先輩・花巻都
「…………もっと、早く動いて欲しかった」
「は、イ?」
「そしたら、もっとおもしろくなってたわ。──残念」
ことん、と音を立ててヘッドホンを椅子の上に置く。
チェリーサンバーストのジャズベースは、抱えたままだ。
一歩踏み出した都を目で追いかけた歌月は、どこへ向かったのかを察した。
すらりと伸びた美脚が、大股で玲たちの元へと歩み寄る。
気づいた玲が、音を止めて顔を上げた。
あわてて追いかけた歌月に、玲の視線が流れてくる。
「交渉は?」
「…………そ、の」
「いいわよ。おしえてあげる」
「エッ!」
「──まじ?」
歌月は玲と顔を見合わせた。
徹も、意外そうな顔で都を見上げている。
「私、後輩が入ってきたときから、おしえてあげようとおもってたわ」
でも、と言って都が玲に視線を流した。
玲が、息をのむ。
年上美少女に上からにらまれた玲は、いつもの尊大な王様ではなく、ただの後輩男子にしか見えない。
「あんたが私の音を認めなかった。……それならそれでいいわ。損をするのは、あんたの大切な相棒の方だもの」
「…………っ」
「私だってね、部の後輩ってだけで、太陽先輩から手取り足取りベースをおしえてもらったの。だから、おしえるのは当然だとおもってる。でも、強制する気はない。嫌ならこんなベースは弾かなきゃいいわ。ただし、それを決めるのはあんたじゃなく、浦部弟の方!」
カタ、と椅子が鳴った。
とおもったら、ぬっ、と徹が立ち上がる。
歌月を含めた三人が見つめる先で、徹が腰を折った。
「おねがいします」
「ふふっ。さすが浦部の弟。小早川より、ずっと人間ができてるみたいね」
「ちっ」
玲は舌打ちこそしたものの、悪態はつかなかった。
都は徹に歩み寄り、その肩に手をかける。
とたん、糸が切れたように徹がすとんと椅子に座った。
「卒業するまでに、小早川なんか捨ててどこでもやってけるくらいの腕に仕込んであげるわ」
「オイ、こら!」
「捨てる腕があってこそ、選ぶことに価値があるのよ。性格の悪さで逃げられてばっかりだからって、びびってんじゃないわ。それでプロになるだなんて、笑わせないで」
玲の声に振り返った都は、ぴしゃりと言い放った。
今、初めて──先輩・花巻都のことばを聞いた、とおもう。
そして、あのとき、玲のギターに真っ向から張り合うことで言わんとしたことも、きっとそれだったのだろうと、歌月は気がついた。
玲が気に入らないとか、徹よりも自分の方が上だとか、そういうことを言いたかったのではない。
ここにこれだけのベースがある、と。
おまえは本当にいらないのか、と。
きっと、音を叩きつけて、問うていたのだ。
とちゅうで邪魔が入らなければ、玲の反応はちがったものになっていただろうか?
それはわからない、けれど……
もしかしたら、都が夏休みも毎日毎日部室に来ていたのは、いつ後輩におしえを乞われてもいいように、だったのかもしれない──
ふと、そうおもえた。
と同時に、いつも窓際でひとり練習していたすがたが、孤独な女子のものではなく、鷹揚な先輩のものへと、がらりと印象が変わる。
都に、女子である引け目や男への対抗心など、きっとないのだ。
あれば、徹にベースをおしえてやるのは当然のこと、などとは断じて言えないだろう。
そして、そう言わせているのは、ベースをおしえた兄なのだ、とおもった。
誇らしい気もするし、羨ましい……ような気もする。
歌月は、兄につきっきりで楽器をおそわった経験などないから。




