葦沢亀執筆 第一話
「言葉」
それは、誰かの魂の語り部。
それは、誰かの差し伸べた手。
それは、刃をも凌駕する兇器。
それは、無限の可能性へと導く神秘の扉。
俺の右手は歩みを緩めず、脇目もふらず、白い紙の上に黒く細い、それでいて強さを秘めた線を残していく。揺れてはね、円弧を描き、線は線と交錯し、点は線に寄り添う。やがて、その線と点の集塊は、形を成したその瞬間から意味を創出し、意味の連鎖は唯一つの事象を特定する。
俺はこの精巧精緻な、撥条時計に似たシステムが気に入っている。もちろん、この簡単かつ複雑なシステムを完全に使いこなせるはずもなく、掌の上に把握しているわけでもない。
しかし、だからこそ“言葉”は素晴らしい。
そんなことを取りとめも無く考えている俺は今、人生という文脈において一つの転換となるであろう一日を過ごしている。つまり、負の遺産を処理することを半永久的に運命づけられた少年少女の監獄、社会の芥箱への、嬉しい嬉しい入学式を迎えてしまったのである。
校長と来賓がとりあえずの体面を保つ、普通の学校と何ら変わりない入学式を終えた俺は、校舎の屋上のベンチに座り、まだ真新しい無機質な建築物群を眺めながら、徒然なるままに浮かんでくる言葉を書き留めていた。
え? 何でHRに行かないで、そんなことをしているかって? そりゃ決まってる。平和、平穏、平凡、平坦な人生を送ってきたはずの俺が、突然の能力者宣告を受けてこんな奇々怪々な学校に入学させられ、挙句クラス分けの掲示に名前が無いなんて、神様からのイジメ以外の何物でもない。俺は別に悪いことは……まぁ、幾つかしたけれど……信号無視とかだから、流石にこの仕打ちは無いだろ! きっと今頃、ごく普通に段取りを踏んでいたら、自己紹介でもしているに違いない。今すぐにでも事務室に行けば「どこどこのクラスですよ」と対応してくれるのだろうけれど、何か負けたみたいで気分が悪いから行かなかった。
俺は再び浮かんだ言葉を、まだページがヨレていない手帳に走り書きする。入学を記念して「スケジュールだけはキチンと取りなさい」と祖父から貰ったものだ。厳格な祖父らしい贈り物だったが、珍しくデザインは今風で、コバルトブルーの表紙は素直に気に入っている。きっと姉か誰かが協力したに違いない。こんな所に閉じ込められたらもう二度と会えないと、口には出さずとも悟っていたのだろう。
「芥」
芥箱に捨てられた紙屑に、居場所が無いなんて理不尽じゃないか。
収集車が持って行ってくれないゴミ袋の気持ちを、誰か分かっているのかい?
だって本人が悪いわけじゃないんだぜ。
他に居たい場所があるのにさ。
ただの八つ当たりだな、と自分を笑っていると後ろから声がした。
「君はさっきから、何をしてるのかな?」
思わず振り返ると、いや振り返ろうとすると、まさに顔の真左に、至近距離に、所謂キスする3秒前くらいの、そんな位置に俺を覗き込む女子の顔があった。
瞬時瞬間、呼吸が止まる。
綺麗な瞳。
端整な顔立ち。
白い肌。
春の香り。
自信を持って宣言させて頂こう。眼の前にいる生物は美少女だ、間違いない。
それはさておき。何なんだ、この状況……!? こういうの、慣れてないぜ? まぁ、慣れてても困るが。
無言でただ見つめ合う状況がどのくらいの間続いたか、ふと彼女の方から視線を外した。助かった、けどちょっと残念。
……おや? その彼女の瞳は何かへ向かっている。
「ふふ~ん。どうやら、その手帳に秘密がありそうだね」
俺は咄嗟に、右手に持っていた手帳を畳んで後ろに隠す。だが、もう遅い。
「コラ! 見せなさい、流峰仁君!」
「え……あ、ちょっと!?……」
ベンチに膝立ちすると、ちょうど俺に抱きつくような格好になって、まるで無邪気な猫のように手帳へと手を伸ばしてくる。女子の匂いが、ふわっと顔にかかる。左肩を掴む柔らかい手の感触が、服越しに伝わって来る。全身に走るムズムズした感覚。
これは夢か!? 夢なのか!? こんな夢を見る程、俺は頭が腐っちまったっていうのか!? ……でも、覚めないと良いなぁ。
そう言えば、何かオカシイような……!?
「ってか、何で俺の名前知ってるんですか!? 初対面……ですよね?」
アブナイ、アブナイ。
危うく大事な何かを失う所だった。
「ん? あぁ、そうそう」
彼女は何かを思い出すと、ベンチにちゃんと座って、ニッコリ微笑みながら言った。
「君ね、私の席の隣だから」
……??
「ハァ」
思わず、炭酸が抜けたコーラみたいな声が出てしまった。
「それでね、私は君のクラスのクラス会長になったのさ!」
ちょ、ちょっと待ってくれ。話を整理しよう。俺は、初対面ですよね?と聞いた。それに対して、彼女は俺のクラスの会長で、しかも隣の席だと言った。
断言しよう。一切分からん。支離滅裂だ。まだピカソの絵を理解する方が早い気がする。が、状況を考えれば、察しがつかないわけではない。
「えーっと、それはつまり、行方不明の男子生徒がいるから、クラス会長になったあなたが探すように頼まれた、とかそんな感じですか?」
「そうだよ~! 最初からそう言ってるじゃないか、君~」
いや~、言ってないですよ~。
「じゃあ、行っくよ~!」
即時即刻、彼女は俺の腕を引っ張った。どうやら教室へ連れていくつもりらしいが、予想外どころか的外れな不意打ちを受けた俺は、瞬時にこれから起こる不幸を感じ取った。生まれ持った身体能力、そして人間の関節の可動範囲を冷静に考えると、俺はこのままベンチから落ちるしか選択肢は無い。
「ちょっ、待って、君っ」
間一髪。俺の重心がベンチから空中へ移る直前、彼女の動きがピクリと止まった。ただ、この体勢はこれでキツイ。
「ちょっとぉ」
あれ? 何だか、怒っているような? なんか口調が変わった気がするんですが、私が何か粗相を致しましたでしょうか?
「君って呼ばないでくれるかなぁ?」
ってそこかい! さっきから君君呼んでるのはそっちだろうが!
「カルミアって呼んで」
……?? 二度目か。いや、外人じゃないんだから……って、確かに言われてみればハーフっぽい感じも……。
「カ、カルミア?」
「うん。私、夕泉カルミアっていうんだよ。珍しいでしょ」
珍しいと自覚してるなら最初からそう説明してくれ、頼むから。
「あぁ、うん。確かに珍しい、かな」
「でしょ? じゃ、行こっか」
ちょ、脈絡無視すなっ! の前に、お、落ちるっ……。
まさに不幸中の幸い。骨だけは折らずに済み―男子の矜持は潰滅敗走したが―、晴れて俺は机と椅子を確保するに至った。ただまぁ、不幸を免れることは不可能らしい。そこに用意されていたのはVIP待遇、つまり教卓のド真ん前の特等席だった。しかもネジの外れた美少女の隣というオマケ付き。誰か買わないか? 今なら安くするぜ?
最後までお読み頂きありがとうございます。
初めまして。
三番手を務めさせて頂きました、葦沢亀です。
皆さんからの率直なご意見、お待ちしております。
「チームカルテット」の紡ぐ4つの物語を、どうぞお楽しみに!
(ちなみに「葦沢」は「あしざわ」と読みます)