白い血
白い血
彼には名前は無い。
彼を愛する人や、彼を良く知ろうとする人も無く、彼には親しみを込めて話し掛ける人さえもいない。
彼は、ただ番号で呼ばれている。
SCN9072。彼も、この番号が自分の呼称であると認識している。
SCN9072は若い。彼は、人間として体力も気力も絶頂期と言えるであろう年齢の、最高に健康優良な成人男性である。
SCN9072の顔は、かなり眉目秀麗、体は非常に均整がとれていて、見事に筋肉の付いた逞しさである。彼の容姿は、男性肉体美の見本と言っても良い程なのに、彼には妻も、恋人もいない。女友達と呼べる者はおろか、親しく接する生身の女は全く無いのだ。
なんと、SCN9072には家族も無い。肉親と呼べる者は誰一人いないのだ。
ただし、SCN9072には仲間が大勢いる。彼の周りには、いつも、たくさんの男の仲間たちがいる。もっとも、それは仲間と言える者たちなのだろうか?
たしかに、SCN9072は、彼と同じ位に健康優良な成人男性の大集団と、常に生活を共にしているから、彼には仲間が大勢いる、と言うのは間違いではないだろう。
今日もSCN9072は、彼の一日がいつでも、ずっとそうで在るように、屋根付きの野球場よりも、もっと広大な屋内空間の中で目覚めた。
仰向けに寝ているSCN9072の眼には、高い天井全面に張り巡らされた完璧なまでに無色透明のガラスが、朝陽を受けて輝くのが映っている。
SCN9072がベッドから起き上がると、その広大な屋内空間の床一面に渡って四方八方に理路整然と並べられてある数千人分のベッドから、彼の仲間のような成人男性たちも起き上がる。彼と仲間のような男性たちは、特に対話をするでも無く、またお互いの顔を、しっかりと見て挨拶をするでも無く、ただ漠然と同じような集団行動を共にしている。
SCN9072と仲間たちは、彼らにとって寝室とも言うべき広大な屋内空間から、その一角の高い壁にある高速自動車道路のトンネルように大きな通路へ向かって、ゆっくりと歩いて行く。その光景は、まるで大型草食動物の大移動のようだ。
SCN9072と仲間たちが大きな通路を抜けると、そこにも超大型航空旅客機の格納庫よりも広大な屋内空間があり、四方八方に理路整然と長い食卓が並んでいる。食卓には、彼らの為の食事が用意されていた。彼らは睡眠から目覚めたら、この巨大な食堂へ行き、長い食卓の、自分の番号が書かれている席に座り、それぞれの番号の個体の為に用意された飲料と料理を食べるべき事を知っている。
SCN9072と仲間たちは、もう何十ヶ月も、いや何年間も、そうしている。彼らは毎日毎食、非常に栄養バランスのとれた水分と食物を、心身のコンディションが絶好調に維持されるのに最適最良な分量で与えられている。そして、さらに、それぞれの個体に合わせて飽きのこないように、献立には趣向まで凝らしてある。彼らは、みんな他に選択の余地は無いので、自分の番号の食事を残さずに、しっかり食べる。
食事の間、SCN9072と仲間たちは、隣りの番号の個体や、同じ食卓の個体と特に対話をするでもなく、また食後の時間を共有するでもなく、食べ終えた者から、それぞれ別々に、巨大な食堂の一角一角の高い壁に、五つくらい在る大きな出入口へと向かって歩いて行く。
食堂の出入口を抜けた所も広大な屋内空間で、そこには四方八方に理路整然と数百人分のトイレが並んである。彼らはみんな、そのトイレ用の屋内空間の一角にある出入口から、いつでも好きな時に外へ出られる事も当然に知っている。
SCN9072は、ゆっくりと食休みをしてから、ようやく屋外に出た。
SCN9072や仲間の成人男性たちは、これから仕事場へ向かうのだろうか?
いや、SCN9072が職場へ向かうことは無い。彼は仕事をしない。彼には、職業と呼べるものは無いのだ。
実はSCN9072は、ある事業に携わってはいる。それは政府公認の、ほぼ国営企業が運営する大規模事業である。彼は、その事業の中核を担っている構成要素の一員で在ることに間違いはない。しかし、彼自身が、はっきりと、その事業の意義を理解し、確固たる職業意識を持って労働に従事している訳では無いから、やっぱり彼は無職で、何の仕事もしていない、と言うことになる。
SCN9072は、広大な運動競技場のような所へ向かって歩いている。巨大な屋内施設の周囲は、見渡す限りに広がる運動公園みたいに成っているが、自然の草原のようでもあり、また広大で平坦な牧場とも言えそうである。
SCN9072や彼の仲間の男性たちは、自分たちが労働などの義務的な事は一切せずに、その牧場で、しっかり陽の光を浴びる事、そして、たくさん運動をする事だけを求められている、という事を知っている。彼らが頭脳を使うことはない。そこには仕事も勉学も、本や読み物、映画や音楽、遊具やゲーム、書類や現金などは一切ない。だから、人間としての頭脳を普通に持っているのに、思考や知能を使いたくても使いようが無いのだ。
ただし、運動をする為の道具だけは沢山ある。
SCN9072や彼の仲間たちは、他に特にする事も無いので、毎日ただ心身の健康を最大限に維持促進させる目的の為だけに運動をする。
彼らは、プロの運動選手か、何かの競技の強化指定選手、あるいは軍隊とか傭兵の為の人員なのだろうか? それとも何処かの国との戦争による捕虜たちなのか?
いや、彼らは、たしかに非常に特殊な施設に隔離され、心身の自由を完全に制限されては居るが、その制約の中においては極限まで快適で、一般大衆と比べても充分過ぎる程の待遇を与えられている。彼らが、このように完全隔離されては居るが、でき得る限り衛生的で、心身に不満やストレスが全く生まれる事の無いように養育されて居るのは、なぜなのだろうか?
そのような疑問を持つことの無いSCN9072は、サッカーとテニスが好きなので、自然と集まって来た仲間たち同士で毎日、飽きるまでサッカーをして、飽きるまでテニスをしたら、たまには牧場の一角にある人工の湖で水泳をしたりする。
正午になると、SCN9072とその仲間たちは、また大型草食動物の大移動のように、広大な食堂へ入って行って、それぞれの番号の個体の為に用意されてある栄養満点の食事を、しっかりと食べる。食べ終わった者から、ばらばらに席を立って行く。食欲を完全に満たした彼らは、今度は、肉体の別の欲求に従うように、ある方角へ向かって歩いて行く。
SCN9072も、他の仲間と同じように、まるで単純な条件反射のように歩き出している。彼らは、広大な食堂の一角に大きく口を開けた巨大な空洞へ向かって歩いて行く。暗い空洞は、寝室や屋外への通路とは違って、薄暗い感じの、緩やかに斜め下への傾斜がついたトンネルで、その向こうは闇夜のように暗いので良く分からないが、巨大鍾乳洞のような地下空間が広がっているようだ。彼らは、ここで食後の昼寝でもすると言うのだろうか?
実は、この暗く巨大な地下空間こそが、この大規模に運営されている事業施設の中で、最重要な部分なのである。
仕事をしないで生きているSCN9072では在るのだが、ここからが、彼の唯一の、存在意義の証しを示す場所なのである。
暗い地下空間には、大規模な化学加工精製工場のような光景が広がっている。床には、四方八方に理路整然とベッドも並べられてあり、SCN9072は毎日そうしているように、自分の番号が電光表示されているベッドに仰向けに寝転がった。寝室のベッドと同じように極限まで快適な寝心地なのだが、寝室で睡眠の為に寝る時とは違って、ここでは、SCN9072の腕や脚、上半身、下半身までもが、コンピューター制御の全自動でベッドに固定される。これで個体の施術台への装着が完了した。
この施設全体の中で、地下空間だけは天井が高くない。その低い天井には、小さな映写機のような装置や、噴霧機のような装置とその噴射口、マッサージ機のような器具などが設置されてある。SCN9072の施術台への装着が完了するや否や、それらの電子機器が一斉に起動し始めた。
そして、施術台に装着されたSCN9072の着ている有機化合物で作られた衣服は、施術台の周囲から噴霧された液体で瞬時に溶かされて、彼は全裸に成った。すると、天井の噴霧機のような装置から噴射口だけが伸びて来て、彼の下腹部全体に霧状の液体を何度か噴霧して、彼の下腹部および陰部を洗浄した。
これで個体の必要部位の殺菌消毒は完璧である。
天井の小さな映写機のような装置は、SCN9072の目の前に、まるで実物その物で在るかのような超高精細の立体映像を映し始めた。その内容は、スーパーコンピューターが計算し尽くした、SCN9072にとって最も性的反応の良い立体映像である。同時に、最も効率が良いと思われるマッサージ方法も既に計算し尽くされている。
天井からSCN9072の下腹部へと下りて来たマッサージ機には、女性の性器のような柔らかい開口部がある。その開口部が彼の陰茎を根元まで深く、しっかりと吸い込んでから、コンピューター制御の全自動マッサージ機は、実に絶妙な感じで伸縮や吸引を繰り返す。立体映像は、彼の性衝動、性的神経の条件反射を精査しながら、興奮状態や性的肉体反応の最高点を模索しつつ、その内容、性描写が確実に改良されていく。
まさにSCN9072という採取用個体が絶好調な状態での、高効率に最優良な精液の採取が実行された。
SCN9072はもちろん、彼の仲間たちも同様に、ここには若く健康優良な成人男性ばかりが居るから、彼らは体調や精力をコンピューターによりモニタリングされながら、多少の間隔を空けて、射精可能と判断されれば、何度でも連続して精液採取されていく。
この毎日毎日、SCN9072や彼の仲間たちから採取されている何千、何万人分にも達するであろう膨大な量の精液は一体全体、何の為に、こんな大規模事業として採集されているのだろうか?
まさか、この未来社会では驚くほど多くの女性が不妊治療を必要としていて、人工受精の為に、このように不特定多数の精液が大量に必要とされている、と言うことなのか?
そんな事は有るはずもないが、それでは、このように若く健康優良な成人男性たちを、まるで乳牛のように家畜化して、精液を採集する意味とは何なのだろうか?
この時代の社会では、女性が異常に強く成って、権力を全て掌握し、男性の基本的人権や人間性、男としての存在価値までをも奪って、このように奴隷的に虐げている、と言うことは有り得るのだろうか?
地下の巨大な精液採集用処置室の隣りには、何百人もが同時に入浴できる広大な風呂場があり、気力体力を消耗し切ったSCN9072の体には温浴が、とても心地良かった。疲労回復にはもちろん、射精を繰り返して火照りまくっている男性器のクールダウンにも良いのだ。
また明日も彼は、可能な限り射精し続けなければならない。
そして、夜も、SCN9072とその仲間たち、つまり精液採取用個体たちは、精力の付きそうな栄養満点の食物を、たっぷり充分過ぎるほど食べてから、朝まで、与えられている最適な睡眠状態に落ちていくのだった。
すべては、一滴でも多くの精液を搾取する為に行われている事なのである。
この広大な精液採集事業施設の全てを管理、監視、制御しているのは、一台のスーパーコンピューターであるが、施設の管理室には一応、生身の人間が一人だけ座っている。その管理人は、次々と映し出される監視画面を、ただ見続けると言う単純な仕事をしている。
その日の当直の管理人は、ちょうどSCN9072が精液採取処置されている監視映像を眺めながら、独り言を呟いた。
「それにしても、この精液採取用個体の一日と、俺の一日は大して変わりが無いな。考えてみれば、俺も寝て起きて飯を食って、まあ仕事や何かで体を動かして、でも実は、常に頭の中を一番支配しているのは、できる限り気持ちの良い射精をしたい、と言う生殖本能だけかも知れないしな。ふっふっふっ。まあ、俺も究極的には、射精する為だけに生きている雄という一つの個体に過ぎない、とも言えるか……」
管理人は、そんな事を考えながら眠ってしまい、夢を見始めた。
『俺の体は、異様な熱を持ったように火照っている。
頭の中が、ぼうっとして女のこと、特に女の肉体との性交の事しか考えられないようになっている。
いや、性交と言うより、もっと原始的な生殖本能によってのみ生きている。そんな興奮状態の中に、ずっといる感じがする。
おそらく、あの食物のせいだ。あの料理を半強制的に食べさせられているから、心と体が、このような状態に成るのだ。あの食料の中には、疑問は生じさせずに、ただ精力だけを増進させるような物が入っているに違いない。それで家畜のように飼育され、ただ精液を搾取する為だけの個体にされてしまっている……。
血液ならともかく、こんな体液を採取して、一体どうすると言うのだ。
人工受精や何かに使うはずは無いと分かっている。健康で自然妊娠が可能な女は、いくらでもいるだろう。女性の自然妊娠率が激減した、などと言う話を俺は聞いた事がない。女性の人口自体が少なく、効率的で確実な受精が必要に成ったとでも言うのか?
男性の人口激減、生殖能力の顕著な減退なども、そこまで深刻な事態として、俺は聞いた事が無い。しかし、もしかしたら何かの理由で、全世界の、ほとんど全ての男性たちは死滅し、急遽、俺を含めて生き残ったほんのわずかの男たちが、ここに集められ、こうして人類滅亡を阻止する為の、精液の計画的採集が必要に成った、と言う事なのか?
それとも、この施設は、よく古い空想科学映画が描いていた複製人間や人工臓器の製造工場で、俺自身が人造人間である、と言う事なのだろうか?
いや、俺の体には、子供の頃からの感覚が残っているように感じる。そんな幼少期の記憶までをも作り込んだ人造人間などと言う物は製造不可能だろう。この肉体は絶対に俺自身の物だ。精液を射出した後の脱力感、倦怠感は、思春期の頃から味わい続けてきた、あの感じそのままだ。そんな記憶までをも作り込む理由なんてあるはずがない。俺が生身の人間である事に疑いの余地はないのだ。
なぜ、ここで俺から精液を搾取し続けるのだろう。こんな風に大量に精液を採集しても、一体全体どのように有益な使い道がある? そんな事なんて在るものか。
分かっている。精子提供や臓器培養に使うとしても、こんなにたくさん必要な訳がない。
採取した精液を何に使っているのか? たぶん、ただ捨てているのだ。男の精液なんて物は、ここに隔離されて居なくても、元々どうせ、ほとんど捨てられるべき物だから、効率的に集めて廃棄してやろう、と言うだけなのだ。まあ、それは、たしかに効率的な話だ。
しかし、そう考えると、人間の食物摂取と排泄行為のすべてが無駄だとも言えるじゃないか。異常に個体数が増え過ぎた人類全体が、すべて無駄であり、廃棄の対象であって、何十億もの人間の肉体自体も、このように効率的に処理されるべき事になるのだろうか?
なんだ、また精液搾取用マッサージ機が俺の股間に伸び来た。
もう休憩時間は必要ない、とコンピューターが判断したな。
ああ、またあれだ。この陰茎が深く吸い込まれる感覚……。
俺は、また射精するのか……』
管理人は、夢から目覚めた。
もちろん、管理人の目の前に並んでいる監視画面の映像には、全く異常は見られない。すべての精液採取用個体を完璧に管理、監視、制御しているスーパーコンピューターは、管理人の事も監視していて、彼が居眠りから覚醒したのを察知すると、彼に少し早い夕食を自動提供した。
管理人が、その夕食を食べようとしたら、今日も御飯に生卵が添えられてある。
この時代、人類は急激な免疫力低下により、様々な食物アレルギーに悩まされていた。
特に、鶏卵や魚卵のアレルギーが、全ての人間に発症して、卵から得られるべきはずのタンパク質の不足が、人々にとって深刻な問題と成っていた。
その解決策として、人工多能性幹細胞技術で培養産出された人体を養育しつつ、その個体から精液を採集し、その精液の新鮮なタンパク質から人工の卵を精製して、その人工卵を人々の食料とする巨大産業が、世界の各国政府により指揮監督、運営されていた。
管理人は、先ほど監視画面上で目にしていた、まるで機械の一部分に成ったかのように強制的に、そして、まるで採血されるかのように『白い血』である精液を搾取されていたSCN9072の光景を思い出していた。
管理人は、なんか、その日だけは、人工卵を食べる気がしなかった。