その4 幸福
二人はあれから何事もなく、いつもの日常を過ごしている。
少し違うのは……
悪夢の件はもう終わりだとほっとしている彼女の中で、夢の中とは言え感じていた夫への深い罪悪感が深さをそのままに愛情へと変わり、今までの愛情に増して更に深まった事くらいか。
そう、ただそれだけの事。
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彼は変わらずに毎晩遅くまで仕事をこなし、疲れて家に戻ってくる。
そんな彼と身体を交わらせる事は遠慮するものの、口づけをかわし、ろくな食事も取らずに家に戻る事も多い彼に私自らが軽い夜食を用意して、それを食べて綻ぶ彼の顔を見ると心の奥から締め付けられるほどにきゅんとする熱い想いがあふれ出してくるのがわかる。
それだけで心も華やかに足取りも軽く、次の日の庭を散歩する風景すらいつもと違って見えた。
彼もお気に入りの白か薄桃、あるいは黒のロング丈シフォンフレアワンピースに白のミニ丈フリルシャツワンピースを重ねたコーディネートに身を包み、彼と共に歩く姿を思い浮かべながら庭を散策する。
彼に髪を褒められればより艶やかな髪を得たいとより良い椿油を買い求め、肌を褒められればより滑らかな肌を触って欲しいとサウナとオリーブ油で念入りに身体を磨きあげる。
彼が化粧の私では無く素顔の私を好きだと知っているから、妥協するつもりは毛頭無い。
彼に似合っていると褒めて貰える姿を想いながら寒くなる日に向けて何枚もストールに刺繍をし、恋愛小説を読んではヒロインに自分を、ヒーローには彼を重ねて、ほうっと熱い吐息を漏らす。
彼の隣に立つに相応しくあろうとより優雅な所作を求め、一挙手一投足を見直し礼儀作法を復習し、他国の語学もより高いレベルで学び直す。
空いた時間には料理長に頼み込み、彼のための調理技術と料理を学ぶ。
今日の私より明日の私……彼を想い彼の為に過ごす一日が、次に彼に何と言って貰えるだろうとたまらない幸せを私に与えてくれる。
そして、親しい者とのお茶会や、婦人のみが集まるパーティーではこれまで以上に冷やかされる機会も増えた。
旦那様を語る私の破顔した笑顔に、女ながらにどきどきするとまで言われた。
そんなに違っているのかしら? 語っている私自身が彼に夢中でどきどきしているから、そのせい?
聞けば、私と同席した奥様方がご主人と褥を共にする日が増えたとかなんとか……
う……羨ましくないですよ?
本当ですよ?
……いいなぁ…………
そして、私の誕生日パーティーまで後二週間となったその日、いつもよりずっと早い時間に侍女から旦那様がお戻りになられたと伝えられた。
「おかえりなさいませ、あなた」
「ああ、ただいまっ」
いつもよりにこやかに、少しはしゃぎ気味な雰囲気の彼にどうしたのかと軽いキスをかわして問いかける。
「今日はご機嫌ですね」
「ああ、ご機嫌さ。三週間の休みが取れたからな」
「まあ。でしたら旅行へは?」
「がっつりと仕事を片付けて休みをもぎ取ってきたからな。心置きなくバカンスを楽しめるぞ。行き先は、おまえが行きたがっていた海の見えるあの街だ。来月の一日に出発だから準備しておけよ?」
ああ、無事にこの時を迎えられたのですね。
解ってはいたものの、実際にその時を迎えられると何とも嬉しく、感慨深いです。
「はい。とても楽しみにしておりました。ああ、今から何を着ていこうか、どの服を持って行こうか迷ってしまいますわ。水着も迷いますわね」
「いくつか新調して構わないぞ。生地も良いものが沢山手に入ったからな。今からオーダーでは時間が足りないだろうが、願えば一着、二着は間に合わせてもらえるかもしれない」
新しい服を着て彼に褒めて貰える姿を思うと今から気持ちが舞い上がりそうになる。
「ありがとうございます。でしたらミニワンピを何枚かお願いできましたら嬉しいです」
「わかった。明日、仕立て屋を呼んでおこう。それとプレタポルテも見に行くか」
「まあ、デートですね」
「ん? ああ、そうだな」
服を買って貰えるのも勿論嬉しいけれど、彼と一緒にお買い物に行けるのはもっと嬉しい。
「でも、こんなに買って頂けると荷物が多くなってしまいそうです」
「そうだな。でも、夜はすぐに脱がせてしまうだろうから、寝衣は少なめでもいいかもしれないぞ」
「もうっ!あなたったら」
う……もうジュンっと…… い、いくらなんでも、まだ早すぎです。
「ははははは。二人きりで過ごせる時間はたっぷりとってあるからな。新婚時代に戻って楽しもう」
「はいっ」
「それにもう一つ喜んで貰えることがある」
あら? まだなにか?
「今回の件でおまえに言われてから、仕事を自分だけで抱えて行動しないで指示する事にも努めていたら、ヨーゼンヌ侯爵様にやっと解ったのかと言われてな。お蔭で役職が上がる事になった」
「え? それでどのような良い事が……」
「は? え、えーと……早く帰れるようになったり……とか?」
「ああ、あなた。おめでとうございます」
満面の笑みで彼に抱きついた。
「役職が上がる事より、早く帰れるって話の方が重要か?」
彼に笑われた。
「そんなに笑われなくても…… あなたとの時間はなにより大事です」
ぷうっと頬を膨らませて彼に文句を言う。
「そうか」
彼からも優しく抱きしめられて、私の目から共に過ごせる時間が増える喜びの涙がこぼれる。
そんな私を優しい瞳で見つめる彼にそっと目を閉じて応える。
優しくてとても長い、唇を合わせるだけのキス……
そして何も言わなくても二人で共に同じ寝室へと向かった。
とっても長い夜になりそうです。
いつもより就寝はもっと遅い時間になるかも……大丈夫でしょうか?
だって、こうなっては、もう我慢できそうにありませんし……ね?
エリーゼさんが作ってくれる夜食を食べたくて、ろくに食事もしないで帰ってきていたリーンハルト様