その3 光
次の日、今日も朝早くから出かける彼と玄関ホールで話す。
「お帰りは遅くなりますか?」
「ああ。しばらくはいつもよりもっと遅くなるだろうから、先に眠っていてくれても構わないぞ」
「そうですか。ではお待ち申し上げておりますね」
私の為だと解ってはいても、これ以上、彼の身体の為には睡眠時間を削らせるわけにはいかない。
にっこりと笑ってそう返す私に、彼は私の意を汲み取っていただけたようだ。
「仕方の無いやつだな。 ……わかった、出来る限り早く帰れるようによく考えてみよう」
「はい。あなた、いっていらっしゃいませ」
軽くキスを交わして、彼を見送った。
さて、夢の悲劇を回避する為にはもう一つ重要な分岐点がある。
その為には、彼がカードをあの男に返す前にしなければならない事がある。
そして、その目的を果たす為、いつものカフェへと向かった。
お気に入りの紅茶とお気に入りのケーキを頼んでその人の登場を待つ。
「あれ?リーンハルトの奥さん?」
そう、この男を……
「フリードリヒ様、お久しぶりです」
「久しぶりだ。結婚してもう三年だっけ?いまだにあいつに貴方の事を惚気られて困ってるよ」
そう言いながら少し苦笑いをしたフリードリヒ・ハイデッガー
この顔の下でこの男は何を思っているのか… しかめたくなる顔を抑えながら相手を続ける。
「少しご一緒してもよろしいか?」
「どうぞ」
この男が話してくる内容は当然のように、二人の共通の話題である旦那様の事……
――――――貴方が……貴方ごときが私の旦那様を……私のリーンハルト様の事を語るな!!
楽しく歓談をしているフリも辛い怒りと嫌悪感を抱きつつもこれは目的の為と何とか話を続けた後、立ち去ろうとしたこの男が、あの言葉を発した。
「昨日は声をかけられず、すまないと思っていたんだが、今日こうして話を出来て良かった」
「昨日……ですか?」
「あれ? 昨日街外れのレストランであいつと二人で食事していただろう? 声をかけようとも思ったんだが、仲良さそうに二人が寄り添って出て行ったので、お邪魔してはと遠慮したんだが……」
「いえ、わたくしは昨日一日家に居りましたが……」
そう言うと、この男はしまったと言わんばかりに顔を歪めて目を背けられた。
「お間違えでしょう」
「え?」
きっぱりとそう言い放った私を、伝票を取ろうとした姿勢のまま、フリードリヒ様が目を見開いて見つめる。
「あの人が日々夜遅くまで仕事を頑張っておりますのは、わたくしがよく存じ上げております」
「いや、しかし昨日は早くに」
「何をお考えか存じ上げませんが、わたくしは旦那様を信じております。それでもとおっしゃるのでしたら、旦那様の勤務記録を確認して頂きますが」
「………………くっ」
「昨晩もいつものようにお疲れで…… それがどのようなものであるか、ずっと共に過ごしてきたわたくしに判らないはずがないではありませんか」
そう。貴方の仕掛けた罠にはまって冷静さと信じる心を欠いていた、夢の中の私とは違って……と心の中でつぶやいた。
この男は、握った拳がまっ白になる程に、怒気をはらんだ暗い気配をまき散らしている事にご自身で気付いていらっしゃらないのでしょうか?
愚かな人……
夢の中の私の記憶であれ、その私がどんな理由があったにせよ、こんな男に抱かれていたのかと思うと身の毛もよだつほどにおぞましく、旦那様にも申し訳なく思ってしまう。
今すぐにでもあの人の声が聞きたい。
せめて、あの人との想い出が沢山ある我が家に戻りたい。
しばらく待っても何も言葉を発しようともせず、立ち去ろうともしないこの男にこちらから声をかける。
「これから貴方が何をしようとも、貴方の思い通りになる事などありません。それでは、わたくしも用事がありますのでこれで失礼させて頂きます。わたくしの分はこちらに置いておきますね」
そして自分の飲食代金をテーブルの上に置き、カフェから出ると、戻りの馬車を何時もより急がせたのは言うまでもありません。
その夜、旦那様の帰りを待ち兼ねて出迎えキスをかわす。
それが彼が呆れるほどに熱く濃厚なキスになったのは仕方のない事ですよね。
彼がお疲れでさえなければ私から彼のお身体を求めて……
こほん……ちょっとはしたないですね。
勿論、彼からあの香水の匂いは漂っては来ませんでした。