空手教本
「なっ、何やってる、歌子! パンツ見えるぞ」
右足を踏み出し、えいっと順突きを繰り出した歌月の背後から、玲が声を投げてくる。
反射的に直立になると同時に、歌月は握り込んでいたこぶしを解いて両手でスカートの後ろを押さえた。
振り返ると、玲が後頭部を押さえている。
どうやらまた、徹に殴られたらしい。
「いてーな。黙って見てる方がやらしいだろうが」
まったくだ。
だが、見ない、という選択肢はないのだろうか。
歌月は、玲に向き直った。
「見て、わからないんですか」
「あのムカツクやろうを一発ぶん殴ってやろうとしてるのはわかる。けどな、こぶし痛めるのがオチだぞ。鍵盤弾けなくなるし、やめとけ」
「……ちがいます! 殴る気なら、とっくに顔面引っ叩いてますよ」
言ったら、玲の向こうで徹がふいっとそっぽを向いた。
「何わらってんだ?」
「某先輩がやってる空手の弱点って、頭部を狙われることらしい」
「まじか。よし歌子、やってやれ」
「やりませんよ。──ただ、あのひとの声量とか肺活量は、空手に秘密があるのかなーとおもって、ちょっと」
窓際の棚の上に置いていた、図書館から借りた空手の教本を手に取り、玲に表紙を見せる。
「ふうん。合唱部にでも弟子入りした方が、早くねぇ?」
「でも、声楽系の歌じゃなくて、ああいう歌がいいの」
「そうかよ。じゃあ止めねーけど、パンツは見せるな。言っとくけどここ、おまえと花子以外、いるのみんな男だぞ」
「…………」
そんなことは知っていたが、歌月は本を抱いたまま理科室の中を見渡した。
頬が、じんわりと熱い。
鷲尾はいないが、残り五人の男子部員は全員いる。
「……気をつけマス」
「ねえ、知ってる、小早川。女の子にパンツ見せてってのは、セクハラよ」
「見せてとか言ってやしねーだろ!」
「そう? ところであんた、浦部の家に泊まってばっかりらしいけど、今はいてるパンツって、浦部弟のパンツ?」
美少女の上品なくちびるから、パンツなんて単語が連発されるのは悪夢だ。
ますます頬が熱くなった。
「てめーこそ、セクハラだ!」
「べつに見せてとか、言ってないわよ」
いたずらっぽい微笑を、玲が忌ま忌ましそうににらむ。
徹は、何も聞こえていない、という顔でベースのペグをひねっている。
いっしょにバンドをやることになってから、徹にベースをおしえている都の近くには、必然的に玲もいることになるのだが──
この十日近く、毎日毎日、ふたりはこんな言い争いをくり返していた。
仲がいいようにもおもえなくはないが……都の中身は男子だという兄のことばが、今さらながら実感できてしまう。




