中編
電話は、何度もたくさんの場所にかけた。それでも何も手がかりはなかった。彼の友人に電話をかけても、相手からは「さほど仲良くなかったから知らない」と返ってきた。彼と深いつき合いのあった女たちなどは、「もうかかわり合いになりたくない」と言った。彼の家系が地元で疎まれているというのを実感した。わたしは、彼が呪われているかのように扱う町の人たちに憎しみを覚えた。わたしは一年も彼とつき合っているけれど、何も苦しくないし、むしろ幸せだった。
何も反応がない、むしろ迷惑そうな態度の相手に電話をかけるのが悲しくて、気づけばわたしは黒いつるつるした固定電話の受話器を手に取り、出鱈目な番号を押した。相手は洋服店を営んでいる初老の女性で、自分の店の名前を名乗った。わたしはすぐに切られるだろうと思いながら続けた。
「もしもし、わたしの恋人を知りませんか」
「どういうことですか?」
女性は柔らかで上品な声で応じた。
「恋人が失踪したんです。手がかりがなくて、見つからないんです。わたしは捨てられたの」
「まあ」
電話の向こうで、相手は絶句した。
「もう、会えないの。あんなに好きだったのに会えないの」
声が潤み、いつの間にか枯れたはずの涙まで溢れてきた。わたしは泣きじゃくった。言葉なく赤ん坊のように泣いた。
「もしもし」
わたしは電話の相手に声をかけた。女性は静かに鼻をすすり、涙ぐんだ声で、
「元気を出して、探し続けて」
と答えた。
*
彼の祖母は、一軒家に一人で住んでいる。海水と淡水が混ざり合ったような川のすぐそばに、色あせた茶色のトタンで覆われた古い家があり、そこが彼女の家だった。仕事帰りに、わたしはそこを訪れた。
「入りんしゃい」
わたしの顔を認めると、彼女は厳めしい顔のままわたしを中に招いた。広い玄関から中に入り、古い匂いのする廊下を歩き、わたしは畳の居間に通された。
老人の一人暮らしという感じのする、雑然とした居間だった。古い桐箪笥に、卓袱台、小さなテレビ。積まれた座布団や目覚まし時計や新聞が、あちらこちらに置いてある。掃除は行き届いているようだったが、人から見られることを意識していない部屋だった。
彼とわたしが一緒に住むと言ったとき、彼女は同居を断った。一人が気楽だというのが理由だった。
「満は見つかったとね」
彼女がいきなりふすまを開いて現れたので、わたしはどきっとした。お茶を用意していたのかと思いきや、何かを持っている様子はない。
「いいえ」
「そうやろうね。わたしもそうやろうと思っとった」
どういうことだろうかと、彼女を凝視した。今日の彼女の顔は泣き腫らしてはいなかった。何か恨みに満ちた顔つきしていて、わたしは少し怖くなった。
「奴らが連れていったとよ」
わたしはどんどん恐ろしくなってきた。彼女は怒りを膨らませ、拳を強く握りしめていた。
「わたしの父親と夫と息子のことは知っとるかね」
知っている。彼女の父親と夫と息子、つまり彼の曾祖父、祖父、父は漁師で、海難事故で亡くなったのだと彼は言っていた。わたしがそのことを言うと、彼女は大きく首を振った。
「奴らが連れていったとよ」
「奴らって?」
おびえながら、わたしは訊いた。彼女の言うことを信じるにしても、信じないにしても、怖い。
「海に住む、女たち。奴らの種族には男がいなくて、人間の男を連れていく。わたしの一族は血ば気に入られて、代々ずっと連れて行かれたと。夫は婿養子やあとけ、奪われた。嫁は絶望して早くに死んだ。だあれも何もしてくれん。海難事故だと、言い聞かせる若いもんもいる。年寄りは、わたしたちを呪われとると言う。皆みんなわたしたちを避けた。わたしは誰のことも信じられんようになった」
「彼は、海に住む女に連れて行かれたんですか?」
「そう。子供んときから海であの女と遊んで、いくら注意しても聞かんやった。それでも、近頃女が繁殖期に入ったとやろうね。危険ということがわかってきたらしか。あんたが来てからは一切海に行かんやった。それなのに……」
わたしはくらくらした。あの美しい女の子。彼女はわたしを海に引きずり込みながら笑っていた。幻覚ではなかった? まさか。現実であってたまるか。
「あんたにこれをあげる。これは夫から、新しく男の子が生まれたらその子にあげるように言われたもの。大事に取っとったばってん、あんたにあげる」
彼女はわたしに白い絹の包みを渡した。そっと開くと、そこには大粒の真珠があった。白く滑らかそうな肌の真珠は、妖しい美しさを持っていた。
「これを飲んで、夜こっそりと海に潜りんしゃい。あの子と同じになれるけん。あんたが飲むとよ。あんたが飲んで、あの子を連れ戻すと」
わたしは布越しに真珠の存在を確かめていた。これを、飲む? 彼女は正気なのだろうか。これはただの真珠ではないのか。
彼女は、深々と頭を下げた。
「お願いします」
*
家に帰り、わたしは部屋が相変わらず無人なのを見て取った。涙が溢れた。彼を、愛していた。そばにいたかった。それが叶わないのなら、死にたい。
死ぬのなら、あの恐ろしい海で死のう。彼の祖母の話は信用できないけれど、彼が海に行ったというのは本当だと思えた。彼のいる海で死ねば、彼は気づいてくれるだろう。わたしは夜を待った。