歌月の帰った後…
午後五時をすぎて都もアンプを片付けて帰ってしまうと、理科室には鴻池蒼太ひとりになった。
歌月に弾いてもらったキーボードを部室に仕舞いに行き、鍵をかけて理科室にもどる。
ちゃら、と指にひっかけた鍵を回しながら戸を開けた蒼太は、うっかり床に鍵を落っことした。
「わあ、びっくりしたー」
「浦部は帰っちまったあとか?」
無人とおもっていた理科室には、鷲尾魁がいた。
上下制服の夏服を身につけているが、ネクタイは締めていない。
髪が湿っているように見えるので、シャワーを浴びて空手着から着替えてきたのだろう。
「うん、ちょっと前にね。譲に用だった?」
「いや──バイトやってるらしいから、駅前で一銭洋食をおごらせようかと」
「ははっ、魁らしいな。お腹減ってんの? おれがおごってやろうか。いっしょに帰る?」
「いい。おまえにたかれるか。スタジオ代とか、金かかるんだろ」
そばの実験台に腰を下ろそうとした魁が、指に触れた紙を持ちあげる。
「何だ、これ」
「ああ、それ、妹ちゃんに渡してた歌詞。おまえの代わりに歌ってもらったんだ」
「そうか……来たんだな、今日も」
魁が、ほっとしたように言う。
蒼太はじっ、とその顔を見つめた。
「昨日、何かあった?」
「何か、怒って帰ったからな。小早川が、おまえのせいで歌子がもう来なくなったら土下座して引き戻させる、とか言うんで、気になってた」
「──やめる気だったみたい」
ぎょっ、と魁が蒼太を見返してくる。
蒼太は苦笑した。
「あの子も、頑固でプライドが高いからねー」
「も、ってのは、誰にかかってるんだ」
「誰って? 玲も、都も、──おまえもだよ。徹と、慶もかも。うちで譲る気があるのは、その名のとおり、譲くらいじゃない?」
「それとおまえか」
おもわず蒼太は笑ったが、苦笑になってしまう。
「どうだろうね。おれは、譲る方が楽だから、そうしてるだけかも」
「……引き留めたのか?」
「妹ちゃん? そりゃあね。まあ、その前に、太陽先輩が引き留めてくれてたみたいだけど」
魁が、小さく眉間にしわを寄せる。
本人も気づいていないかもしれないくらいの些細な反応だったが、蒼太は見逃さなかった。
「妹ちゃんも、『お兄ちゃん』にぞっこんだからね」
「も、って……浦部弟のことか?」
「徹? それはないね。あそこの兄弟は、兄が弟を溺愛してる方だろ、どう見ても」
「そうだな。兄離れされるの、本気で嫌がってるしな、あいつ」
「魁も、上に兄さんがいるんだっけ」
「いるけど年が離れてるから、もうとっくに家出て、女と同棲とかしてる。久しく顔も見てないな」
「魁に似てる?」
「まあ似てるんじゃないか」
「そっか。じゃあ、女にもてるよな。放っておかれないの、わかる」
魁は、手にしたままの紙に向かってこぼすように笑った。
……それだけだった。
困った顔をされなかったことに、蒼太は内心、ほっとする。




