前編
彼が消えて一週間が経つ。
桜の葉が茂り、生命の息づく季節のこと、明るい日差しの差し込む六畳の和室の隅にうずくまり、わたしは泣いていた。わたしは捨てられたのだ。そう思っていた。
わたしはただの魚介類の加工場で働く女で、日焼けしきっていてお洒落でもない、魅力の少ない女だということはわかっていた。それでも少しは好いてくれていると思っていた。彼は、わたしに「愛している」とたびたび言った。痛みに耐えるような顔で、わたしの手首をぎゅっと握りながら。何が彼をここまで苦しめているのかわからないまま、わたしは嬉しくて笑った。拙い言葉でお礼を言った。でも、今ならわかる。わたしの他に、彼には何か大切なものがあったのだ。
今週、加工場には欠かさず行った。誰もわたしの異変には気づかない。わたしはここでは異邦人だったから、彼女らと馴染むことがなかったのだ。黙々とコンベアで流れてくる缶詰の点検をこなした。マスクをしていても魚の匂いは鼻につくし、帽子や手袋やエプロンをしていても、体中に魚の匂いがしているようでたまらなかった。彼が消える前はそんなことは気にしていなかったのに、今はこれがわたしの元から彼が去った原因だとしか思えなかった。
彼は小さな図書館の司書の仕事を放り出して消えていたから、数日前、わたしは彼の祖母と共に捜索願いを出した。忙しく人の行き交う警察署内の奥へと歩きながら、こんなことで彼が戻ってくるのだとは思えなかった。何か、恐ろしいもの。そういうものが彼を魅惑し、引き込んだのだと感じた。わたしは家族を全員亡くしていたが、それをきっかけに、そういうものを信じる不安定さを持っていた。両親が事故で亡くなったときのように、弟が病気で死んだときのように、強力で怖いものがわたしから彼を奪った。そう思いこんでいた。
「何かあったら、電話しんしゃい」
彼の祖母は警察署を出ながら、きっぱりとした口調でわたしに言った。赤く腫れた目はらんらんと光っていた。わたしはこの老婆にも「恐ろしいもの」を感じた。
*
家族を皆亡くしてわたしがここに来たのは、子供のころの出来事がきっかけだった。わたしは海遊びにこの町の端にある浜辺にやってきたのだ。灰色の砂浜の向こうに広がる青い海は、テレビで見たエメラルドグリーンの海とは違い、さほど透明ではなかったが、強い日差しと無限に広がるように感じられる海のお陰でわたしたち家族は皆笑顔だった。ショッキングピンクで、チュチュのようなひらひらがついた小さな水着を着て、わたしは三歳の弟と共に波打ち際で水をかけ合って遊んだ。弟は丸々としてよく笑う子だった。黒くなりきっていない短い髪を頭に張りつかせ、小さな手でわたしに海水をかけた。わたしは彼が溺れてしまわない程度に同じことを返してやった。わたしたちは仲むつまじいきょうだいだった。
そろそろ昼食にしようと父が声をかけた。母が弟を抱き上げる。次の瞬間、それは起こった。海が笑ったように思って、わたしは振り向いた。高波が襲いかかってきていた。大人が踏ん張れても、座っている子供のわたしには耐えられない大きさの波。わたしは飲み込まれた。
すうっと、海の中に連れ込まれたような気がした。誰かが水着のひもを掴んでいたのだ。目の前を行く美しい女の子は誰だろう。そう思っていた気がする。
わたしは沖のほうの海底に沈んだ。長い間息ができなくて、わたしはとうとう呼吸をしてしまった。げぼっと海水を吸い込み、死を意識するくらい苦しんだ。そのとき、彼と会った。
彼は海底を歩いていた。わたしの近くにいた「何か」に笑みを浮かべて手を振り、わたしに気づくと慌てたように泳いで浮上した。わたしを「何か」から奪い取ると、彼はわたしをまた海中に運び、泳ぎ、浜辺につくとわたしに人工呼吸を施した。胸を押し、水を吐いたら彼はほっとした顔をした。そのときのまぶしさをわたしは忘れていない。彼は美しい少年だった。目は生き生きとして、この世ならぬ「何か」とは全く縁のなさそうな健康的な笑みを浮かべたのだ。
彼はわたしににっこりと笑いかけると、また海に潜った。彼が上げた飛沫を見ながらわたしはしばらくぼんやりとし、辺りを見回す。そこは目立たない山沿いの海岸のようだった。わたしはふらふらと歩きだした。
わたしは誰か大人に発見され、家族の元に戻った。家族は泣いて喜んでいた。
*
家族が皆いなくなり、わたしは会社を辞めてこの町に来た。まだ家も職も決まっていないあの日、わたしはあの浜辺に立っていた。海はあのころとは変わって見えた。無限に見えたはずのそこは、向こう岸の見える小さな海だった。海には何かが住んでいる。そう思わせる妙な生気を感じさせるきらきらした海の表面は、うねりながらわたしに向かってきそうな気がした。気味の悪い海。そう思い、わたしは身を翻した。近くで大きな水の音がした。振り向くと、海水パンツ姿の彼が、そこに立っていた。目が合い、彼は照れたように笑った。
「暑いから、海遊び」
彼はすたすたと歩きだした。何となく早足で、海から逃げているように見えた。海は彼を追いかけてきそうにかさを増している。そう思ったがそれはただの波で、土を濡らすと大人しく引いていった。わたしは彼を追って歩きだした。
「どうしたんですか? おれに何か用ですか?」
彼はわたしを見て笑った。彼は覚えていないのだ。わたしは恥ずかしくなりながら、それでもついていくことをやめなかった。砂浜が終わったところで、彼は立ちどまった。わたしを見て微笑む。
「小さいとき、ここに来ただろう」
どきっとした。彼のはっきりした目は、健康的な輝きを持っていた。
「おれの秘密を知ってるんだ。ゾラが言ってた」
彼の秘密。それは海でも呼吸ができることだ。あのときのことを、幼いころから何度も何度も繰り返し思い出していたからわかっていた。彼は、普通の人間がダイビングスーツを着て泳ぐような深い場所で、酸素ボンベもなしに当たり前のように歩いていた。笑いもし、何かしゃべったようにも思えた。わたしはあれが夢ではなかったことに感動した。ただ、ゾラというのは誰のことだろう。その奇妙な名前に、わたしは戸惑った。
「友達だよ」
わたしはそれを聞いても疑っていた。ゾラというのは、わたしを海に引き込んだあの少女ではないのか? そう言いたいのを飲み込んで、わたしは言葉を発した。
「わたし、この町に住むんです」
数日ぶりの自分の声だった。弟の葬儀が済んでからは一言も話していなかったのだ。力の加減がわかっていないような、大きな声になった。彼は目を丸くして笑った。
「そう」
「この町のこと、教えてくれませんか? わたし、この町が好きなんです」
海以外は、という言葉を封じた。なだらかな勾配の山、小さな船が浮かぶ河口、古い家々が立ち並ぶ集落。過去に取り残されたような漁師町だが、わたしはこの町が好きだった。
彼は微笑んだ。
「いいね。そうしよう」
それがわたしたちの再会だった。
*
再会して三ヶ月も経つと、わたしは彼と共に小さなアパートに住んでいた。彼の唯一の肉親である祖母に挨拶をしたが、小岩のように丸く頑丈そうな彼女は、よそもののわたしに親切だった。彼女はこう言った。
「土地の女子はあまりよくなかけんな。よその女子がよか」
不思議に思ったが、どうやら彼らの家系は地元の人たちに疎まれているようで、そのために彼女は地元の人間を信用していないようだった。その割に彼はもてた。大きな目と精悍さを感じさせる鼻と唇、筋肉質な体、柔らかな物言いは彼を人気者にするには充分だった。わたしと恋人になってからも彼は幾人かの女性と寝た。それでも彼はそのような地元の女性たちと結婚することができないようだった。彼女たちの親族に反対されるのか、彼の浮気相手たちは一月もすると潮が引くように彼から離れていった。彼のことで嫉妬する彼女たちに当てこすりを言われるのには慣れなかったし、彼が帰ってこない夜はひどい怒りと不安がわたしの心臓と胃袋を掻き回したけれど、結局はわたしの元に戻ってくるとわかっていたからどこか安心していた。浮気する男など、と思うことはできなかった。彼はわたしの初恋の人であり、優しく愛してくれる人だった。
彼は浮気してばかりはいなかった。おんぼろの小型車に乗り、わたしを連れてよく県外に出てもいた。大学の四年間を除いてほとんどの期間あの田舎町に住んでいた彼は、都会が物珍しいようだった。ただ、憧れを感じることはないらしく、地元に帰るとひどく安心したような顔をした。
わたしたちはよくセックスをした。手首を掴んで「愛している」とささやかれるのは大抵このときだった。畳の上で、わたしたちは絡み合った。滑らかな畳を裸の背中に感じ、わたしは何度も幸福を覚えた。彼が絶頂する瞬間の顔を見て、愛おしいと感じた。彼が痛みに耐えるようにわたしに愛をささやくのは、何か理由あってのことだとわたしはわかっていた。それでも訊くべきではないと思い続けた。訊くべきだったのかもしれない。
彼がいなくなった日、彼は普段通りにアパートを出た。
「行ってくる。帰りは定時だから」
と微笑んだ。窓の外を見ると、彼は一年前わたしに再会してから行っていなかった、海の方角に向かっていた。