『キーボード』交渉
さっきから、歌月がうつろな顔でキーボードを弾いている。
その右手のメロディが、いわゆる初代『課題曲』──『Quartetto』の主旋律だということは、蒼太にもわかっていた。
通常、男性ボーカルであればその一オクターブ下を歌うはずだ。
今、歌月が弾いているのは、女性ボーカルでなければ歌えないだろう音域に当たる。
でも、魁になら歌えるとおもっていたに、ちがいない。
「そのキーで、自分で歌う?」
三つ音を弾いてから、歌月が手を止めて振り返った。
心ここにあらずだった、とわかる。
「え?」
「妹ちゃんにちょっと頼みがあるんだけど、今いい?」
鍵盤から手を下ろしてこちらに向き直ってくれたのが、返事だった。
土曜日午前の理科室には、歌月と都と、蒼太しかいない。
というか、歌月がいることが、まずめずらしいのだが。
都は、例によって窓際でベースを練習していた。
以前とちがうのは、ヘッドホンをつけずにスピーカーから音を出していることだ。
「あのさ。今月のライブでおれたちがやる曲、使用楽器が多いから、一部あらかじめテープに録音したものを使おうとおもうんだ」
それで、録音に手を貸して欲しい旨を、蒼太は手短に説明した。
「公式ステージの規定で、助っ人起用かテープの使用、どちらか一方しか選べないんだよね。でも、ギター二本は必要なもんだからさ」
テープのトラックも二つまで、という制限がある。
これは、決戦の場でもある十位以上のライブで、生演奏のみのバンドが不利になってはいけない、との配慮からだ。
テープを使えば音色は豊かになるが、その場の空気にのれないという制約もつく。
ライブにおけるメリットとデメリットは、半々ぐらいだろうか。
完成度と演奏力、どちらで戦うかはバンドの自由だとしても、バンドの実力や実像からかけ離れてしまっては意味がない──
が、バンドメンバーによる生演奏のみがロックの神髄ではないのも、事実だ。
ピアノやバイオリン、サックス、ストリングスなどを加えたアレンジによって名曲となった楽曲は数知れなかった。
観衆に、ロックの奥深さを知って楽しんでもらえる、ギリギリのラインが、2トラックまではテープ使用可、という規定なのだろう。
「──で、来週のいつか、スタジオでキーボードを弾いてもらえないかなーって」
歌月の視線が持ち上がった。
何だか、言いたいことがいくつもありそうに、張りつめた瞳をしている。
彼女の言いたいことは、蒼太も何となく予想がついた。
「……その代わり、魁を寄越せ、とかおもってる?」
「部長が言えば、歌うんですか、あのひと!」
「さあ──どうだろうね。でも、ひとつだけ言えるのは、そうまでして歌わせてどうするの、ってことだよ」
歌月が眉根を寄せる。




