表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一部 旅立ち

あまり需要がないであろう、誰得な和風ファンタジー。

しかも、ぬる~い展開。

その上、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、微妙な結末が待っています。

それでもよろしければ、どうぞ。

   第一章 公命の依頼人


 殺人的な強い日差しが、往来する人々を容赦なく焼く。土埃舞う路面に、問屋の女将が水を()いているが、見る間に乾いていく。今年は例年にない暑さだ。元気なのは、蝉くらいなものだ。その鬱陶(うっとお)しい鳴き声が、不快感に一層拍車(はくしゃ)をかけている。  

「来る時季を間違えたねぇ……」

 流しの歌唄いである吟次郎(ぎんじろう)は、うだるような暑さに、すっかりばて気味であった。

 立ち寄った飯屋で頼んだ天ぷら定食にも手を付けず、水ばかり飲んでいる。飲めば飲む程、汗が溢れ出す。かといって、水を飲まなければ舌が乾いて口内に張り付く。それを防ぐ為に、ちびちびと水を口に含む。いつでも歌える状態にしておくのが、歌唄いの心得だ。

「早くこの島を出ねぇと脳味噌が溶けちまぇそうだよって、んなわきゃねぇけど」

 一人ボケ、一人ツッコミ。

「もしやそなた様は、歌唄いではござりませぬか?」

 あまりの暑さに下らない愚痴(ぐち)を溢す吟に、誰かが話し掛けてきた。机の上にのびていた吟は、ゆっくりと頭をもたげる。机を挟んだ向こう側に、一人の男が笑い掛けてきていた。

 着ているものから察するに、この飯屋の者だろう。しかし南国にいるわりに色白で、珍しいことに虹彩(こうさい)(=目の瞳孔の周りにある茶褐色の部分)が橙色であった。若そうにも年寄りにも見えるが、多分中年だ。恐らく、三十歳くらいだろう。この土地の気候に慣れているのか、爽やかな笑顔だ。

 一方吟は体が重く、喋るのもおっくうだ。対応するのも面倒で、つい無愛想になってしまう。

「どちら様で?」

「申し遅れました。それがし(わたくし)は本州の若草城から参りました、風見忠直(かざみただなお)と申す者にございます」

 風見は(うやうや)しく礼をした。

 本州の若草城といえば、二十万石(まんごく)ご大身(ごたいしん)(=身分が高いこと)。しかもこの小島からは、かなりの距離がある。船と駕籠(かご)を乗り継いだとしても、片道二十日は下らない。吟は頭の中で地図を開き、思ったままに言う。

「そりゃまた、遠路遥々お疲れ様です」

「いえいえ、流しのそなた様ほどではございませぬ」

 小奇麗な年齢不肖の男は、ずいぶんと礼儀正しい。しかもただの飯屋の者とは思えない、格が違う洗練された動きだ。それに言葉遣いも、方言やなまりが一切ない。

 もしかすると何かの事情で身分を隠して、ここに留まっている大名の息子か、はたまた家老か老中か。

 吟は失礼があってはいけないと、慌てて姿勢を正した。

「あの、それであたくしに何か?」

「そなた様を流しの歌唄いとお見受けしましたが、違いますかな?」

 問われて、吟は自分の姿を確認する。不精(ぶしょう)にも結い上げもせず、肩まで伸ばした黒髪。中肉中背、顔立ちも平凡な二十歳。身に着けている物は、安物の古い着物。腰には、三尺三寸の小太刀(約一メートルの刀)を差している。

 吟は首を傾げた。確かに自分は流しの歌唄いだが、容姿だけでそれと気付いた人間は今まで一人もいない。何故分かったのだろう?

 ふと机の上に目をやって、吟は「あ」と、声を上げた。

 そこには、手を付けていない天ぷら定食と、愛器の三味線。吟の隣の席には、長旅でくたびれた(かさ)と荷が置いてある。風見はこれを見て、分かったのだ。

 風見は返事がないのを間違いと判断したのか、もう一度同じ言葉を繰り返す。

「流しの歌唄いでは、ございませぬか?」

いかにも(そうです)

 吟が頷くと、風見はほっとした表情を浮かべる。

「ああ良かった、やっと見つけましたよ」

「『やっと』ってぇのは、どういう意味ですかい?」

吟が尋ねると、風見は苦笑を浮かべる。

「いや実は、ずっと流しの歌唄いの方を捜していたのです。ですが、なかなか見つからない。見つけたと思ったら、店専属の楽師だったり、踊り子だったりと。紆余曲折(うよきょくせつ)ありましたが、ようやくそなた様を見つけたのでございます」

「ははぁ。そりゃあ、大変でしたねぇ」

 探し回る苦労を想像して、ねぎらいの言葉を掛けると風見はにこやかに答える。

「いえ、これもそれがしの仕事ゆえ。それでですね、そなた様に仕事を依頼したく存じますが、お請け願いますか?」

「うーん……」

 吟は湯飲みに残った水を飲み干して、机の上に置いた。風見は、すかさず水を追加した。なかなか気が利いている。

 吟は再び湯飲みを手にして、少し考えてからゆっくりと答える。

「そりゃあ、内容によりやすね」

 吟の返事を聞いて、風見は周りを見渡した。まだ昼前ということもあって、飯屋に人影は少ない。店の主人も暇を持て余しているようだ。仕事を怠けている風見を、咎める者は誰もいない。風見はひとり頷く。

「では、簡単に内容をご説明させて致します」

「あ、立ち話もなんですかい、よければ座って下せぇ」

「ありがとうございます」

 風見は軽く会釈すると、吟の向かいに腰掛けた。

「それで仕事といいますのは、ある方へ言付け(ことづけ)(=伝言)をお届け願いたいのです」

「『ある方』というのは?」

「我が若草城の菊姫様にございます」

 それを聞いて、吟は目ん玉剥くほど驚いた。

「姫様っ?」

「はい」

 聞き返すと、風見ははっきりと頷いた。

 吟も歌唄いの端くれなので、旅する内に何度か人に歌を届けたことがあった。告白するから歌を作ってくれとか、旅興行をしている男から家族へ言付けを届けて欲しいとか。民間人の頼みを、旅のついでにやっていたくらいだ。

 しかし、大名家に歌を届けるなどという依頼は、今までしたことはなかった。きっと、褒美(ほうび)もたんと(たくさん)出るに違いない。

 吟の目の色が変わった。興奮のあまり、声が上擦る。

「あ、あたくしような流しなんぞに、かような(このような)大役を頂けるとはっ! 過ぎた仕事ではありやせんか?」

「いえいえ。流し歌唄いの方にお願いしたいのでございます。但し、大事な内容ですので、必ず菊姫様ご本人にお届けするよう願います」

「それで、その内容とは?」

 思わぬ大きな仕事に、吟は身を乗り出さずにはいられなかった。そんな吟を見た風見は、嬉しそうに声を高らかに上げる。

「おお、それでは引き受けて下さいますかっ」

「あたくしなんぞでよければ」

 吟が控えめに言うと、風見は感激した様子で吟の両肩を掴む。

「ありがとうございます。早速、そなた様の名をお聞きしたいのですが」

「吟次郎と申しやす」

「吟次郎殿! 何とぞ、よろしくお願い致しますっ!」

「は、はい……」

 風見のあまりの感激振りに気後れをして、吟は笑顔が引きつってしまった。そんな吟をよそに、風見は嬉々として言葉をつむぎ始めた。

「それでは、詳しくご説明させて頂きます。実は、菊姫様には生き別れになった、兄上様がいらっしゃるのです」

「若草城に世継ぎが産まれたってぇ話は、聞いたことがねぇんですけど?」

 風の噂に聞いたところ、若草城にお世継ぎ出来る男子はいなかったはずだ。吟が小首を傾げると、風見は声をひそめる。

「かつてお世継ぎは、おふたりいらっしゃったのだそうです。ですが、おひとりめのご嫡男(ちゃくなん)(=正妻から生まれた長男)は、幼いうちに行方知れずになられたとか。その行方は、今でも分からないのだそうです」

 風見は、悲しげに目を伏せて続ける。 

「そしておふたりめ、菊姫様の兄上様はとある事情により、南西の島国へ引き取られたのだそうです。ですが、菊姫様はそのことをご存じありませぬ」

「その事実を伝えて、直接会わせればいいんじゃねぇですかい?」

 吟の提案に、彼は弱々しく首を振った。

「それが出来れば、苦労はありませぬ。生憎兄上様は、不治の病に臥せっておられて面会は出来ないのだそうです」

「流行り病か何か?」

「いえ、先天的なご病気だとか。お可哀想に、ご自分の足で歩くことすらままならないそうで。出来ることなら、それがしが代わって差し上げたい!」

 風見は大げさにため息を吐くと、言葉を続ける。

「本来ならば、それがしとそなた様で、共に言付けをお届けする役目を果たすべきなのでございましょう。しかし、それがしは今、とある事情によりこの島から出られないのです……」

「とある事情?」

「お恥ずかしながら」

 と、前置きをしてから、風見は言葉を次ぐ。

「実は手形に金子(きんす)(=お金)、旅道具一式が入った荷を全て失くしてしまいまして。手形の再発行の為に、もう十日もこちらに足止めされておるのです」

「それは何というか、災難でしたね」

「ええ、そりゃもう困りました」

 道中手形なくしては、関所を行き来することは出来ない。しかし、手形の取得は非常に手間取る為、再発行までにとてつもなく時間が掛かる。

「そんな事情により、心苦しいのですが、そなた様お一人で言付けをお届け願いたいのです」

「なるほど、分かりやした。では、その言付けとやらをお預かりしやしょう」

 吟は風見を促した。先程の雰囲気とはうって変わって、風見はためらいがちに口を開く。

「それが。大変申し上げ難い話なのですが、荷もろとも失くしてしまいまして」

「――はい?」

「ですから、その……」

 風見が言葉を濁したので、吟は何やら嫌な予感がした。

「兄上様の大事な言付けも、一緒に失くしてしまったのです。ですから、兄上様の家へお立ち寄り頂いて、言付けを預かって来て頂かなくてはなりませぬ」

 予感的中。嫌な予感というものは、何故か的中するものだ。いい予感に至っては、滅多に当たらないくせに。

「ひょっとして、兄上様の所在も分からないんじゃ?」

「ええ。手数ですが、申し訳ございませぬ」

「さようで……」

 この度の仕事は、骨が折れそうだ。だが、一度引き受けたものを断るのは、気が引ける。風見に気付かれないように、吟は小さくため息を吐いた。

「大体の見当は付きやすかね?」

「城下町の長屋(ながや)(=アパート)通りあったと記憶しておりますが……」

「長屋ですかい」

 城下町に長屋なんて、いくらでもある。あまり手がかりにならない気がしたが、他に憶えていないんじゃ仕方がない。あとは現地で、聞き込みをするしかない。吟は手の中の筆を、弄びながら尋ねる。

「ともかく、名前が分からねぇと調べようがありやせんや。兄上様のお名前は、何と仰るんですかい?」

「栄吉様です。今は引き取られ先の名を名乗られているので、水野栄吉(みずのえいきち)様と仰ります。今年、二一になられたはずです」

「分かりました」

 吟は紙に『城下町、長屋通り、水野栄吉、二一』とつづった。

「よし、そうと決まれば、腹拵えしねぇとっ」

 吟はすっかり冷め切った天ぷら定食を、無理矢理掻っ込んだ。

「無理して食べると、腹を壊しますよ?」

「いやぁ、少しでも腹に入れておかねぇと、暑さで参ってしめぇそうで」

 風見が忠告してくれたが、吟は聞かなかった。それがいけなかったのか、吟は胃もたれを起こした。水しか飲んでいなかった弱った胃に、油物を食べれば当然である。

「うぁ~、気持ち悪ぃ」

「大丈夫ですか? 薬をお持ちしましょうか?」

「はぁ、すんません」

 机に突っ伏した吟に、風見は店の奥から薬を持って来てくれた。吟は差し出された胃薬と水を腹の中へ流し込み、人の忠告はきちんと聞いておくべきだったと、泣く泣く反省した。


 半刻(一時間)ほど休憩して、ようやく動けるようになった吟は、荷を纏めて立ち上がる。

「それでは風見さん、仕事が済んだらまたお会いしやしょう」

「吟次郎殿っ」

 吟が飯屋を後にしようとしたところ、入り口近くで呼び止められた。

「何か?」

「もしよろしければ、こちらをお持ち下さりませぬか?」

 風見が差し出したのは、少しくたびれた合羽かっぱだった。

「それがしが、唯一失くさなかったものです。今は、要りよう(必要)ではないので、よければ使ってやって下さい」

「いいんですかい?」

「ええ。今渡せる、唯一無二の前金代わりですから」

「なるほど、そういうことでしたら」

 吟はそれを素直に受け取った。手にして気がついたが、合羽はずいぶん凝った造りをしている。しかも生地は、上質なものを用いているようだ。

「ほぉ。これはまた、立派なものですね」

「兄上様に会う際に役立つだろうと、桃姫様から頂戴致しました」

「なるほど、良い物のはずだ――って、そんな大事な物受け取れやせんぜ!」

「どうか、お持ちになって下さい」

 やはり返そうと思ったが、風見が頑として受け取ろうとしなかったので、渋々受け取った。貰ったものの、こんな上物をどうして良いか分からない。そもそも、この暑さでは着る気がまるで起こらない。

「これだけ立派な物を授かるってぇことは、風見さんはやんごとなき(非常に身分が高い)生まれなんでしょうや」

「いえいえ、とんでもない」

 苦笑しながら、風見は首を横に振った。

「大名とは、全く関係のない出ですよ。今回はたまたま、特別な公命をおびているだけでして」

 それだって大したことだけどなぁ、吟は思った。


 風見に別れを告げると、吟は直ぐさま波止場(はとば)へ向かった。とにかく一刻も早く、この島から出たくて仕方がなかった。それだけ、吟には過酷過ぎた。そもそも、長居する気はさらさらなかった。興味本位で、ふらりと立ち寄ったに過ぎなかったのだ。

 波止場には、大小幾つもの旅客船や、貨物船が停泊している。あちこちに、忙しなく出船の準備をする者達の姿が見える。船と陸を繋ぐ桟橋には、吟以外の旅客達の姿も多く見られた。

 吟が選んだ旅客船は、停泊している旅客船の中では中くらいの大きさだった。堀や川を行くのではなく、海原を行くのでそれなりに大きな船だ。

 のんびりとあたりを見回していた吟に、二十代中頃の船乗りが声を掛けてくる。

「そこの方、そろそろ出航だから、急いで乗っとくれっ」

「あ、すいやせん」

 吟は、船乗りに急かされるまま乗船した。

 乗船して間もなく、ゆっくりと動き出す。船は夕陽に照らされながら、水の上を軽快に駆け抜ける。甲板には水で冷やされた風が心地良く吹き、時折水飛沫が飛んでくる。

「おーっ、涼しーっ。これだけでも、船に乗って本当に良かったなぁ」

「お客人、あんた運が良いよ。昨日ちょうど、梅雨が終わったらしいからね」

 振り向くと、先程声を掛けてきた船乗りだった。日に焼けた顔に笑みを浮かべて、こちらへ近付いてきた。

「そうなのかい?」

「おうともさ。梅雨の間は時化る(しける)(=海が荒れる)から、船が出せなくて皆困ってるんだ」

「その間、あんたさん方はどうやって、生計を立てているんだい?」

「それは、人それぞれだね。内職をする奴もいるし、どっかの店で臨時で働く奴もいる。オレも昨日まで、(とび)(=大工)で働いてたよ」

 船乗りは、得意気に(かんな)(=木材の表面を削って滑らかにする道具)をかける仕草をして見せた。それがあまりにさまになっていたので、ずいぶん長い間やっていたことが分かる。

「へぇ、なるほどねぇ。話は変わるけど、船旅は何日掛かるか分かるかい?」

 船乗りは大きく頷くと、日に焼けて黄色くなった地図を取り出した。それから指で、風向きと強さを確認する。

「そうだな、このまま順調にいっても四日は掛かるかもな」

「結構掛かるんだねぇ」

「仕方ないさ。海次第、ひいては風次第だからな。早くも遅くも、なろうというものだ」

 それ以来、その船乗りとすっかり意気投合して仲良くなった。彼もまた、暇を見つけては吟に会いに来て、他愛もない話を航海中ずっとしていた。

 そうして船は順調に進み、四日目の夕方に本州の南西にある島へ辿り着いた。

 下船して振り返ると、甲板の上には別れを惜しむ何十人もの旅客達が、陸地の人間に見送られながら手を振っていた。離れ離れになって、泣く者もいた。

 甲板の人だかりから少し外れた所に、あの船乗りがいた。彼は名残惜しそうに、船の上から吟を見ていた。船乗りは大きく手を振って、こちらに向かって大声で叫ぶ。

「どうかお元気でっ!」

「そちらこそ!」

 吟も船乗りに向かって、声を張り上げて大きく手を振り返した。

 陸地と船を繋ぐ桟橋が外されると、船は南へと旅立っていった。

 彼ら船乗りは、きっと延々これを繰り返していくのだろう。南の島とこの島の間を行ったり来たりしながら、日々が過ぎていくのだ。船に乗っているにも関わらず、海の果てがどこにあるのかを知らずに。毎日同じことを繰り返す、単調な日々が流れていく。

 自分だったら、知りたくなるだろう。この海の果てには、何があるのか。どこまで行けるのか。他所の国へ、旅立ちたくなるかもしれない。 

 いつだったか、吟は船乗りにそんな質問を投げかけてみた。すると彼は肩をすくめて、笑いながら答えた。

「そんなこと、考えもしなかったね。オレは航海士でも海賊でもない、ただの船乗りだ」

 その答えに、吟はハッとなった。これが、旅人と一般人の考え方の違いなのだと、気付かされたからだ。

 船乗りには、養わなければならない家族がいる。その家族を守る為に働いているのだと、教えてくれた。だから、どこへもいかないのだと。

 吟は羨ましいと思った。守りたいものがある、守れるものがあるのは良いことだ。吟には、守るものも守りたいと思うものも、何もない。

 だからどこへも行ける、根なし草のように漂い続けることが出来る。自由だけれど、不安定でもろい。いつ、どこでのたれ死んだとしてもおかしくない。それが旅人だ。


   第二章 若草城の醜聞


 港には、多くの旅客船や漁船、貨物船が停泊している。岩場には数人の漁師がおり、少し離れたところに魚市場も見える。この時間、市はやっていないのか、ひと気は少ない。市をやるなら、早朝に違いない。

 本州の南西に位置するこの島は、漁業が盛んである。折角やってきたのだから、いつもより少し早起きして、魚市場へ行くのもいいかもしれない。

「早速、情報収集をしねぇとなぁ。あ、仕事中すいやせん。ちょいとよろしいですかい?」

 吟は、港で働いている漁師のひとりに声を掛ける。

「城下町はどちらですかい?」

「ああ、あっちの方角だよ」

 漁師は手元で網を編む手を休めて、気さくに教えてくれた。礼を言って立ち去ろうとすると、今度は漁師が吟を呼び止めた。

「あんた、今日の宿は決まっちょるんか?」

「いえ。今着いたばかりで、まだどこにも」

 吟が答えると、漁師は嬉しそうに頬肉を引き上げて笑う。

「そんなら、この先にある『さざなみ亭』っつう名の旅館を取ると良いぞ。魚介類をたんと(たくさん)食わすし、部屋からの眺めも最高じゃかい」

「へぇ、詳しいねぇ」

「そりゃあ、オレんちじゃし」

 漁師が自信満々に、胸を張った。あまりに得意気なので、吟はおかしくなって思わず笑ってしまう。

「ははっ、なるほど。じゃ、お言葉に甘えてご厄介になろうかねぇ」

「おおっ、兄ちゃん、いい人じゃあ。遠慮せんと、来い来いっ」

 豪快に笑う商売っ気丸出しの漁師に気を良くした吟は、滞在中はそこに宿をとると、漁師に約束した。

 漁師に言われた通りの方向へ歩いていくと、まず城下町の大通りへ出た。城下町は賑やかで、繁華街と言っても差し支えない。

 軒を連ねる店の並びに、さざなみ亭はあった。明らかに、観光客用とわかる門構えの旅館だった。少し気後れをしながら門をくぐると、女将と思われる中年女性がにこやかに出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ、お客様。よくぞ、我が『さざなみ亭』へおいで下さいました。どうぞ、ごゆるりとお寛ぎ下さいませ」

「世話んなりやす」

 吟は女将に向かって、軽く会釈をした。

「すぐ、お部屋へ案内させて頂きます。どうぞ、こちらへ」

 女将が先に立って歩き出したので、吟はそれについていく。

「お客様は、おひとりで?」

「へぇ、ちょいと仕事で。先程、船で着いたばかりでしてね」

「あらあら、それでは長い船旅でさぞかしお疲れでしょう?」

「いやぁ、そうでもねぇでさぁ。結構快適でしたから、それ程疲れちゃいやせんや。それにまだこれからちょいと調べもんがありやすので、荷物を置いたらまた出掛けないとならないんでさ」

 吟が答えると、女将が大げさに驚く。演技だって分かるくらい、大げさに。

「あらまぁ、お忙しいのですね! それで、いつまでこちらにご滞在に?」

「そりゃ、まだ分かりやせん。状況次第ってぇところで。明日になるか、もっと先になるか……」

 その言葉を聞いた女将が、ほくそ笑んだのを吟は見逃さなかった。

「さようでございますか。それならば、お気の許す限りのんびりとなさっていって下さいな」

「そうさせて頂きやす」

 あの漁師といい、この女将といい、本当にちゃっかりしているなと、吟は声を出さずに笑った。

「こちらのお部屋でございます」

「さざえ」と書かれた木板が掲げられた、部屋のふすまを女将が開いた。部屋の中は旅館らしく綺麗に整えてあり、机の上には甘酸っぱい匂いを放つ、瑞々しい夏蜜柑(なつみかん)が置いてあった。

「こちらが鍵でございます。お出掛けの際は、ぜひ私にお預け下さい。あと、何かご不明な点がございましたら、なんなりとお尋ね下さいませ」

 それだけ言うと、女将は部屋を後にした。

 吟は荷を預け、身軽になったところで、早速情報収集へと乗り出した。

「お帰りを、お待ちしております」

 営業用の笑みを浮かべる女将に見送られて、吟は旅館をあとにした。


 賑やかな大通りをぶらぶら歩き、客引きをしている男に声を掛ける。

「ちょいとお伺いしてぇんですが」

「はいはい兄さん、いい娘揃ってるよ~!」

 男は手もみしながら、こちらを向く。この客引きは、たぶん男性向けの呑み屋の者だろう。客引きの横に立ててある、看板に目をやる。その名も「魚心あれば水心」……うーむ。

「いやいや、あたしゃ客じゃないよ。ちょいと、聞きてぇことがあってね」

 態度一変、男は手もみしていた手を離すとあからさまに嫌な顔をした。離した手を、犬か何かを追い払うように振った。

「何? 客じゃないの? 用がないなら、あっち行きな」

 聞く耳をもたない客引きに、已むを得ずその場を立ち去った。もしかすると、この辺りは聞き込みに向かないのかもしれない。吟は、大通りを抜けて長屋通りへ出た。

 長屋通りは文字通り、長屋が数多く軒を連ねている。幾つもの家から、温かな明かりと楽しそうな笑い声が聞こえてくる。吟は、自然と顔が綻ぶのを感じた。

 しかし、ここも聞き込みには向かないようだ。もう夕餉(ゆうげ)(=夕食)の時刻なので、表には人けは見られない。歩いているのは、野良猫や野良犬くらいか。かといって、家族の団欒(だんらん)を壊すのも、可哀想ではばかられた。

 仕方がないので、何も手がかりがつかめないまま旅館へ戻ることにした。

 旅館へ戻ると、女将が笑顔で出迎えてくれた。

「お帰りなさいませ、お早いお帰りで。調べもののの方は、いかがでした?」

「生憎、さっぱりでさぁ。また明日、出直しまさ」

「それはそれは、残念でしたねぇ」

 女将の口調は、どう考えても「残念」とは聞こえない。吟の宿泊期間が延びたのを、喜んでいるようにしか見えない。吟は、苦笑するしかなかった。

 その時ふと思い立って、女将に尋ねてみる。

「ちょいとお尋ねしやすが、女将さんは水野ってぇ人をご存じありやせんかい?」

「さぁ? 私は雇われ女将ですからね、分かりかねます」

 雇われ女将だったのか。この旅館は結構繁盛しているようだから、人手が足りないのかも知れない。吟は、小さく唸ってから尋ねる。

「もしよろしけりゃ、他の泊まり客にも情報集めをしてぇんですが……」

 女将が、慌てて手を横に振る。

「そんなことをされては困りますよ! お泊りのお客様達は、この宿に安らぎを求めていらっしゃっているのですよ? 見ず知らずの方が、突然お部屋を訪問されては、他のお客様が驚かれるでしょうっ?」

「あ。それもそうか」

 女将にいさめられて、吟はすごすごと引き下がった。

 夕餉は漁師の言った通り、食べ切れない程の魚介料理が食卓に並んだ。新鮮な刺身の盛り合わせ、具だくさんな海鮮鍋、カリッと揚がった小海老と小魚のかき揚げ、醤油の匂いが香ばしいさざえのつぼ焼き、ふわっと炊き上がったあさりの炊き込み飯。食後には、西瓜すいかまで出た。

 心行くまで地元料理を堪能して、その日は早めに就寝した。


 翌日、吟は朝餉(あさげ)(=朝食)を摂ってから出掛けた。昨晩賑やかだった大通りは、今日も違う意味で賑わっている。景気良い売り声が飛び交う、朝市をやっているのだ。

「えー、いらっしゃい! いらっしゃい! 今日上がったばかりのぴっちぴちの魚が安いよー!」

「野菜はいらんかねー?」

「喉を潤す、冷や水はいかがー?」

 日のある内なら状況が違うだろうと思っていたのだが、これはこれでとても話を聞けそうにはない。仕方なく、大通りをさけて、再び長屋通りの方へ移動した。

 長屋通りには、人の笑い声や話し声が聞こえる。吟が歩いていくと、ひょいと、子供が脇道から飛び出してきた。

「わっ!」

「おっとっ!」

 吟は寸でのところで、身をかわした。子供の行く先を追っていくと、井戸端に四人の子供達が集まって、楽しそうに水遊びをしていた。吟は子供達に近付いて、話し掛ける。

「ちょいとあんたさん方、水野さんちって知っているかい?」

「みずのー?」

 男の子の一人が首を傾げると、六つくらいの女の子が向かいの通りを指差す。

「うん、知ってる、知ってる! あのねっ、向こうにね、おっきなおうちがあってね、そこが水野さんちっ!」

「そうかい、ありがとうよ。邪魔してすまなかったね」

 吟は礼を言って、旅館で出た夏蜜柑を女の子に手渡した。女の子は大喜びで、それを受け取る。

「あっ、みかんだ! みんなぁ、みかんもらったーっ!」

「わーっ! おいしそーっ」

 子供達の楽しそうな声に背を向け、吟は女の子が指差した方向へ歩き出した。

 それから程なく、「水野」の表札が掛かった家を、見つけることが出来た。

 なるほど、女の子が言っていた通りずいぶん大きなお屋敷だ。吟の倍近く高い漆喰で出来た壁と、立派な門が家を取り囲んでいる。いかにも金持ちと、いった具合で近寄りがたい雰囲気だ。

 そればかりではなくこの家だけ、他の家とは明らかに違う感じだった。家が大きいというばかりではなく、何か違和感を覚える。この感覚は一体何だろう?

 考えながら、早速吟は門を力強く叩く。

「頼もーうっ!」

 門を叩いてからしばらくして、軋む音を立てながら門が開いた。門を開けてくれたのは、決して美人ではないが、愛敬のある女性だった。歳は、二五歳前後だろうか。愛想良く、吟に訊ねてくる。

「どちら様ですか?」

「初めまして。あたしゃ流しの歌唄いで、吟次郎と申しやす。若草城の公務上の命令をおびて参りやした。栄吉さん、いえ、栄吉様はご在宅ですかい?」

 吟の話を聞くなり、女性は眉をひそめた。

「栄吉に何の用です?」

「出来れば、面会を……」

「申し訳ありませんが、栄吉は床に臥せっております。面会は出来ません」

 明らかに突き放すような、冷たい口調。何故、そんな態度を取るのだろう? そんな彼女の態度を、吟は気にした素振りを見せずにこやかに応対する。

「いやはや、聞いていた通りでさぁ。おっと、そうだ。以前、風見ってぇ 御仁(ごじん)がここに来やしたよね? ほら、この合羽に見覚えありやせんか?」

 吟は、風見から受け取った特徴的な合羽を相手に見せる。すると相手は、僅かに眉尻を上げて頷いた。

「ええ、覚えています」

「実は訳あって、風見が動けなくなりやして。それで、あたしが代わりに言付けを届けることになりやしてね。それでお手数ですが、もう一回その言付けてぇのをお聞かせ願いてぇんです」

「そうですか、そういうことでしたら」

 相手は、ようやく表情を緩めた。

 吟は、水野家の座敷(居間)へ通された。座敷の広さは、ざっと二十畳。体が沈み込むくらい柔らかな座布団の上で、吟はどうにも落ち着かない。

 部屋中を見渡すと、床の間には細かな細工が施された美しい壷が置かれている。その上に掛かっている掛け軸には、雄大な山岳が描かれている。吟は絵に学がないのでわからないが、きっと有名な画家が描いたものだろう。

 部屋中にある全ての物が、美術館などでしか見られない一流品ばかりで、屋敷全体が主の豊かさを物語っているように思われた。

 ややあって、先程の女性が湯飲み茶碗を盆に載せて戻って来た。上に乗っている綺麗な茶碗も、やはり上等品だろう。

「どうぞ、粗茶ですが」

「頂きます」

 吟は会釈をして、高直(こうじき)(=高価)そうな茶碗を慎重に持ち上げ、茶をすすった。熱すぎず、ほど良い温度で飲みやすい。苦味の中にも甘さと旨さが相まって、心が和む青い芳香が鼻腔をくすぐった。これも、さぞかし良い茶に違いない。

 女性が座るのを見計らって、吟は口を開く。

「改めまして。あたくしは、流しの吟ってぇケチな野郎です。失礼ですが、貴女様は?」

「私は、おゆきと申します」

 彼女、おゆきは微笑を浮かべて小さく会釈した。吟も軽く会釈し、苦笑しながら訊ねる。

「それで、栄吉様のことですけど、詳しい話をお聞きしてもよろしいんで? いやぁ、あたくしゃ無知なもんで、栄吉様のことをとんと存じやせんので」

「栄吉は、私の義理の弟です。五年前、栄吉は我が家に孤児として、引き取られました」

「孤児? 栄吉様は、若草城のお世継ぎだったのでは?」

 驚きながら吟が問うと、おゆきは目を伏せる。

「弟も、そのことは知っています。聞く所によると、生まれつき病弱だったそうです。今も、離れの自室で床に臥せっています」

「生まれつき?」

 そういえば、風見が「先天的な病気」と言っていた。吟が聞き返すと、おゆきは悲しそうに言葉を紡ぐ。

「なんでも、近親結婚が続いたことによって起こる病気だとか。こういうことは、大名達にとっては珍しいことではないそうで。弟は、そんな馬鹿げた誇りの為に生まれた被害者です」

「なるほど。その所為で、栄吉様はこちらに引き取られたんですかい?」

 おゆきは、小さく首を横に振る。

「いえ。弟は十六まで、人知れず若草城の離れで育てられたそうです。妹君の菊姫様とは、大層仲が良かったそうですが」

 おゆきは一旦、言葉を切った。膝の上に置かれた拳が、怒りの為かはたまた悲しみの為か、小さく震えている。

「五年前、菊姫様はたちの悪い感染病に(かか)られたそうです。下手すれば、死にいたるような。それは弟から感染したのではないかと、疑われました」

「まさか!」

「菊姫様を殺そうとしたとあらぬ噂を立てられ、国から追放されたのです」

 それを聞いた吟は、酷くやるせない気持ちになった。

「そんな……。不可抗力じゃねぇですかい」

「ですが、それで弟は孤児となったのです」

 おゆきは一口、茶を飲んで続ける。

「それからしばらくして、感染源は弟でないことが発覚しました。『かつて一度として感染病の類いに罹ったことはなかった』と、弟のかかりつけ医が証言したそうです」

「では、無罪放免となったんですね」

 嬉々として聞き返して、はたと気が付く。

「って、はて? でしたら、何でまだこちらにいらっしゃるんですかい?」

「答えは簡単。迎えは来なかった」

 おゆきの口調が、唐突に変わった。それは、堪え切れない怒りを露わにした声だった。吟は、机に激しく両手を着いて身を乗り出した。

「何故ですっ? 疑いは晴れたのにっ!」

「大名なんて、冷たいものよっ。一度追放になった人間なんて、いらないのよ。病弱で今にも死にそうな、お世継ぎもね。莫大(ばくだい)な治療費が掛かるし、良からぬ噂を立てられるもの」

 おゆきに諦めの表情で言われ、吟は悲しくなった。自分達の勝手な解釈で面白半分に騒ぎ立てる、そんな人間はこの世の中には五万と(ごまんと)(=たくさん)いる。それを知っている吟は座布団の上に座り直し、唇を強く噛み締めた。おゆきは、ゆっくりと首を横に振る。

「でも、どんなに治療費が掛かっても、どんなに良からぬ噂を立てられようとも、投げ出すことなんて出来ない。血は繋がってなくても、大事な家族だもの」

「家族は、裏切らないものでしょうか?」

「何ですって?」

 冷淡な吟の呟きに、おゆきは驚いて聞き返した。吟は静かな口調で言う。

「家族でもいがみ合う者達がいる。時に兄弟間で、殺し合いをすることもある。『気に食わないから』、『邪魔だから』という理由だけで、血が繋がった我が子を殺すこともありやす」

「何が言いたいのっ?」

 おゆきが苛立った様子で声を荒げたが、吟は淡々と答える。

「家族だからというだけで、守れるもんなんざ(たか)が知れているってぇ話でさ」

 おゆきは物凄い形相で、吟を睨んだ。そんな彼女を、吟は真っ直ぐに見つめる。

「あたしの家族は、そうだったんで」

「どういうこと? あなたの家族って?」

 おゆきは腕を組んで、吟に話を促した。おゆきの厚意に甘えて、吟はぽつりぽつりと語り始める。

「あたしの家は、大名の足元にも及びやせんが、それなりの地主でした。ある日、家長であった祖父が、流行り病で寝たきりになりやしてね。その際、誰が面倒を看るかで揉めに揉めやした」

 吟は手の中の茶碗に、視線を落とす。艶やかな茶碗の底に、吟の顔が映る。

「結局、誰も面倒を看ようとはしなかったんでさ。血が繋がった家族なのに。さすがに見かねて、あたしが祖父の面倒を看ることにしたんですがね。それからほどなく、祖父は亡くなりやした。後には、莫大な遺産が残りやして。あたしゃ『均等に分配しよう』と、持ち掛けやした。が、それでは誰も納得しなかった」

 机を挟んで、向かいに座ったおゆきは、じっと黙して身の上話に耳を傾けている。吟は、深々とため息を吐いた。

「後は、散々でした。家庭崩壊ってぇのは、きっとああいうのをいうんでしょうや。遺産をめぐって、荒れやした。家族だから、家族じゃなければあんなことは起こらなかったんじゃねぇかってぇ、思うんでさ」

 ふっと、吟は顔を上げて遠い目をした。それから、苦笑を浮かべておゆきに謝罪する。

「いやはや、すいやせんね。つまらねぇ話を、つい長々と」

「いえ」

 おゆきは、悲しげに笑う。

「苦労なさったのね?」

「まぁ、それなりに」

「どうして、急にそんな話を?」

 おゆきの問いに、吟は照れ臭そうに笑ってうつむく。

「何で、ですかねぇ? 栄吉様の話を聞いていたら、急に思い出したんでさ」

「吟さん、でしたっけ?」

「へぇ」

 名を呼ばれて顔を上げると、おゆきは優しく微笑んでいた。

「栄吉に会って行く?」

「よろしいんですかい?」

「構わないわ。栄吉も、たまには外の人とも話がしたいと思うし。もし良ければ、弟が元気になるような歌でも歌って頂ける?」

 おゆきの願いに、吟は微笑み返す。

「構いやせんぜ。でもその前に、お茶をもう一杯頂けやすかい?」

「ええ、喜んで」 

 おゆきは頷くと、吟から茶碗を受け取り、盆の上へ載せた。


   第三章 瀕死の男性


 吟は、水野邸の離れに案内された。本館に比べて別館は、全く雰囲気が違う。まるで、隔離病棟のような佇まいだ。この家を見た時の違和感は、この所為だったのだと今更ながら気付く。

「ここはね、元々一戸建てだったのを、栄吉の為に庭を整地して、離れを増設したのよ」

 どうやら別館には、栄吉の自室しか存在しないらしい。階段を登って二階へ上がると、一部屋しかない戸をおゆきが軽く叩く。

「栄吉、入るわよ?」

 遠慮がちに声を掛けた後、間を少し取ってから戸を開く。

「具合はどう?」

「……」

「そう、それは良かった」

 先程とはうって変わって、弟の前では本当に優しく弟を労わる口調だ。

 おゆきの後ろから部屋に入ると、そこは真っ白な世界だった。贅沢にも、部屋を覆い尽くすかのような、巨大な白木造りの本棚が立っていた。本棚には、あらゆる種類の本が詰まっている。枕元には、読みかけの本が開かれていた。

 布団には、男性が仰向けに横たわっていた。二一歳だと聞いていたのだが、成人男性としてはあまりにも小さい。明らかに病で痩せ細ったと思われる、脆弱な体。皮膚も髪も、病んだ色をしている。落ち窪んだ目は、先日会った風見と同じ橙色だった。はて? と、吟は首を傾げた。  

 この方が菊姫様の兄上様で、元若草城のお世継ぎだった栄吉様か。

「栄吉、今日はお客さんがお見舞いに来てくれたのよ。こちら、吟さんよ」

「流しの歌唄いで、吟次郎と申しやす」

 おゆきは栄吉に、吟を紹介してくれた。吟は布団の横へ近付いて、栄吉に握手を求める。

「……」

 栄吉が何かを喋ったようだったが、吟の耳にその声は届かなかった。

「あの、何て言ったんですか?」

 左斜め後ろに移動したおゆきに尋ねると、彼女はやんわりと言う。

「『こちらこそ』って、言ったのよ。あ、弟は握手が出来ないの。本当に体調が良い時しか、動けないから」

「そうですかい」

 吟は気まずくなって、差し出した手を下ろした。病人の前では普段と勝手が違うから、どうにも動き辛い。がちがちに緊張しながら、おゆきに目で合図を送る。彼女はそれに気が付いて、小さく笑った。

「それでも、今日は気分が良いそうよ」

「それは何よりで」

「……」

 おゆきは栄吉の言葉を聞くと、吟に向かって言う。

「ああ、気付かなくってごめんなさい。吟さん、今座椅子を持ってくるわ」

「いえ、お構いなく」

 おゆきがいなくなったら、栄吉とふたりきりになってしまう。吟が慌てて止めようとしたが、おゆきはさっさと部屋を出ていってしまった。

 後に残されたのは、声の小さな病人とそれを聞き取れない吟のふたりだけ。障子が少し開いていて風は入ってくるものの、窓際に屏風が置かれていて、部屋は薄暗い。ふたりになったら、益々暗く重苦しく感じる。その沈黙が苦しくて、待っている時間がとても長く感じられた。どうにも気まずくて、何か喋ろうかと思ったが、相手の声が聞き取れないことを思い出してやめる。幸い、待っている間に栄吉は何も言わなかった。吟が緊張しているのを察したのだろうか? いや、もしかすると、人見知りする性質(たち)なのかもしれない。

「お待たせ」

 しばらくして、おゆきが木製の座椅子を二つ持って戻って来た。椅子は結構な重さがあるように見えるのに、彼女は軽々と持っている。意外と力持ちなのかもしれない。

 良く見ると、まくられた腕は痩せている割に、しっかりとした無駄のない筋肉が付いている。鍛えているのだろうか? 小動物のように愛敬があるのに、並んでみると意外とたくましい女性だった。

「どうかした?」

「いえ」

 視線を感じたのか、おゆきが小首を傾げながら尋ねてきた。吟は、何ごともなかったかのような顔で小さく首を横に振った。おゆきは座椅子を吟に勧めてくる。

「はい、どうぞ座って」

「ありがとうございます」

 礼を言って腰を下ろすと、座椅子は小さく軋んだ音を立てた。吟が座ったのを見計らって、おゆきが明るい声で提案する。

「そうだっ。せっかく来て頂いたんだし、何か歌って貰いましょうよっ。吟さん、お願い出来るかしら?」

「はい、お好みの曲がありやしたら、何なりとおっしゃって下せぇ」

「……」

 吟は、常に持ち歩いている三味線を構えた。すると栄吉が、もそもそと何か喋ったので、おゆきはそれを吟に伝える。

「『何でも良いから、歌ってみせて欲しい』って」

「分かりました、それでは」

 吟は三味線を弾き、病人にも優しいゆったりとした旋律を唄い上げる。

「信じる心、生きている喜び、愛することの素晴らしさ、そして今という幸福」

 そんな歌詞の歌を唄い終わると、おゆきは笑顔を浮かべて拍手してくれた。

「流石は歌唄いね、心に染み入るようだわ」

「……」

「弟も『良かった、凄かった、感動した』って、言っているわ」

 吟は栄吉の表情を読み取ろうと、顔を覗き込む。見れば、顔色は然程良くないものの、わずかに笑みを浮かべている。だが、どこか疲れた笑顔という感じだ。

「栄吉、久し振りに外の人と会って、ちょっと疲れたかな。吟さん、もうそろそろ弟が寝るから部屋を出ましょう」

 おゆきに言われて、吟は慌てて立ち上がって栄吉にお辞儀する。

「この度は、ありがとうございやした。お会い出来て良かったです」

 吟は笑い、再び握手を求めかけて動きを止める。栄吉は握手を出来なかったことを思い出し、出しかけた手を慌てて引っ込めた。

「それでは、失礼しやす」

「……」

「うん、ゆっくりお休み」

 おゆきは弟に笑い掛けると、折り畳みの座椅子を元通りに畳んだ。それを持って、おゆきは吟と部屋をあとにした。

 戸を閉めると共に、おゆきの顔から笑みが消えた。何だか気まずくて、吟は黙って彼女の後を付いて階段を降りた。別館の一階にある、納戸(物置用の部屋)らしき前で、おゆきは立ち止まる。

「戸を開けるから、ちょっと持っててくれる?」

「お安いご用で、……っ!」

 おゆきが戸を開ける少しの間、吟は座椅子を預かった。木製の椅子は、やはり予想通り重かった。恐らく、二つで優に十歳児並の重さがあるだろう。

「ありがとう」

 おゆきは何食わぬ顔でそれをひょいと持ち上げ、中へしまった。吟はただ、驚くばかりだった。

 吟とおゆきは、本館の座敷へ戻ってきた。おゆきは、座敷のふすまと障子をしっかりと閉めると、崩れ落ちるように座り込んた。驚いた吟が慌てておゆきに駆け寄ると、彼女の目に光るものがあった。

「だ、大丈夫ですかい?」

「弟はね、もう長くないの……」

 おゆきは目を伏せたまま、力なく言った。吟はどう声を掛けたらいいか分からず、彼女を見つめながら次の言葉を待った。

「本当よ、お医者様が言っていたわ。もって、あとふた月かもしれないって」

「そんなっ、まだお若ぇのに」

「でも仕方ないわ、それも弟の寿命なら。見たでしょ、あの姿。だから、ぜひ言付けを届けて欲しいの」

 哀願するように、おゆきは言った。その姿が、あまりにも痛々しくて吟は悲しくなった。先程、弟の前では明るくに振舞っていた姿が思い出される。おゆきは本当に、弟の身を案じているのだ。

「分かりやした」

 吟は使い込まれた愛用の筆と、紙を取り出した。

「では、言付けをお預かりしやす。さぁ、どうぞ?」

「ありがとう、ありがとう……」

 おゆきは涙ながらに、感謝の言葉と言付けを懸命に紡いだ。


 吟はまだ日が高いうちに、さざなみ亭へ戻って来た。昨日同様、女将が笑顔で出迎えてくれる。

「お帰りなさいませ、お客様。お仕事の方はいかがでした?」

「いやぁ上々ですぜ。上手くすれば、明日にもここを出られるかもしれやせんや」

 吟が言うと、女将は微妙に顔を引きつらせた。相変わらず表情を隠すのが下手な人だ。考えていることが全て顔に出てしまう、正直者なのだろう。こんなことでこの先、やっていけるのだろうかと、人ごとながら少々心配になった。

 夕餉の前にひとっ風呂浴びようと、吟は旅館内にある大浴場へ足を運んだ。

 大浴場は、「大」と付くだけあって結構な広さがある。大小五つの石風呂があり、十五人は一緒に使っても大丈夫な流し場がある。それに、吟の大好きな蒸し風呂もある。

 湯はまごうなき、源泉掛け流しだそうだ。効能は、打ち身、ねんざ、切り傷、火傷、痔、冷え性、疲労回復など。旅人には打って付けの温泉だ。

 実は、吟は無類の風呂好きだ。暇さえあれば、一日中風呂に入っているかもしれない。ちなみに、温度は問わない。熱いのも、適温も、ぬるいのも、水風呂も大好きだ。

 大浴場には、たくさんの観光客が見られた。吟は彼らと浴槽に浸かっているうちに、仲良くなっていた。やはり裸の付き合いというものは、良いものだ。

「へぇ、あんた南国から来たんか。わしゃ、この島の北から来たんじゃよ」

 頭部が輝かしい爺さんは、浴槽内で噴き出す汗を手拭いで拭きながら言った。吟も浴槽に浸かり、爺さんの横に並ぶ。

「あたしゃこれから、若草城の城下町へ行くんでさ」

「ほぉー、そりゃ大変だ。あそこは妖魔が多いからの、一人旅は危険じゃ」

「以前、一度行ったことがありやす。確かに一人じゃ、おっとっ」

 頷いた時、手拭いで頭上に纏めていた髪が落ちかけたので、慌てて押さえた。

「いいのう」

 それを見た爺さんが、小さく呟く。吟は気の毒だったので、聞かなかった振りをした。ややあって、爺さんが提案する。

「そうじゃっ。ここから先に『水澄し亭』という、用心棒や旅人が良く出入りしている旅籠屋(はたごや)(=宿屋)がある。そこで用心棒の一人や二人、雇って行った方がいい」

「『みずすましてい』ですかい?」

「さよう。あそこには仕事に飢えた用心棒どもが、うようよおるでな。一声掛ければ、請け負うてくれるじゃろうて」

「なるほど、ご親切にどうも。早速明日にでも、行ってみまさぁ」

 吟は礼を言って、浴槽から立ち上がった。吟の体(特に下半身)を見て、爺さんがまたしても。

「いいのう……」

 と、呟いたが、吟は聞かなかった振りをした。

まだ一部ですが、既に残念展開が見えています。ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。もしよろしければ、続きも読んでやって頂ければ、幸いに存じます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ