イフと賭
「せ、先輩。ちょっと、おはなしが──」
歌月の声に、四弦を見つめていた瞳がパチッとこちらを見る。
都の耳には、今日もヘッドホンは装着されていない。
昨日は徹に何かおしえているようすだったが、今日は練習する都を徹が横で見ているといったかんじだ。
場所は窓際だが、いつも都がいた場所よりは、玲たちの定位置に近い。
ときおり、徹も指を動かしているが、アンプから出ている音は都のものだけだった。
「まじめな顔にコアラのマーチって似合わないわよ」
歌月は、両手でにぎりしめていた箱をおもわずぺこ、とつぶしてしまう。
一昨日のトッポと同じで、それも玲が歌月に食えと渡したものだが、やはり徹のカバンから出しているようにしか見えなかった。
いいのだろうかとはおもったが、期間限定味につられてついつい受け取ってしまったのだ。
歌月はまじめに話す気でいるのに、都の手は当然のように箱に向かって伸びてくる。
歌月は、まるで自分のもののように、箱の口を都に向けた。
「ありがとう。──で?」
「ボーカルの、件……なんですけど」
「イフの話なんかしたって、時間の無駄よ」
「イフ……」
まさに、もし鷲尾がボーカルを引き受けてくれたら──と言うつもりだった歌月はつづきが言えなくなってしまう。
「浦部が昨日、やるわけない、って一蹴されたんでしょ」
「でも、先輩が待望しているとなれば、口説き方も変わってくるというか」
「待望なんてしてないわ」
「ぐ」
「第一、私だけじゃないでしょ。小早川だって嫌いなはずよ」
好きも嫌いもない、──のではなかったのか、とは歌月は突っ込まなかった。
玲も嫌ってはいるだろうが、大嫌い、というほどではないとおもう。
ちなみに、当の鷲尾は今日も今日とて、理科室には現れていない。
「玲先輩は、鷲尾先輩の歌自体は買ってるはずなので、納得はしてもらえるかなって……」
「そう。だけど、私が納得するもしないもないの。あの男は、あなたがどれだけ頼もうが、歌いっこない」
「ぜったい──ですか?」
「ぜったいよ。賭けてもいいわ」
賭、と都が言った瞬間に、歌月の頭でライトが灯った。
「それじゃあ! もしも賭に負けたときは、鷲尾先輩ともいっしょにやってくださいね?」
ぱち、と長いまつげが瞬く。
次の瞬間、見たことがないほど、都は婉然とわらった。
「──おもしろいこと言うわね。いいわ。そのかわり、彼が歌ってくれなかったときは?」
そう言われて、歌月はとびっきりのひらめきにおもえた考えが、実は底が抜けた浅知恵だったことを思い知った。
つ、と背中を冷や汗が伝う。
「う、う……どういたしましょう?」
「そうねえ。どうしてくれちゃおうかしら?」
目を細めた微笑は、目眩がするほどに美しい。
ああ、この顔でちょちょいと説得してくれたなら、いかな頑固な男でもきっとうなずいてくれるだろうに──と歌月はおもった。
が、歌月は都ではないし、もちろん、代わりに頼んでくれなんて虫のいいことも言えない。
自分自身が持っているもので、頼むしかないのだ。
──いかに自分が、鷲尾の歌をすごいとおもっているか。
それを伝えるしか、説得する方法などおもいつかない。
だから、意を決してひとり、鷲尾がいるはずだという旧校舎の武道場へと向かったの……だが。




