図書館の時間
放課後の図書館。たまたま朝読書用の本を借りに立ち寄ったそこで、初めて彼女と会った。
「≪結宇≫くん」
カウンターでパソコンを使い本を貸し出す手続きをしながら図書委員である月花は名前を呼んできた。……が、惜しい。初対面の人は必ずと言っていいほど僕の名前を間違える。
「あ、えっと、それで≪結宇≫って読みます」
この訂正の仕方にもだいぶ慣れたものだ。
「あっ、そうなんですか。すみません。≪ゆのき≫くん。本の貸し出し、返却期間は二週間になっています」
彼女はそういい、手続きの終わった本を差し出してくる。丁寧に、委員会で作ったのであろうかわいいイラストと返却日のハンコが押されたしおりが挟まれていた。
「ありがとうございます」
「いえ、またお越しください」
このとき彼女へ抱いた印象、第一印象は、いきなりくん付けをしてくる距離感のつかめない女子生徒、というものと、この一連の会話の中でわかるくらい、彼女はまっすぐ人の目を見て話をする人。という感じだった。
前者は自分の中で≪不思議な子≫という印象になり、後者は何とも言えない感情を僕の心に残していった。
これが、僕たちの出会いだ。特に特別な出会いでもなくただただ生徒同士で顔を覚えたか、次に見かけたときに「あぁ、この前の」と思えるか思えないかでしかなかった。
当然、僕は二週間の間に借りた本を読み終え、また図書館に行った。その時も、カウンターで作業をしていたのは彼女だった。
「これ、返却で……、あと、これは貸し出しでお願いします」
新しく借りる本と返す本を彼女に手渡す。
「はい、わかりました」
彼女は二冊の本を受け取ると迷うことなく手続きを行っていく。決められた、慣れた作業なのだろうがその動きは見ていて気持ちがよかった。
「……じゃあ、これ。返却期限は」
「二週間、でしょ。もうわかってるから大丈夫だよ。ありがとう」
同じ説明は二度言われなくてもわかる。僕は軽く笑みを浮かべ彼女が差し出していた本を受け取る。
「そうですね、ではまた」
一通りの会話が終わると彼女はほかの作業へと戻っていった。今日も彼女はまっすぐ目を見てきた。彼女の瞳は穢れを知らない子供のように曇りがない。
そしてまた、返却期限の日、図書館に足を運ぶ。このときには僕はもう彼女に会えることが、カウンターで業務的な会話をすることが当たり前だと思っていたし、まだ名前の知らない彼女と今以上の仲になることなど考えていなかった。
その日、彼女はカウンターにいなかった。代わりに初めて見る女子生徒が慣れない手つきで本の返却を行う。
僕は少しだけ、動揺した。だが、よく考えたら毎日委員の当番を彼女がしているわけではない。今日は違う人が当番の日だっただけの話だ。
本を返却し、新しく借りる本を物色しに本棚の方へと回る。
前回はめんどくさくて本を選んでから返却貸し出しの手続きをしにカウンターへ向かったが、今回は彼女がいないことに驚き、とりあえず返却を済ませてしまった。二度手間になることをしたな……と心の中で一人ぼやいていたら、視界の先に、彼女がいた。
彼女をカウンター以外で見るのは初めてかもしれない。思っていたよりも彼女は小柄だった。
簡単に言えば、ちいさい。
「あ、結宇くん。また本を借りに来たの?」
彼女は僕を見つけるとそう聞いてきた。まっすぐ、僕をその瞳に捉えて。
「ん、あぁ。久々に本を読んだら面白くてね。たくさん読みたいと思って」
「それはいいことね。……そういえば、結宇くんがよく借りている作者さんの本はおもしろいの?」
数冊の本を片手で抱えたまま彼女は僕にまた問う。
「なかなか面白いよ。表現の仕方も僕は好きかな」
「そう。じゃあ私も読んでみようかな」
そういい、彼女は僕から目線を外し、本棚と向き合った。
なぜだろう、彼女の視線が外れたことで、僕の心は少しだけ、何かが物足りないとでもいうかのように波打った。
「あなたは、何かおすすめの本とか作者はないの?」
僕から彼女に質問を、会話を投げかけたのはこれが初めてだった。自分でも驚いた。彼女の注目を再び僕自身に向けようとするなんて自分でも信じられなかった。
「……私がおすすめしたら、結宇くんはそれを読んでくれるの?」
案の定、彼女は本棚の下段を見るために少し中腰になった体制のままこちらに顔を向け、目を合わせてきた。
「質問に質問で返すのか……。そうだね、少しは興味を持つかもしれない」
「そう……。でも、あいにく、私が一番おすすめしたい本はここにはまだ入っていないの。読みたいと言ってくれるのなら私が持っているものを貸すけど?」
「そこまで好きな本があるの?」
「それはもう、とても」
「そこまで好きな本となると気になるな。よかったら貸してくれない?」
「うん、構わないよ。明日にでも結宇くんのクラスにもっていくよ」
「わかった、じゃあ待っているね」
「うん」
単純に本に興味を持った。実際は彼女を魅了する本というのに興味を持った、という方が正しいのかもしれない。
そして彼女はまた本棚に目を戻す。
「あ……あった。この人の本だよね?結宇くんのおすすめ」
「そう、その人だよ」
本棚の上段にその本は数冊並べられていた。
「ん、」
彼女は手を伸ばし、本を取ろうとするが、少し身長が足りないのか苦戦していた。
「僕がとるよ」
短くそれだけを伝え、彼女の横に立つ。
そのとき、彼女のあげた腕、少しだけ丈が下がった長袖の制服から覗く細い彼女の手首に、傷が見えた。一瞬で僕の頭はそれが自傷行為にものだと判断した。
心臓がはねる。理由はわからないが、そういうものを見るのが初めてだったからだろう。
彼女は僕が≪それ≫を見たことに気づいていない。言うべきなのか悩む、が、こういうことをする人は大抵構ってほしいが故の行為なんだろう。僕はどちらかといえばそこまで人の事情に首は突っ込まない主義だ。ここは気づいていないで通そう。
「えっと、どのタイトルがいい?」
できるだけ自然に、彼女に問う。彼女は僕が本を取るということでもう無理な背伸びはしていなく、頭一つ分下の目線で言う。
「結宇くんが一番最初に読んだのでお願いします」
「それなら…………あ、これ。はい」
棚から一冊を取り出し、彼女に渡す。彼女はすでに制服の袖を元に戻していて再度確認することはできなかったが、さっきの一瞬の光景は僕の脳裏に濃く焼き付いていた。
「ありがとう。読み終わったら感想を言うね」
「楽しみにしとく」
先ほどと似たような会話をし、彼女は何冊かの本を両手で抱え、僕の方へ向き直った。
「じゃあ、私はお先に」
短い別れの挨拶。
「あぁ、楽しんで」
それだけ言うと彼女控えめな笑みを浮かべ、僕の横を通り過ぎていく。
次の日、彼女は僕に教室に約束を果たしに来た。