どうしたんね?」

 くっついて離れない娘に対し、梅太郎は優しく言葉を掛ける。

 すると、百合子はアヒルのように唇を尖らせ、少々拗ねた口ぶりで父に尋ね返した。

「──お父ちゃん、はあ(もう)行きんさるんじゃろ?」

 梅太郎は海軍の軍人であり、しかも普段は海上勤務の軍艦乗りである。その為、家に帰って来れるのは年に数える程しかない。

 今回の帰省も、出撃前の下船許可、いわゆる『入湯上陸』によるものであった。その数少ない休暇を家族と共に過ごす為、梅太郎は呉から帰省していたのだ。

 しかし、入湯上陸は丸一日しか与えられず、今日の夕刻までには自身の乗艦に戻らなければならなかった。

 百合子は、そんな梅太郎を家族と共に舟入通りの電停まで見送りに来ていた。

「うちは、もっとお父ちゃんと一緒にいたいようねぇ」

 もう間もなく、電停に電車が到着すれば、梅太郎は呉へと戻ってしまう。そうなれば、今度はいつ会えるのか分からない。

 考えただけで、百合子の胸にはどうしようもない程の寂しさが込み上げて来る。

「はあ、ほんまに、あんたぁは甘えん坊じゃねぇ」

 見兼ねた母の菊江が、呆れたような口ぶりで声を掛ける。

「えぇよ…うちは、甘えん坊じゃけぇね!」

 頬を膨らませ、百合子はムスッとした表情で拗ねてみせた。

「ほらぁ、そんとにはぶてんさんな(拗ねないで)!お父ちゃんを困らせたらいけんようねぇ」

 姉の櫻子も、言葉を添え、百合子を諭す。

「ほ、ほいでもぉ…」

 百合子だって、何も梅太郎を困らせたい訳ではない。ただ、父との別れが惜しいだけなのだ。

「えぇか?百合子…」

 腰を低くして、百合子に目線を合わせると、梅太郎はそのまま言葉を続けて行く。

「お父ちゃんはのぉ、百合子やお母ちゃん、櫻子を守る為に軍艦に乗って戦いに行くんじゃ…」

 海軍の軍人として、梅太郎の思いは当然のものだ。

「分かったくれるの?」

 ニコリと優しくほほえみ、梅太郎は念を押すように百合子に尋ねた。

「──うん」

 無論、百合子だって梅太郎の軍人としての立場は十分に理解している。

 しかし、頭では理解していても気持ちは収まりが付かない。

 ましてや、百合子はまだ数え年で十二歳である。子供の彼女が、親を慕う気持ちが前面に出たとしても、それは当然と言えよう。

 そんな不満が残る娘に対し、梅太郎は再び優しく語り始めた。

「百合子、あの空を見上げてみんさい」

「──そら?」

「ほうよ!空じゃ」

 父に促されるまま、百合子はゆっくりと顔を上げ、視線を移して行く。

「あぁ…」

 思わず、百合子は感嘆の声を上げる。

 そこには、清々しい程に深く、蒼く、透き通るような青空が広がっていた。

 空を見上げていると、何だか吸い込まれて、自分が空に溶け込んでしまいそうな、不思議な気持ちになって来る。

「空はえぇのぉ。空には区切りがないけぇ、何処まで行っても繋ごうとる…」

 おもむろにそう言うと、梅太郎は空を見上げたまま続ける。

「ワシらはのぉ、あの空じゃ!あの空と、おんなじように何処までも続いとる」

「──うちらが…空?」

 ジッと父の顔を見据え、百合子は尋ね返す。

「ほうじゃ!ワシら家族は、どんなに離れちょっても、どんな事が遭うても、いっつも一緒じゃ!あの空のように、いっつも繋ごうとるんじゃ!!」

 力強い言葉と共に、梅太郎がほほえむ。

 まるで、百合子の不安な心を払拭するかのようであった。

「ほうよ。お父ちゃんの言うとる通りよ」

 百合子の肩にそっと手を添え、菊江もまた、ほほえみ掛ける。

 例え離れていても、どんな事があろうとも、心はいつも一緒なのだ。家族の絆は、決して消えたりはしない。

 父の言葉が、百合子の胸の奥深くに刻み込まれ、みるみる元気が溢れ出す。

「うち、お父ちゃんがおらんでも我慢する!ほうじゃけえ、はあせやぁない(大丈夫)よ!!」

 満面の笑みを浮かべ、百合子が言葉にする。ようやく彼女に笑顔が戻った。

「百合子、お前はやっぱり笑うちょった方がえぇ」

 娘の笑顔に、梅太郎もつい顔がほころぶ。

 程なくして、江波方面から路面電車の走行音が響いて来る。

 土橋方面に向かう電車が、百合子達の待つ舟入本町電停に向かって姿を現す。

「舟入本町、舟入本町。お乗りの際は気を付けてご乗車下さい」

 到着した電車の中から、車掌のアナウスが聞こえる。

 いよいよ、梅太郎との別れが迫っていた。

「菊江、行って来るけぇの!」

「えぇ!貴方も、どうか気を付けて。うち方(家)の事は任せてつかぁさい」

 夫が、後顧の憂いを残さぬようにと、菊江は毅然とした態度で振る舞ってみせる。

 つくづく、よく出来た女房である。梅太郎は、そう思わずにはいられなかった。

「櫻子、お前はお姉ちゃんなんじゃけぇ、百合子を頼んだぞ」

 櫻子は百合子より二歳年上で、甘えん坊の妹と違い、よく気が利く、しっかり者の娘である。

「はい!」

 家族それぞれに声を掛け、梅太郎はその思いを伝えて行く。

 そして、最後に百合子の頭をそっと撫でると、末娘に優しく語り掛けるのだった。

「百合子!お前は、体が弱いんじゃけぇ、お母ちゃんやお姉ちゃんに心配掛けちゃあいけんぞ」

「うん!」

 百合子は、ありったけの笑顔を作って父に応えてみせる。

「すぐに、()んで(帰って)来るけぇ、みんな達者での」

 そう言ってほほえむと、梅太郎はゆっくりと乗車口のタラップを踏みしめて電車へと乗り込む。

「行ってらっしゃい!」

 百合子は、名残惜しい気持ちをグッと堪えて、ありったけの声を出し父を見送った。

 百合子の言葉に、梅太郎は安心したのか、再び笑顔で応え車窓から家族に軽く手を振り返す。

 直後、電車がゆっくりと動き出した。

 その弾みで、風にそよぐように百合子のスカートと櫻子の三つ編みが、ゆらゆらとたゆたう。

 そして、桜の花びらがまるで舞い上がるように一枚、二枚と散り始める。

「おとうちゃ──ん、行ってらっしゃ──い!!」

 次第にふりそそぐように舞い出した桜吹雪の中を、百合子は走り出した電車に向かって懸命に手を振った。

 ずっと、いつまでも…


 梅太郎の乗る電車が小さくなって土橋方面に消えて行くと、桜の花びらは再び風にそよぎ出して静かに揺らいだ。

「お父ちゃん…」

 百合子の心に、先程の梅太郎の言葉が甦る。自分達家族は、いつも一緒なのだと──

 今はその言葉があるだけで、百合子は父を近くに感じる事が出来た。

 そう思う事で、胸の奥が温かく優しい気持ちで満ち足りて来るのを感じていた。

「さぁ、百合子!そろそろ去ぬろうね」

 菊江が百合子の肩に手をやり、帰宅しようと促す。

「さぁ、去のう!」

「うん!」

 差し出された櫻子の手を握り返し、百合子は答える。

 三人は、梅太郎の見送りを終え家路に就くのだった。


 桜の花が咲きほころぶ、昭和二十年三月下旬の春の朝、広島の空は澄み渡る程に晴れやかな青空であった──




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ