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後編

 真っ暗な海に向かって歩く。懐中電灯の明かりは、足下を丸く照らす。その周りは何も見えない。町には外灯が少ないし、浜辺には明かりの類がないのだ。

 真っ暗な海は、わたしからただただ離れようとしているように見えた。彼を渡さない。そう主張しているように感じた。波を送り、わたしに警告する。あんたを飲み込んで殺す。そうなりたくないならここから去れ。そんなメッセージを受け取った気がして、わたしはひるんだ。

 でも、わたしは死にたいし、彼にもう一度自分を示したいのだ。それは、願い通りだ。わたしは一歩、足を踏み出した。波は、大きくなる。足を濡らし、足首を浸し、ひざを沈め、胸に海水がかかる。わたしはどんどん海の中に入っていった。水は冷たかった。最初、潮臭さが鼻についた。濡れた服が体に張りつくのも気持ち悪かった。今ではもう気にならない。目的が純粋になっていく。死ぬのだ、死ぬのだ、死ぬのだ。そう思い詰めていくうちに死ぬことすら目的ではなくなっていく。わたしは何の感情も持たず、首まで海水に浸かった。ふと、頭の中で声が聞こえた。

「あんたが飲むとよ」

 海に入る前の全ての感情が戻ってきた。わたしは寒いし、濡れた服が不快だし、海水は臭い。死ぬのも怖い。パニックになった。一歩引き、それでも首までの海水はかさを減らさず、わたしは呼吸を荒くした。怖い。死ぬのは、怖い。

 そのとき、気づけば拳を作っていた手を海から出していて、わたしはあのときの真珠に気づいた。すがるようにそれを口に入れ、思い切り飲み込んだ。大きな波が、わたしの頭に被さった。わたしは海に飲み込まれた。


     *


 誰かが笑っていた。目を開き、辺りを見回す。わたしは自分の体から発する光に気づいた。その光は周りの岩や魚や海草や貝を、弱く照らしていた。呼吸が楽だった。どう考えてもここは海底なのに、わたしは魚のように息をしていた。えらが開いているのかと首筋をなぞったが、何もない。冷たい海水を吸い、温かい海水を出すところを見るに、わたしは肺呼吸をしているらしい。奇妙だ。

 声が出ない。海底だから当たり前なのだが、肺呼吸ができるから不思議に思えた。口を開いて何度も試みていると、また誰かが笑った。

「醜い女」

 はっとして、上のほうを見る。そこには、長いうねった黒髪を水の流れに任せて広げた、青白い肌の美しい女がいた。灰色の瞳は透明で、顔立ちは人間の誰にも似ず、むしろ人間を凌駕したかのような神々しさがあった。目尻が肉食動物のように尖り、それがとても恐ろしい。豊かな乳房を丸出しにし、足はなかった。魚のように尾びれへと繋がっているのだ。女はくるりとわたしの周りを回り、またくすくす笑う。

「地上は醜い。この女のように」

 そう言い放つと、魚そのものの動きで勢いよく向かってきた。体当たりされる、と思って構えていると、女はわたしの横を通り抜け、振り向くと見えなくなっていた。

 わたしは女を追った。女が誰なのか、わかっていた。彼の「友人」のゾラ。幼いわたしを水中に引き込んでもてあそんだ少女の今。美しいが、地上にあるものが欠落している女。海底をいくら歩いても、ゾラの姿は見えなかった。気味の悪い漂流物の残骸や、生き物たちの捕食の様子ばかりが見える。体が光っても、魚たちは逃げなかった。特別な光で、わたしにしか見えないものであるように思う。彼が生きているのは確かだと思ったし、いるとしたらゾラのそばにいるとわかっていたから、わたしは強い意志で歩き続けた。

 暗くて大きな穴のようなものが見えた。中を覗こうとすると、陰からゾラと同じように美しい女が三人飛び出し、わたしの前に立ちふさがった。三人は笑い、わたしを囲んで歌いだした。人間の声では出せない発音を、奇妙な高音と低音が極端に混ざり合うメロディーに乗せる。美しい歌だが、頭の中がぐちゃぐちゃになり、頭痛がし、体がふわふわと思い通りにならなくなるので、わたしを狂わせるための歌だとわかった。拳を振り回し、女たちを追い払う。それから頬をてのひらで叩く。

「地上に戻れ」

 女の一人は言った。ゾラによく似た顔立ちだった。

「わたしたちは、満をそばに置く」

 もう一人が言った。最後の一人は、くすくす笑ってこう言った。

「お前は醜い。醜い女は海にはいない」

 わたしはまた拳を振り回し、女たちが退避するのを待った。女たちの言葉はわたしの自信をなくさせ、地上へと帰らせようとする言葉だった。彼女たちの言葉が、真実らしく心に響いたからだ。彼女たちには恐ろしい力がある。

 わたしはなおも進んだ。女たちはわたしの手を掴んだが、指紋がないのかつるりと滑った。それに、わたしの体が熱すぎるらしい。触るのを恐れていた。わたしを留め置くには歌と言葉しかないのだとわかったから、わたしは勇気を持って洞窟に入った。藻が生え、赤や白や桃色の珊瑚や様々な色の貝で飾られた洞窟は、わたしの体から発する光で照らされた。

 歌が聞こえてきた。高音と低音が交互に流れ、一人の人間から発せられる、男女の声を模した歌のように思えた。わたしが広い空間に出たときには、歌は終わりかけていた。緩やかになっていき、かすかになり、消えゆこうとしていた。ゾラは歌い続け、彼の体にまとわりついた。彼はポロシャツ姿で床に横たわり、うっとりと彼女を見つめていた。わたしは猛然と歩きだす。これは彼を海の住人とするための歌だ。そんなことをさせてたまるか。わたしは彼に駆け寄り、抱き起こした。彼はゾラの顔ばかり見ている。わたしは少し遠くから歌い続けるゾラの元へ突進し、手を押しつけて口を塞いだ。体はぬめって滑りそうになったが、冷たいゾラの体はわたしの手の熱さに火傷したようだった。ゾラは悲鳴を上げ、歌はやんだ。

「何をする」

 ゾラは怒り狂い、あの頭がおかしくなるような歌を歌いだした。同時に彼が体を起こし、頭を抱える。わたしを苦しめる歌は、彼をも苦しめる歌であるようだった。ゾラはそれに気づくと、「満!」と声を上げて彼に近寄った。

 彼は正気だった。ゾラを見、あのうっとりとした目つきはしていなかった。わたしを見る。彼は、わたしに驚いたようだった。それから岩肌を見つめ、次に、わたしのほうへと歩きだした。ゾラは叫ぶ。

「地上は醜い、その女のように。地上は苦しい、皆が満を避ける。地上は悲しい、ずっといる場所ではない!」

 それは、彼の気持ちを代弁している言葉のように思えた。同時に、彼の意志を弱める魔の言葉だった。彼は立ち止まり、ゾラを見、とても辛そうな顔をした。後ずさりしようとした彼を見て、わたしは暖かい空気を吹きかけ、後ろから抱きしめた。彼はわたしを見た。彼の体はかなり冷たくなっていて、心臓の音はとてもゆっくりだった。もうほとんど海の住人になっているようだ。わたしは彼を見つめ続けた。彼を愛しているという気持ちを何度も目で伝えた。ゾラは、彼を引き留める言葉を並べ立てた。彼はそれを聞くと苦しんだ。

 十分ほど経つと、彼は体を真っ直ぐにした。それからゾラの方へと歩きだした。わたしは彼を見つめ続けた。言葉が出ないのはとてももどかしかった。彼はゾラの前で頭を下げた。とても人間らしく、体を直角に折った。唇で何かを言う。声は出ない。それを見たゾラはすっと感情を消し、洞窟の奥へと去って行った。彼がわたしのほうへと歩きだした。彼はわたしの手を掴み、引っ張って、泳ぎだした。

 三人の女たちがいる。彼女たちは呪いの言葉を吐き続けた。

「お前たちは不幸になる。皆から嫌われる。苦しんで生きて、短命に終わる。子も苦しんで生きるだろう。子子孫孫、それは続くだろう。お前たちはたくさんの人間を不幸にする。たくさんの者たちから憎まれる」

 わたしたちは耳をふさぎ、女たちを追い払いながら進み続けた。女たちはしばらくわたしたちにまとわりついてきたが、一人、また一人といなくなり、海は静かになった。

 光を放つわたしと彼は、汚れた海水を照らし続けた。魚が泳いでいく。大きな魚も、小さな魚も。細長い魚もわたしたちの前を横切っていく。彼は動じずに泳いだ。

 あの浜辺にたどり着いたとき、わたしと彼は肺から海水を自然に吐き出した。無言のまま、わたしたちは砂浜を歩いた。懐中電灯が、光を放ちながら転がっていた。わたしはそれを拾い、彼と一緒に町へと向かった。

 アパートの部屋に入り、わたしたちはあちらこちらをびしょぬれにしながら風呂場に向かった。体を温め、塩水を落とす。わたしは彼のため、浴槽に湯を張った。彼はそこに入ると、ぶるっと体を震わせた。裸の彼は、とても心許なさそうに見えた。

 風呂から上がり、わたしたちはタオルを肩にかけながら話をした。彼はぽつりぽつりと話した。昔からこの小さな町に馴染めなかったこと、孤独だったこと、海の中でゾラと遊ぶことが唯一の楽しみだったこと。

「ゾラは、海の住人になれば幸せになれる、と言った。おれはそれがとても怖かった。人間世界の何かを捨ててしまうようで。だから、一年間海から逃げた。お前と生きようと思った。けど、人間の世界はやっぱり苦しくて、逃げた。ゾラはとても美しくなっていた。海で生きることはゾラのようなものだと思った」

 彼は一息ついた。彼の美しい目は徐々に生気を取り戻していた。

「海の住人になったおれの父親や先祖たちは、きっと人間として死んでしまったのだと思う。おれは父親たちを見つけられなかったから。ゾラのような女たちの一部になって、子をなす器官になり、生き続けるんだ。それもいいと思った。だから歌を聴いた。歌を聴くと、とても楽になった。体は冷たくなるし、心と体が別々になる。体と別れるのはいいと思った。けど、お前が来た」

 わたしを見て、彼は微笑んだ。わたしはどきどきしながら彼に近寄り、首に手を巻きつけた。彼はわたしを抱き寄せながら、声だけで続けた。

「お前に求められているのなら、地上で生きようと思った。おれは求められている。そう思っていたら、急に人間らしい気持ちになってきた。だからお前を選んだんだ」

 彼はわたしを床に横たえた。覆い被さり、わたしに口づけをした。深く、何度も。わたしの服を脱がし、体を触る。

「愛してる」

 彼の言葉の意味が、ようやくわかった。彼の愛は、わたしだけでなくこの世界全体に訴えかけられていた。愛の行為は、この世界を確かめるためのものだった。見返りのない愛を、彼は投げ続けていたのだ。

「わたしも、愛してる」

 今のところ、返すことのできる人は少ない。けれどわたしだけでも言葉にしようと思った。愛している。ただそれだけの単純な気持ちを。

 彼の動きがとまり、わたしは怪訝に思って彼の顔を見た。突然、頬が濡れた感触がした。彼の涙が雫になって落ちたのだった。彼は泣いていた。

 嗚咽を漏らし、彼はわたしを抱きしめた。

《了》

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