『どうやら私の幸せは、少し難しいようです』 第一章
「私と結婚してくれない?」
それが、僕と彼女の最初の会話だった。
もちろん、冗談だと思った。
初対面の相手にそんなことを言われて、真面目に受け取る人間がいるだろうか。
「嫌です」
「即答?」
「考える必要がありますか?」
「ひどいなあ。まだ理由も聞いてないのに」
「理由を聞いたら返事が変わるんですか?」
「たぶんね」
彼女は悪びれる様子もなく笑った。
王都の大図書館。午後の日差しが高い窓から差し込む閲覧室で、僕は見知らぬ少女から結婚を申し込まれていた。
周囲の視線が少し痛い。
できれば、今すぐこの場を離れたい。
「……そもそも、あなたは誰なんですか」
「リゼ」
「それだけですか?」
「うん。あなたは?」
「ノアです」
「じゃあ、ノア。もう一度聞くね」
彼女は机に両手を置き、少しだけ身を乗り出した。
「私と結婚してくれない?」
「嫌です」
「今度は少し考えてくれてもよかったのに」
「何度聞かれても答えは同じです」
リゼは頬を膨らませた。
どうやら、本気で断られたことに不満があるらしい。
もっとも、初対面の相手に結婚を申し込む人間の気持ちなど、僕には理解できなかった。
ただ、一つだけ気になることがあった。
彼女の服装は質素だった。髪も簡単にまとめられていて、装飾品らしいものもほとんどない。
それなのに、言葉遣いや姿勢には、どこか普通の町娘とは違う雰囲気があった。
「……何?」
「いえ」
「今、何か考えてたでしょ」
「初対面で結婚を申し込む人間について考えていました」
「それで?」
「少し変わった人だな、と」
「少し?」
「かなり、に訂正します」
リゼは声を出して笑った。
その笑い声が、静かな図書館によく響いた。
受付の老人がこちらを見ている。
「声が大きいですよ」
「ノアが面白いことを言うから」
「僕のせいですか」
「そうだよ」
彼女はそう言って、僕の向かいの椅子を引いた。
そして、机の上に置かれていた一冊の本に目を向ける。
「それ、何の本?」
「旅行記です」
「どこへ行った人の?」
「北方の雪山を越えて、隣国まで行った商人の記録です」
「へえ。面白そう」
「読むならどうぞ」
「いいの?」
「そのための図書館ですから」
リゼは本を手に取った。
ページをめくる指先は、先ほどまでの冗談めいた態度とは違って、ずいぶん丁寧だった。
「私ね、いつか遠くへ行ってみたいんだ」
「遠く?」
「うん。王都の外。もっと遠く。海の向こうとか、雪山の向こうとか」
「旅行ですか」
「そう。知らない場所を見てみたい」
「危険ですよ」
「またそれ?」
「山には魔物も出ますし、街道だって安全とは限りません」
「だから面白いんじゃない?」
「命を危険にさらしてまで見る景色に、そこまでの価値があるとは思えません」
「ノアは、どこにも行きたくないの?」
不意に尋ねられ、僕は少し考えた。
行きたい場所がないわけではない。
ただ、今の生活に不満があるわけでもなかった。
宿屋の仕事を手伝い、両親と食卓を囲み、空いた時間に本を読む。
それなりに満足している。
「いつかは、行ってみたいですね」
「じゃあ、一緒に行こうよ」
「どうしてそうなるんですか」
「一人より二人のほうが楽しいでしょ?」
「相手によります」
「じゃあ、私なら?」
「まだ判断できません」
「ふふ。じゃあ、これから判断してよ」
彼女は本を閉じた。
そして、何かを思いついたように顔を上げる。
「ねえ、ノア。明日もここに来る?」
「たぶん」
「じゃあ、また会おう」
「約束はできませんよ」
「どうして?」
「僕にも予定があります」
「そっか。じゃあ、私が待ってる」
そう言って、リゼは立ち上がった。
借りた本を元の場所へ戻し、軽く手を振る。
「またね、ノア」
「ええ」
彼女が閲覧室を出ていく。
僕は開きかけていた旅行記に目を戻した。
結局、その日はほとんど読み進められなかった。
帰り道、王都の鐘が午後の時刻を告げていた。
宿へ戻ると、母が帳簿を整理していた。
「おかえり。今日は遅かったわね」
「少し話し込んでいました」
「お友達?」
「今日知り合った人です」
「女の子?」
母の手が止まる。
「……どうして分かるんですか」
「顔に書いてあるもの」
「どんな顔ですか」
「別に。いつも通りよ」
母は楽しそうに笑い、再び帳簿へ視線を戻した。
父は厨房の奥から声をかけてくる。
「ノア、手が空いてるなら食器を運んでくれ」
「分かりました」
いつも通りの夕方だった。
いつも通りの仕事。
いつも通りの食事。
そして、いつも通りの夜。
ただ、寝る前に本を開いたとき、ふと彼女の言葉を思い出した。
『一人より二人のほうが楽しいでしょ?』
僕は小さく息を吐いた。
「……変な人だったな」
そう呟いて、灯りを消した。
翌日。
図書館へ行く予定はなかった。
少なくとも、朝食を食べていたときまでは。
しかし、午後になって宿の仕事が早く片づき、気づけば僕は王都の大図書館へ向かっていた。
特別な理由はない。
借りていた本を返すためだ。
それだけだった。
入口をくぐり、受付の老人に会釈する。
閲覧室へ向かう途中、窓際の席に目を向けた。
そこに、昨日の少女がいた。
彼女は僕を見つけると、まるで待ち合わせでもしていたかのように立ち上がった。
「来た!」
「……何をそんなに喜んでいるんですか」
「来ないと思ってたから」
「本を返しに来ただけです」
「はいはい」
リゼは笑った。
「それで、今日は何を読むの?」
「決めていません」
「じゃあ、一緒に探そうよ」
「どうして一緒に?」
「そのほうが楽しいから」
彼女は昨日と同じことを言った。
僕は断る理由を探したが、特に見つからなかった。
「……少しだけですよ」
「うん!」
彼女は嬉しそうに歩き出した。
その背中を追いながら、僕はまだ知らなかった。
彼女がなぜ王都の図書館に通っているのかも。
なぜ、家のことをほとんど話さないのかも。
そして、彼女が僕に結婚を申し込んだ理由も。
それを知るのは、もう少し先のことになる。
* * *
図書館でリゼと会うようになってから、二週間が過ぎた。
最初は偶然だった。
次の日も、その次の日も顔を合わせたのは、単にお互いが同じ時間帯に図書館を利用していたからだろう。
そう考えていた。
しかし、五日目あたりから、僕は少し疑問を抱くようになった。
「ノア、遅い」
「待ち合わせをした覚えはありません」
「昨日、明日も来るって言ったじゃない」
「来るとは言いましたが、何時とは言っていません」
「細かいなあ」
リゼは机に頬杖をついた。
彼女はいつも窓際の席にいる。僕が来ると、まるで当然のように隣の席を空ける。
どうやら、ここを自分の席にするつもりらしい。
「今日は何を読むの?」
「歴史書です」
「また難しそうなものを」
「あなたは何を?」
「地理の本」
「珍しいですね」
「旅に出たいから」
「まだ諦めていなかったんですか」
「諦める理由がないもの」
リゼは本を開いた。
彼女は不思議な少女だった。
興味のあることには驚くほど熱心なのに、興味のないことにはとことん無頓着だった。王都の有名な菓子店を知らないくせに、隣国の地形や古い街道には詳しい。
かと思えば、簡単な計算を間違えることもある。
「……そこ、違いますよ」
「え?」
「数字を読み間違えています」
「あ、本当だ」
「そんなに慌てなくても逃げませんよ」
「誰が慌ててるの?」
「本を押さえる手に力が入っています」
「見ないでよ、そういうところ」
彼女は本を閉じ、僕を睨んだ。
しかし、その顔には怒っている様子がない。
僕たちは、そんな会話を繰り返すようになった。
ある日、リゼが突然、僕の家について尋ねた。
「ノアって、いつも何をしてるの?」
「宿屋の手伝いです」
「宿屋?」
「王都の南通りにある、小さな宿です。大きくはありませんが、両親が経営しています」
「へえ。じゃあ、料理もできる?」
「簡単なものなら」
「すごい!」
「大したことではありません」
「私、料理はあまり得意じゃないんだ」
「それは意外ですね」
「どうして?」
「何でもできそうな顔をしているので」
「それ、褒めてる?」
「半分くらいは」
リゼは笑った。
「じゃあ、今度食べに行ってもいい?」
「宿ですから、客としてなら」
「お客さんとして行けばいいんだね」
「そうですね」
その約束は、三日後に実現した。
宿の扉が開き、母が客を迎える声が聞こえた。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
聞き覚えのある声だった。
厨房から顔を出すと、そこにはリゼが立っていた。
「本当に来たんですか」
「来るって言ったでしょ?」
「冗談かと思っていました」
「ひどいなあ」
母が僕とリゼを交互に見た。
「あら、お知り合い?」
「図書館で知り合ったんです」
「そうなの。ノアがお世話になっているのね」
「いえ、こちらこそ」
リゼは丁寧に頭を下げた。
その仕草は、図書館で見せる自由奔放な態度とは少し違っていた。
母も気づいたのか、わずかに目を細めた。
「お一人?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
母が席へ案内する。
リゼは窓際の席を選び、メニューを眺め始めた。
「おすすめは何ですか?」
「本日の煮込み料理です」
「じゃあ、それにする」
「飲み物は?」
「水で大丈夫です」
注文を取った母が厨房へ戻る。
僕は料理を運ぶ準備をしながら、彼女の様子を眺めた。
リゼは店内を見回していた。
大きな宿ではない。壁の装飾も最低限で、家具にも長年使われた跡がある。
それでも、清潔に保たれた店内には、どこか落ち着いた空気があった。
料理を運ぶと、リゼは目を輝かせた。
「おいしそう」
「ありがとうございます」
「ノアが作ったの?」
「母と一緒に作りました」
「いただきます」
彼女は一口食べた。
そして、少し驚いたように目を見開いた。
「おいしい」
「それはよかったです」
「本当においしい」
「二回言わなくても伝わります」
「だって、おいしいんだもの」
彼女は最後まできれいに食べた。
食後、会計を済ませて帰ろうとした彼女を、母が呼び止める。
「またいらしてくださいね」
「はい。ごちそうさまでした」
リゼは笑顔で店を出ていった。
母はその背中を見送り、僕の方を向いた。
「いい子ね」
「そうですね」
「大切にしなさいよ」
「何をですか」
「お友達を」
「分かっています」
母は何も言わず、再び仕事に戻った。
それから、リゼは何度か宿に来るようになった。
毎回、必ず料理を注文した。
そして、帰り際には母に礼を言う。
彼女が来る日は、母の機嫌が少しよくなった。
父も最初は不思議そうにしていたが、何度か顔を合わせるうちに、すっかり慣れてしまった。
「ノア、お前の友達はよく食べるな」
「そうですね」
「いいことだ」
「何がですか」
「料理を作る側としてはな」
父は豪快に笑った。
そんな日々が続いた。
ある午後、図書館を出た僕たちは、王都の市場へ向かった。
リゼが古い地図を見つけたからだ。
「これ、王都の昔の地図なんだって」
「かなり古いですね」
「今の街並みと比べてみたいの」
「それで市場まで?」
「昔から残っている建物があるらしいよ」
市場はいつも通り賑わっていた。
商人の呼び声、荷車の音、焼きたてのパンの香り。
王都の人々が暮らす音が、通りいっぱいに広がっている。
リゼは地図と実際の建物を見比べながら歩いていた。
「ここ、昔は広場だったんだね」
「今は市場の一部になっています」
「ずいぶん変わったんだ」
「何百年も経てば変わりますよ」
「でも、残っているものもある」
彼女は古い石造りの建物を見上げた。
その建物は今では小さな商店になっていたが、入口の柱には古い王国の紋章が刻まれていた。
「こういうの、好きだな」
「歴史が?」
「ううん。昔の人が見ていた景色を、今の私たちも見ているってこと」
「同じ景色とは限りませんけどね」
「そういう細かいところがノアらしい」
リゼは笑った。
そのとき、通りの向こうで子どもの泣き声が聞こえた。
人混みの中で、小さな男の子が立ち尽くしている。
「どうしたの?」
リゼが駆け寄った。
男の子は涙を浮かべ、何かを探すように周囲を見回していた。
「お母さんが……」
「迷子?」
リゼはしゃがみ込み、目線を合わせた。
「大丈夫。お姉さんたちが一緒に探してあげる」
僕は周囲を見渡した。
市場の入口付近で、女性が必死に何かを探している。
「あの人じゃないですか?」
リゼが顔を上げる。
女性は男の子を見つけると、すぐに駆け寄ってきた。
「よかった……!」
男の子を抱きしめ、何度も頭を撫でる。
母親は僕たちに深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます」
「いえ、見つかってよかったです」
リゼが答えた。
女性と男の子が去っていく。
リゼはその後ろ姿を見送っていた。
「優しいですね」
僕が言うと、彼女は首を傾げた。
「普通のことをしただけだよ」
「そうですか」
「困っている人を見つけたら、助けたくなるでしょ?」
「状況によります」
「もう。ノアは本当に現実的」
彼女は少し不満そうに頬を膨らませた。
その後、僕たちは市場を歩き続けた。
帰り道、リゼが小さな焼き菓子を買った。
一つは自分で食べ、もう一つを僕に差し出す。
「はい」
「何ですか?」
「お礼」
「何の?」
「今日、付き合ってくれたから」
「僕も見たかったので」
「じゃあ、見たかったお礼」
「意味が分かりません」
「いいから」
僕は受け取った。
焼き菓子は、ほんのり甘かった。
その日の夕方、別れ際にリゼが言った。
「また一緒に出かけようね」
「予定が合えば」
「それ、断ってないってことだよね?」
「どう解釈するかは自由です」
「じゃあ、そう解釈する」
彼女は満足そうに笑った。
その笑顔を見ていると、なぜかこちらまで少し気分が軽くなる。
僕はそれを、単に彼女がよく笑うからだと思うことにした。
* * *
それから一か月ほどが過ぎた。
リゼと過ごす時間は、いつの間にか僕の日常の一部になっていた。
図書館で本を読み、市場を歩き、時には宿屋で食事をする。
特別なことなど何もない。
それでも、彼女と会う日は少しだけ時間が早く過ぎるように感じた。
ある日の午後、図書館へ向かう途中で、僕は珍しくリゼの姿を見つけられなかった。
窓際の席にも、地理書の並ぶ棚にもいない。
受付の老人に尋ねてみる。
「今日は、あのお嬢さんは来ていませんか?」
「おや。あの子なら、今日は見ていないね」
「そうですか」
「寂しいのかい?」
「本を読む場所が空いているだけです」
「そういうことにしておこう」
老人は楽しそうに笑った。
僕は適当な本を一冊選び、窓際の席に座った。
いつもなら、向かい側から何かしら話しかけてくる声がある。
今日は静かだった。
静かな方が読書には向いている。
そう思ってページを開いたものの、どうにも集中できなかった。
結局、一時間ほどで図書館を出た。
帰り道、宿屋へ戻る前に市場へ寄る。
理由はなかった。
ただ、何となく足が向いただけだ。
市場の入口を通り過ぎようとしたとき、聞き覚えのある声がした。
「だから、今日は帰れないって言っているでしょう?」
少し離れた路地の入口。
リゼが、見知らぬ男と向かい合っていた。
男は仕立てのよい服を着ている。腰には装飾の施された剣を下げ、態度には隠しきれない苛立ちがあった。
「お嬢様、これ以上は困ります」
「私だって困ってるの」
「旦那様がお待ちです」
「お父様には後で話すから」
「後では済みません」
男が一歩近づく。
リゼは一歩も引かなかったが、いつもの明るい表情は消えていた。
僕は少し迷った。
事情も分からないのに口を出すべきではない。
それに、あの男はどう見ても僕より立場が上だ。
面倒事に関わる理由はない。
……ないはずだった。
「リゼ」
気づけば声をかけていた。
二人がこちらを見る。
リゼの表情が一瞬だけ変わった。
「ノア?」
「探しましたよ」
「え?」
「図書館にいなかったので」
男が僕を睨む。
「君は何者だ」
「宿屋の手伝いをしています」
「質問に答えろ」
「彼女の知り合いです」
男は僕とリゼを見比べた。
「お嬢様、この者は?」
その言葉に、僕は眉を動かした。
お嬢様。
聞き間違いではない。
男は確かにそう呼んだ。
「……知り合いよ」
リゼが答える。
「それだけでは説明になりません」
「今はいいでしょう」
「よくありません。旦那様に知られれば――」
「もう分かったから!」
リゼの声が路地に響いた。
男は口を閉じた。
彼女は少しだけ俯き、それから僕を見た。
「ごめん。今日は帰るね」
「そうですか」
「また明日」
彼女はそう言って、男と一緒に歩き出した。
数歩進んだところで、振り返る。
「ノア」
「何ですか?」
「今日のこと、忘れて」
僕は答えなかった。
リゼは少し困ったように笑い、今度こそ去っていった。
その後ろ姿が人混みに消えるまで、僕は路地に立っていた。
お嬢様。
旦那様。
それが何を意味するのか、考えるまでもなかった。
彼女は貴族なのだ。
おそらく、それもかなり身分の高い。
僕は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
今までの言動を思い返せば、納得できる部分はあった。
妙に丁寧な立ち振る舞い。
世間知らずなところ。
身につけているものは質素でも、言葉の端々に感じる育ちのよさ。
ただ、それ以上に気になったのは、彼女が最後に見せた表情だった。
忘れてほしい。
あれは、秘密を知られたくないというだけの顔ではなかった。
何かを失うことを恐れているように見えた。
翌日、リゼは図書館に来なかった。
その次の日も。
宿屋にも姿を見せない。
僕は何度か図書館へ足を運んだが、窓際の席は空いたままだった。
老人に尋ねても、答えは同じだった。
「今日は見ていないね」
五日目の夕方。
僕は図書館の階段を下りながら、彼女に会えないことを少し気にしている自分に気づいた。
別に、友達が一人来なくなっただけだ。
それ以上のことではない。
そう考えながら外へ出る。
空は薄い橙色に染まり、王都の鐘が夕刻を告げていた。
「ノア!」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
図書館の正面に、リゼが立っていた。
以前と同じ質素な服装だった。
ただ、少し疲れているように見えた。
「……久しぶりですね」
「うん」
「何かあったんですか?」
「ちょっとね」
「そうですか」
僕はそれ以上聞かなかった。
彼女も何も話さない。
しばらく沈黙が続いたあと、リゼが口を開いた。
「怒ってる?」
「何にですか?」
「私が貴族だって黙ってたこと」
「怒ってはいません」
「本当に?」
「僕に言う義務はなかったでしょう」
リゼは目を伏せた。
「でも、ずっと隠してた」
「聞かなかったので」
「聞かれたら、答えてたと思う?」
「それは分かりません」
「……そっか」
彼女は困ったように笑った。
僕は彼女の隣に並ぶ。
「歩きませんか」
「いいの?」
「ここで立ち話をするのも疲れるでしょう」
「うん」
僕たちは王都の通りを歩き始めた。
しばらくして、リゼがぽつりと言った。
「私、貴族の生活が好きじゃないの」
「そうなんですか」
「朝から勉強。食事の作法。社交の練習。誰と会うかも、何を着るかも、何を話すかも、全部決められている」
「大変ですね」
「それだけじゃないよ。私が何をしたいかより、誰と結婚するかの方が大事みたい」
「結婚相手まで決められるんですか」
「家のためになる相手を選ぶのが普通なんだって」
リゼは道の先を見つめた。
「私には、まだ会ったこともない人との結婚話があるの」
「それは……」
「嫌なの」
彼女ははっきりと言った。
「私は、自分で決めたい。どこへ行くかも、誰と一緒にいるかも。自分の人生くらい、自分で選びたい」
「それで図書館に?」
「うん。あそこにいる間だけは、誰かの娘じゃなくて、ただの私でいられるから」
僕は少し考えた。
「それなら、図書館に来ればいいじゃないですか」
「簡単に言うね」
「来られない理由があるんですか?」
「見張りがいるの。今日も、ここまで来るのにずいぶん時間がかかった」
「さっきの男性ですか」
「そう。家に仕えている人」
「心配しているんでしょう」
「分かってる。でも、心配と束縛は違うと思う」
彼女は少しだけ歩く速度を落とした。
「ノアは、私のことをどう思う?」
「どう、とは?」
「貴族だって分かったら、何か変わる?」
僕はすぐには答えなかった。
彼女が貴族であることは、確かに僕たちの関係を変えるかもしれない。
今までのように気軽に市場へ出かけることも難しくなるだろう。
彼女の家族が僕をどう見るかも分からない。
それでも。
「リゼはリゼでしょう」
彼女が足を止めた。
「それだけ?」
「他に何か必要ですか?」
「……ううん」
彼女は俯いた。
それから、いつもの笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
その声は、いつもより小さかった。
僕たちは、いつもの丘へ向かった。
王都の外れにある小さな丘。
そこからは城壁と、その向こうに広がる街並みを一望できる。
夕暮れ時になると、街の灯りが一つずつ点いていく。
僕たちは何度かここを訪れていた。
特別な場所というわけではない。
ただ、図書館や市場と違って、人の目を気にせず話せる場所だった。
「ねえ、ノア」
「何ですか?」
「いつか、本当に旅に出ようよ」
「まだ諦めていなかったんですか」
「諦める理由がないもの」
「北の雪山ですか?」
「それもいいね。海にも行きたい。隣の国にも行きたい。できれば、王国の端から端まで全部」
「ずいぶん欲張りですね」
「人生は一度きりなんだから」
リゼは空を見上げた。
「見られるものは、全部見ておきたい」
「全部は無理ですよ」
「じゃあ、できるだけ」
「それなら、いいかもしれません」
リゼは嬉しそうに笑った。
「約束ね」
「まだ約束とは言っていません」
「じゃあ、今から約束にする」
「勝手ですね」
「そういうところが私のいいところでしょ?」
「自分で言いますか」
二人で笑った。
その日の帰り道、リゼは久しぶりに宿屋へ寄った。
母は彼女の顔を見るなり、ほっとしたように微笑んだ。
「あら、久しぶりね」
「ご無沙汰しています」
「最近、来ないから心配していたのよ」
「少し忙しくて」
「そう。今日はゆっくりしていってね」
リゼは夕食を食べていった。
父もいつも通りに接していたが、彼女の身分に気づいていないわけではないようだった。
食事の後、父が僕を厨房へ呼んだ。
「ノア」
「何ですか?」
「あの子は、身分の高い家の娘なんだな」
「知っていたんですか?」
「客商売をしていれば、服装や言葉遣いで分かることもある」
「そうですか」
「お前は、あの子とどういう関係なんだ?」
「友達です」
父は少し黙った。
「そうか」
「何か問題がありますか?」
「問題というより、心配だ」
「何を?」
「身分の違いは、お前が思っているより大きい」
「分かっています」
「分かっているならいい。ただ、あの子がここへ来ることを嫌がる家もあるかもしれない」
「それでも、本人が来たいなら止める理由はないでしょう」
父は僕を見つめた。
そして、小さく笑った。
「お前らしいな」
「どういう意味ですか」
「昔から、妙なところで頑固だ」
父はそれだけ言って、鍋の火を弱めた。
その夜、リゼは帰り際に母へ何度も礼を言った。
そして、扉の前で僕を振り返る。
「また来てもいい?」
「もちろんです」
「本当に?」
「客としてなら」
「もう。そういうところだよ」
彼女は笑って、夜の通りへ消えていった。
それから数日間、リゼは再び図書館へ通うようになった。
以前のように自由に出歩けるわけではないらしい。
時間は短くなり、帰る時刻も決められていた。
それでも、会える日はできるだけ一緒に過ごした。
僕たちは本を読み、話をし、時には何も話さず同じ景色を眺めた。
ある日、リゼが一冊の本を持ってきた。
表紙には、古い地図が描かれている。
「これ、見て」
「何ですか?」
「王国西部の海岸線の地図。昔のものらしいよ」
「かなり古いですね」
「このあたりに、小さな港町があるでしょう?」
「ありますね」
「いつか行ってみたい」
「海が見たいんですか?」
「うん。王都から見える海じゃなくて、海の近くで暮らしている人たちの生活を見てみたい」
「ずいぶん具体的ですね」
「だって、旅ってそういうものでしょう? 景色を見るだけじゃなくて、そこで暮らしている人たちのことも知りたい」
僕は地図を覗き込んだ。
港町までの道のりは、馬車で十日ほど。
途中には森があり、小さな村がいくつかある。
「行くなら、春がいいでしょうね」
「どうして?」
「冬は道が凍ります。雨季は川が増水する。春なら比較的移動しやすいはずです」
「もう行くつもりで考えてる?」
「計画を立てるだけなら自由です」
「ふふ。じゃあ、春に行こう」
「まだ決めていません」
「私は決めたよ」
「一人で行くんですか?」
「ノアと」
彼女は当たり前のように答えた。
僕は何も言わなかった。
窓の外では、王都の鐘が鳴っていた。
その音を聞きながら、僕は地図の端に記された港町の名前を目で追った。
いつか、そこへ行く日が来るのだろうか。
その頃には、僕たちは今より少し大人になっているのかもしれない。
そんなことを考えた。
その未来が、どれほど難しいものなのかも知らずに。
* * *
春になったら、海を見に行こう。
そう約束してから、季節は少しずつ移り変わっていった。
アルセリア王国の春は、思っていたよりも遅い。
冬の名残を残した風が王都の石畳を吹き抜け、街路樹の枝には、ようやく小さな芽が顔を出し始める。市場には春野菜が並び、仕立て屋の店先からは冬物の服が消えていった。
僕の日常も、基本的には変わらない。
朝は宿の掃除を手伝い、昼は客の相手をして、手が空けば図書館へ向かう。夕方には両親と夕食を取り、夜は翌日の仕込みを確認する。
ただ、一つだけ変わったことがある。
「ノア!」
図書館の入口から、聞き慣れた声が飛んでくるようになった。
「……図書館では静かに」
「まだ何もしてないじゃない」
「今の声で、もう十分目立ってる」
「それは困ったわね」
そう言いながら、リゼはまったく困った様子もなく僕の向かいに座った。
彼女は最近、図書館に来ると必ず僕を探す。
最初の頃は偶然会うことが多かったが、今では僕が来る時間を覚えているらしい。僕も彼女が来る時間を、いつの間にか気にするようになっていた。
「今日は何を読んでいるの?」
「交易路の歴史」
「また難しそうな本ね」
「港町に行きたいって言ったのは誰だっけ」
「あら。覚えていてくれたの?」
「忘れる理由がないからね」
リゼは少しだけ嬉しそうに笑った。
僕は本を閉じ、彼女の前に置いた。
「ここ。王都から西へ向かう街道を進んで、途中の宿場町を二つ越える。そこから馬車で半日ほど行けば、海沿いの街に着く」
「思ったより遠いのね」
「近いと思ってたの?」
「王都の外に出たことがないわけじゃないけれど、海は見たことがないの」
「じゃあ、初めて見る海になるわけだ」
「そういうこと」
彼女は地図を覗き込んだ。
指先が、王都から西へ伸びる街道をなぞっていく。
「ここを通るの?」
「たぶんね。ただ、春先は雨が多い。道がぬかるむと馬車が遅れるし、場合によっては途中で一泊することになる」
「楽しそう」
「今の説明のどこに楽しそうな要素があった?」
「予定どおりにいかないことも、旅の一部でしょう?」
彼女はそう言って、地図の端に小さな丸を描いた。
「ここで休憩しましょう」
「まだ出発も決まってないんだけど」
「じゃあ、決めましょう」
あまりにも自然に言うものだから、僕は返事に困った。
リゼは、思いついたことを口にするだけではない。
一度やりたいと思ったことは、実現するためにあれこれ考える。市場で食べたことのない料理を見つければ店主に材料を尋ね、知らない場所の名前を聞けば図書館で地図を探す。
自由奔放に見えて、意外と行動力がある。
ただし、その行動力がどこへ向かうのかは、本人にも分かっていないことが多い。
「……分かった。じゃあ、まずは必要な金額を計算しよう」
「さすがノア。頼りになるわね」
「褒めても値段は変わらないよ」
「お金を取るつもりだったの?」
「計算の手間賃くらいは」
「けち」
「現実的と言ってほしいね」
リゼは笑った。
その笑い声が、静かな図書館に小さく響いた。
僕は再び本を開いた。
旅の計画は、思っていたよりも簡単には進まなかった。
まず、僕には宿の仕事がある。
両親に事情を話せば、数日程度なら休みをもらえるだろう。しかし、宿の繁忙期と重なれば難しい。リゼの方も、自由に王都を離れられる立場ではない。
彼女の身分を知ってから、僕はそのことを以前より強く意識するようになっていた。
公爵令嬢。
その肩書きは、本人がどれだけ嫌がっても消えるものではない。
彼女がどこへ行くのか、誰と会うのか、何をするのか。そうしたことに、彼女自身の意思だけでは決められない事情がある。
僕たちが市場を歩いているときも、彼女の後ろに少し離れてついてくる人影を見かけることがあった。
本人は気づいていないふりをしている。
あるいは、本当に気づいていないのかもしれない。
「ねえ、ノア」
ある日の帰り道、リゼが言った。
「何?」
「もし、私が突然いなくなったらどうする?」
「宿の仕事が少し楽になる」
「ひどい答えね」
「冗談だよ」
「本当に?」
「……探すんじゃないかな」
口にしてから、少しだけ気恥ずかしくなった。
リゼは歩く速度を緩めた。
「どうして?」
「どうしてって、友達がいなくなったら心配するだろ」
「友達、ね」
彼女は前を向いたまま、そう繰り返した。
「何か違う?」
「ううん。何でもない」
その後、彼女はいつものように笑った。
僕は、それ以上尋ねなかった。
それから数日後、リゼは図書館に来なかった。
翌日も、その次の日も。
最初は何とも思わなかった。
公爵家の事情で忙しいのだろう。そう考えれば、不思議なことではない。実際、以前にも数日間姿を見せなかったことがある。
それでも、五日目になると、さすがに落ち着かなくなった。
僕は本を読んでいても、入口の扉が開くたびに顔を上げていた。
自分でも馬鹿らしいと思う。
友達が数日来ないだけで、こんなに気になるものだろうか。
閉館の鐘が鳴り、借りた本を返却台に置く。
図書館を出ると、空は薄い橙色に染まっていた。
「ノア」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、リゼが立っていた。
「……久しぶり」
「うん。久しぶり」
「五日間、何してたの?」
「ちょっと家の用事」
「そっか」
「それだけ?」
「何が?」
「もっと聞きたいことがあるんじゃない?」
彼女は少しだけ意地悪そうに笑った。
僕は腕を組んだ。
「心配した、とでも言えばいい?」
「言ってほしい」
「心配したよ」
思ったよりも素直に言葉が出た。
リゼは目を丸くした。
そして、ほんの少しだけ視線を落とす。
「……ありがとう」
その声は、いつもの明るさとは少し違っていた。
「何かあった?」
「ううん。大丈夫」
「その答え、あまり信用できないな」
「どうして?」
「大丈夫な人は、そんな顔をしないから」
リゼは返事をしなかった。
僕たちはしばらく、王都の街並みを歩いた。
人通りの多い大通りを抜け、噴水広場の脇を通り、少しずつ静かな通りへ向かう。彼女はいつもより口数が少なかった。
やがて、以前から二人で訪れている丘に着いた。
王都を見下ろせる、風の通る場所。
街の向こうには、王城の尖塔が見えている。
「父に言われたの」
リゼが口を開いた。
「何を?」
「もう、あなたとは会わない方がいいって」
僕はすぐには答えなかった。
「……僕と?」
「そう。あなたと」
「理由は?」
「分かっているでしょう?」
彼女は膝を抱え、遠くの街を眺めた。
「私が公爵家の人間だから。あなたが宿屋の息子だから。身分が違うから。それだけよ」
「それだけで?」
「それだけで、十分なの」
彼女は淡々と言った。
けれど、指先は膝の上で小さく動いていた。
「父は悪い人じゃないの。私を心配しているし、母も私のことを大切にしてくれている。でも、二人には二人の考えがある。家のために必要なことがある。私も、それを理解していないわけじゃない」
「……うん」
「ただ、私の人生なのに、私が決められないことが多すぎるの」
風が吹いた。
リゼの髪が頬にかかり、彼女はそれを耳にかけた。
「結婚相手だって、もう候補がいるらしいわ。会ったこともない人なのに」
「早いね」
「そうでしょう? まだ十六歳なのに」
「僕も十六歳だけど、結婚の話なんて一度もないよ」
「それはあなたが公爵令嬢じゃないからよ」
「そうだね」
僕は少し考えてから、隣に腰を下ろした。
「でも、リゼがどうしたいかは、リゼが決めていいと思う」
「簡単に言うのね」
「簡単じゃないよ。僕には何もできないかもしれない」
「うん」
「でも、少なくとも僕は、君が誰と会うかを身分で決めたりはしない」
彼女は僕を見た。
「……ノアは、変な人ね」
「よく言われる」
「言われてないでしょう」
「今、言われた」
リゼは小さく笑った。
それから、僕の肩に頭を預けた。
「もう少しだけ、ここにいてもいい?」
「もちろん」
「何も話さなくても?」
「僕はもともと、そんなに話す方じゃないからね」
「知ってる」
彼女の声が、少しずつ穏やかになっていく。
その日、僕たちは日が沈むまで丘にいた。
海への旅の話は、しなかった。
けれど、帰り際にリゼは言った。
「約束、忘れないでね」
「海を見に行く話?」
「そう」
「忘れてないよ」
「絶対?」
「絶対」
「じゃあ、よかった」
彼女はいつもの笑顔を見せた。
それが少し無理をしているように見えたことには、気づかないふりをした。
翌週、僕は両親に旅の話をした。
夕食の後、食器を片づけていると、母が何気なく尋ねてきた。
「最近、よく出かけているわね」
「図書館に行ってるだけだよ」
「図書館にしては帰りが遅い日もあるけど?」
「友達と話してるんだ」
「へえ」
母は意味ありげに笑った。
「その友達って、女の子?」
「……どうしてそうなるの」
「顔に書いてあるから」
「何が?」
「大切な人がいるって」
「そんな顔してないよ」
「そうかしら」
母はそれ以上追及せず、皿を布巾で拭いた。
父は少し離れたところで帳簿を確認していたが、こちらに目を向けた。
「旅に出たいんだって?」
「うん。数日だけ。西の港町に行ってみたいんだ」
「誰と?」
「友達と」
「その友達は、旅に出られるのか?」
「それが問題なんだ」
父は帳簿を閉じた。
「なら、相手の都合を聞いてから考えればいい。お前一人で決めても仕方ないだろう」
「分かってる」
「宿の仕事は心配しなくていい。何日かなら、母さんと二人でどうにかする」
母も頷いた。
「たまには外の世界を見るのもいいことよ。ただし、準備はきちんとね」
「ありがとう」
僕は少し驚いていた。
両親は、思っていたよりもあっさり許してくれた。
「それと」
父が言った。
「帰ってきたら、土産話を聞かせろ」
「分かった」
「海を見たことがないからな」
「父さんも?」
「この宿を始めてから、遠くへ行く機会がなかった」
そう言って、父は少し笑った。
その夜、僕は机の上に地図を広げた。
港町までの道のり。必要な金額。宿泊先。食料。馬車の時刻。
考えることは多い。
それでも、不思議と面倒ではなかった。
数日後、図書館でリゼに両親の許可をもらったことを伝えると、彼女は目を輝かせた。
「本当?」
「うん。あとは君の都合だけだ」
「分かった。私も何とかする」
「無理はしないでよ」
「無理じゃないわ。ちゃんと考える」
彼女は本を閉じて、机の上に両手を置いた。
「ねえ、ノア」
「何?」
「海って、どんな色だと思う?」
「青じゃない?」
「それだけ?」
「時間によって違うんじゃないかな。朝と昼と夕方では、見え方も変わるだろうし」
「そっか」
リゼは窓の外を見た。
「同じ場所でも、見る時間によって違うのね」
「そういうものだと思うよ」
「じゃあ、朝も昼も夕方も見たいわ」
「欲張りだな」
「せっかく初めて見るんだもの」
「数日滞在するつもりで計画しておくよ」
「ありがとう」
彼女は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、僕まで少し楽しみになってくる。
旅の準備は、それから本格的に始まった。
僕は必要な道具を揃え、馬車の手配について調べた。リゼは港町の歴史や名産品について調べているらしく、会うたびに新しい情報を教えてくれた。
魚料理が有名な店。
海辺に並ぶ白い建物。
朝になると漁船が戻ってくる港。
遠くの海に沈む夕日。
彼女の話を聞いているだけで、まだ見ぬ景色が少しずつ頭の中に形作られていった。
そして、出発の日取りを決めようとした頃。
リゼは、いつもより遅れて図書館にやってきた。
「ごめんなさい。待った?」
「いや、今来たところ」
「本当?」
「半刻くらい」
「それを今来たとは言わないわ」
「待つのは嫌いじゃないから」
彼女は少しだけ目を細めた。
「そういうことを、簡単に言わない方がいいわよ」
「どうして?」
「相手が勘違いするから」
「誰が?」
「……あなたよ」
僕は首を傾げた。
リゼはすぐに話題を変えた。
「それで、旅の日程なんだけど」
「うん」
「少し、待ってほしいの」
「何かあった?」
「家のことで、まだ決められないことがあるの」
「分かった。急がなくていいよ」
「本当に?」
「海は逃げないからね」
「そうね」
彼女はそう言った。
けれど、その表情は晴れなかった。
僕は、彼女の事情をすべて知っているわけではない。
公爵家の人間として、どれほど多くのことを求められているのか。彼女がどんな言葉を飲み込み、どんな選択を諦めてきたのか。
それを、僕はまだ知らない。
知ろうとすれば、教えてくれるのだろうか。
それとも、知らないままでいた方がいいこともあるのだろうか。
その答えは、まだ分からなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
僕は、彼女と海を見に行きたかった。
それだけは、間違いなかった。
そして、その願いが叶うまでには、もう少し時間が必要だった。
* * *
それから、二週間が過ぎた。
リゼは相変わらず図書館に通っていたが、以前と比べると、帰る時間が早くなっていた。
彼女の家の事情が変わったのか、それとも単に忙しいだけなのか。詳しいことは聞いていない。
ただ、会うたびに少しずつ表情が明るくなっていくのを見て、僕は安心していた。
その日も、僕たちは図書館の窓際に座っていた。
「ねえ、ノア。これを見て」
リゼが一枚の紙を差し出した。
「何?」
「港町の地図よ」
「それは分かるけど」
「ここに、灯台があるんですって」
彼女の指先が、地図の西端を示した。
「港の外れにある古い灯台。今も使われているらしいわ」
「ずいぶん端にあるね」
「だからいいのよ。街の中心から離れているし、きっと静かな場所だと思う」
「灯台に行きたいの?」
「うん。海を見渡せるでしょう?」
「確かに」
「それに、灯台って少し不思議じゃない?」
「どこが?」
「暗い海の上で、ずっと光を出し続けているの。誰かが帰ってくるのを待っているみたい」
僕は地図を見た。
灯台は、港から少し離れた岬の先に描かれている。そこまで行くには、街から歩いて一時間ほどかかるらしい。
「行くなら、帰りの時間も考えないとね」
「もう。少しは夢のある返事をしてよ」
「夢だけじゃ帰ってこられないから」
「ノアらしいわ」
リゼは笑い、地図を丁寧に折りたたんだ。
その仕草を見て、僕はふと思った。
彼女は、こうして旅の話をしているときが一番楽しそうだ。
公爵家の娘として過ごす時間とは違う。誰かの期待に応える必要もなく、決められた作法を守る必要もない。
ただ、自分の見たいものを見て、自分の行きたい場所へ行く。
彼女にとって、それは当たり前ではないのだろう。
「ノアは、旅に出たら何をしたい?」
「僕?」
「そう。私ばかり話しているから」
「そうだな……」
少し考えた。
「知らない街の宿に泊まってみたい」
「宿?」
「うちの宿と何が違うのか気になるんだ。部屋の作りとか、料理とか、客への接し方とか」
「仕事のことばかりね」
「職業病かな」
「もっと別のことはないの?」
「知らない料理を食べること」
「それも仕事に関係しているんじゃない?」
「食べることまで仕事にされたら困るよ」
リゼは声を出して笑った。
「じゃあ、旅先では私が料理を選んであげる」
「それは少し不安だな」
「どうして?」
「君、珍しいものを見るとすぐ食べたがるだろ」
「いいじゃない。旅なんだから」
「以前、市場で見た黒い豆を買おうとしていたのは誰だったかな」
「結局、おいしかったでしょう?」
「味はね。問題は、その後だよ」
「あれは店主の説明が悪かったのよ」
「食べる前に説明を聞いておけばよかったんだ」
「細かいわね」
他愛のない話だった。
けれど、こういう時間が僕は好きだった。
何か特別なことが起きるわけではない。大きな秘密を打ち明けるわけでもない。ただ、同じ机を挟んで、思いついたことを話す。
それだけで、午後の時間は驚くほど早く過ぎていった。
図書館を出た頃には、空が薄い紫色に変わり始めていた。
「送っていこうか?」
「大丈夫よ」
「前にも聞いたけど、帰り道は安全なの?」
「ええ。迎えが来るから」
「じゃあ、ここで別れよう」
「うん」
リゼは数歩進んでから、振り返った。
「ノア」
「何?」
「旅に行けたら、灯台まで一緒に歩いてね」
「もちろん」
「約束よ」
「約束」
彼女は満足そうに頷き、街の向こうへ歩いていった。
僕はその背中が見えなくなるまで、しばらく立っていた。
*
その翌週、宿に一人の客が訪れた。
年齢は四十代くらいだろうか。身なりは整っていたが、商人にしては荷物が少ない。宿泊の手続きを済ませると、彼は僕に尋ねた。
「この辺りで、図書館の場所を教えてもらえないだろうか」
「王立図書館ですか?」
「そうだ。古い地理の資料を探していてね」
「でしたら、ここから北へ進んで、大通りを右に曲がると見えてきます」
「ありがとう」
男は軽く頭を下げた。
そのまま部屋へ案内しようとしたとき、彼の視線が宿の奥へ向いた。
「君は、ここの息子さんかい?」
「はい」
「そうか。若いのに、しっかりしているね」
「ありがとうございます」
男はそれ以上何も言わず、階段を上っていった。
その夜、夕食を終えた後、僕は父に頼まれて帳簿を整理していた。
「そういえば、今日の客は図書館に行きたいと言っていたな」
父が言った。
「うん。地理の資料を探しているらしいよ」
「珍しいな。商人なら商業地区の書庫を使うだろうに」
「商人じゃないのかもしれない」
「まあ、客の事情を詮索する必要はない」
父はそう言って、帳簿に目を戻した。
僕も特に気に留めなかった。
その男が翌朝には宿を出ていたことも、数日後にはすっかり忘れていた。
*
春の終わりが近づく頃、リゼから手紙が届いた。
短い文章だった。
家の用事が一段落したこと。旅の日程について、近いうちに話したいこと。そして、図書館で待っているということ。
僕は手紙を読み終えると、すぐに返事を書いた。
翌日の午後、図書館に行くと、リゼは窓際の席に座っていた。
「お待たせ」
「遅いわ」
「昨日の手紙には、午後としか書いてなかったよ」
「それでも遅いものは遅いの」
「ずいぶん厳しいな」
彼女は笑った。
けれど、その表情には以前とは違う落ち着きがあった。
「家の人とは話せたの?」
「ええ。父と母に」
「どうだった?」
「父は反対していたわ」
「やっぱり?」
「でも、母が間に入ってくれたの。私が自分で決めたことなら、一度くらいは認めてあげてもいいんじゃないかって」
「それで?」
「条件付きで許してもらえたわ」
「条件?」
「護衛が一人つくこと。宿泊先を事前に知らせること。毎日、家に連絡すること。それから、出発前に父と一緒に会うこと」
「……かなり多いね」
「そうね。でも、許してもらえただけでも十分よ」
彼女は少し照れたように笑った。
「だから、行けるわ」
「本当に?」
「本当」
僕は地図を取り出した。
「じゃあ、出発は来週の水曜日にしよう。馬車の予約もできると思う」
「水曜日ね」
「宿の仕事は両親が代わってくれる。三日間なら大丈夫だって」
「三日間……」
リゼはその言葉を繰り返した。
「どうかした?」
「ううん。三日間も一緒にいられるんだなって思っただけ」
「いつも図書館で会ってるだろ」
「そうだけど、旅は違うでしょう?」
「まあ、そうかもしれない」
彼女は窓の外を見た。
王都の屋根が、春の日差しを受けて輝いている。
「楽しみね」
「ああ」
「本当に、楽しみ」
その言葉を聞いて、僕も笑った。
ようやく、約束が現実になろうとしていた。
けれど、その日の帰り際、リゼは一つだけ奇妙なことを言った。
「ノア。もし旅の途中で、私が帰りたくないと言ったらどうする?」
「どういう意味?」
「そのまま、どこか遠くへ行きたいと言ったら」
「……それは困るね」
「どうして?」
「宿の仕事があるし、君の家にも連絡しなきゃいけない。何より、君が帰らなかったら大騒ぎになる」
「そうよね」
リゼは少し笑った。
「ごめんなさい。変なことを聞いたわ」
「別にいいけど」
「じゃあ、来週ね」
「うん。来週」
彼女は手を振り、図書館を出ていった。
僕はその場に残り、手に持っていた地図を見下ろした。
港町までの道は、もう何度も確認している。
必要な費用も、宿泊先も、移動手段も決まった。
あとは当日を待つだけだ。
それなのに、なぜか胸の奥に小さな引っかかりが残っていた。
彼女の言葉の意味を、僕は考えないことにした。
旅に出れば分かることもあるだろう。
そう思っていた。
* * *
出発の日は、よく晴れていた。
朝の王都には、まだ夜の冷たさが少しだけ残っている。市場の店主たちが荷物を運び、パン屋の煙突からは白い煙が上がっていた。
僕は宿の裏口で、最後の荷物を確認していた。
着替えが数着。財布。水筒。簡単な薬。地図。それから、母が持たせてくれた焼き菓子。
「それだけで足りるの?」
背後から声がした。
振り返ると、リゼが立っていた。
淡い色の旅行服に身を包み、肩には小さな鞄を掛けている。普段の彼女よりも少し落ち着いた格好だった。
「おはよう」
「おはよう。ずいぶん早いのね」
「君こそ」
「楽しみで眠れなかったの」
「子どもみたいだな」
「十六歳なんだから、まだ子どもでしょう?」
「そう言われると反論しづらいね」
リゼは僕の荷物を覗き込んだ。
「それ、全部?」
「そうだけど」
「少なくない?」
「三日間だからね」
「私はもっとあるわよ」
「何を持ってきたの?」
「着替えと、髪を整える道具と、手帳と、本と……」
「本?」
「旅先で読む本よ」
「旅先でまで本を読むの?」
「読むわよ。移動中は暇でしょう?」
「景色を見るんじゃなかったの?」
「景色も見るわ」
彼女は得意げに鞄を持ち上げた。
その後ろには、少し年配の男性が立っていた。整った服装で、腰には護身用の剣を下げている。
「こちらが護衛の方?」
僕が尋ねると、リゼは頷いた。
「そうよ。セドリック。昔から家に仕えている人なの」
「セドリックと申します。お嬢様がお世話になっております」
「いえ、こちらこそ」
「道中は私が同行いたします。どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧な口調だった。
ただ、その視線は僕を慎重に観察しているようにも見えた。
無理もない。公爵令嬢の旅に同行する相手が、王都の宿屋の息子なのだから。
「では、参りましょうか」
セドリックが言った。
僕たちは宿を出て、馬車の待つ広場へ向かった。
両親は入口まで見送りに来てくれた。
「気をつけて行ってくるんだぞ」
父が僕の肩を軽く叩いた。
「うん」
「無理に予定を詰め込むな。何かあったら、すぐに帰ってくればいい」
「分かってる」
母はリゼに小さな包みを渡した。
「よかったら、道中で食べてね」
「ありがとうございます」
「ノアは昔から、食べることを忘れることがあるから」
「忘れないよ」
「本当かしら」
母は笑った。
リゼも笑いながら包みを受け取る。
「ちゃんと見ておきますね」
「お願いね」
なぜか僕の方が心配されているようだった。
馬車に乗り込むと、セドリックは御者の隣に座った。
僕とリゼは向かい合わせになる。
「いよいよね」
「ああ」
「本当に行くのね」
「さっきから何度も言ってるよ」
「だって、まだ信じられないんだもの」
馬車が動き始めた。
王都の石畳をゆっくりと進み、やがて城門を抜ける。
城壁の外には広い草原が広がっていた。
風に揺れる草の向こうに、遠くの山並みが見える。
「わあ……」
リゼは窓から身を乗り出すようにして外を眺めた。
「危ないよ」
「分かってるわ」
「本当に?」
「ノアは心配性ね」
「君が落ち着きがないだけだよ」
「旅の始まりくらい、自由に楽しませてよ」
彼女はそう言って、再び外を見た。
その横顔は、図書館で本を読んでいるときとは少し違っていた。
何かを見つけるたびに目を輝かせ、知らない景色に出会うたびに小さく声を上げる。
その様子を見ていると、旅に誘ってよかったと思えた。
*
最初の宿場町に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車を降りると、街道沿いに小さな店が並んでいるのが見えた。王都ほど大きくはないが、旅人や商人が多く立ち寄る場所らしい。
「少し休憩しましょう」
セドリックが提案した。
「賛成」
リゼはすぐに頷いた。
僕たちは街道沿いの食堂に入った。
木造の建物で、窓際には鉢植えが並んでいる。店内には旅人らしい客が何人かいて、奥からは香ばしい匂いが漂っていた。
「何を食べようか」
僕がメニューを見ていると、リゼが身を乗り出した。
「これにしましょう」
「豆と野菜の煮込み?」
「珍しい香辛料を使っているらしいわ」
「また珍しいものを選んだね」
「旅先では、知らないものを食べるって決めたの」
「お腹を壊さないといいけど」
「大丈夫よ」
結局、僕たちは同じ料理を注文した。
しばらくして運ばれてきた煮込みは、思っていたよりも香りが強かった。豆と野菜に、少し辛みのある香辛料が使われている。
一口食べたリゼは、目を輝かせた。
「おいしい!」
「本当だね」
「王都にもこういう料理があればいいのに」
「材料が違うんじゃないかな」
「帰ったら作ってみたいわ」
「料理もするんだ?」
「失礼ね。簡単なものなら作れるわよ」
「簡単なものって?」
「焼き菓子とか」
「それは料理なのかな」
「料理よ」
彼女は少しむっとした。
その様子がおかしくて、僕は笑った。
食事を終え、店を出ると、街の広場で小さな子どもたちが遊んでいた。
そのうちの一人が、僕たちの前を走り抜けていく。
その拍子に、子どもの手から小さな木の人形が落ちた。
「あっ」
リゼが拾い上げた。
「これ、君の?」
子どもは振り返り、頷いた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
リゼは人形を渡した。
子どもは笑顔で走っていく。
「優しいね」
僕が言うと、彼女は不思議そうにこちらを見た。
「普通のことをしただけよ」
「そうかな」
「そうよ。落としたものを拾ってあげる。それだけでしょう?」
彼女は先ほどの子どもを目で追っていた。
僕は、その横顔を見ていた。
公爵令嬢という肩書きがなくても、彼女はきっと同じことをしただろう。
誰かが困っていれば、自然に手を差し伸べる。
それが彼女の性格なのだと思う。
*
宿場町を出てから、さらに数時間が過ぎた。
街道は次第に緩やかな坂道へ変わり、周囲には低い丘が増えていった。
窓の外を眺めていたリゼが、突然こちらを向いた。
「ねえ、ノア」
「何?」
「私たち、どこまで行けると思う?」
「港町まで?」
「それもそうだけど、もっと先」
「もっと先?」
「この国の外にも、知らない場所がたくさんあるでしょう?」
「あるね」
「山の向こうにも、海の向こうにも。私たちが知らない街や国がある」
「そうだね」
「いつか、そこにも行ってみたい」
彼女は地図を広げた。
アルセリア王国の周辺には、いくつかの国の名前が記されている。
「この国を出て、南の砂漠を越えてみたい。北の雪山にも行きたい。東の森には、古い遺跡があるんでしょう?」
「危険な場所も多いよ」
「だから、ちゃんと準備するの」
「それでも危険なものは危険だよ」
「ノアは心配しすぎ」
「君は楽観的すぎる」
リゼは笑った。
「ちょうどいいじゃない」
「何が?」
「私が先に進みたがって、ノアが止めてくれる。二人なら、うまくいくと思うわ」
僕は少しだけ考えた。
「……そうかもしれないね」
彼女は満足そうに地図をしまった。
その後、馬車は小さな川を渡り、森の近くを通り過ぎた。
夕方になる頃、空の色が変わり始める。
僕たちは途中の宿場町で一泊することになった。
宿は木造の二階建てで、部屋は決して広くなかったが、清潔に保たれていた。
僕は部屋に荷物を置くと、宿の主人に頼んで水をもらった。
「旅の途中かい?」
「ええ。王都から港町へ向かっています」
「そりゃあ、いいね。もう少し西へ行けば潮の匂いがしてくるよ」
「本当ですか?」
「ああ。明日の昼頃には分かるだろう」
僕は礼を言って部屋に戻った。
リゼは窓辺に立ち、外を眺めていた。
「何を見てるの?」
「空よ」
彼女は窓を少し開けた。
夕方の風が部屋に入ってくる。
「王都とは違う匂いがするわ」
「そうかな」
「うん。少し草の匂いが強い」
「この辺りは牧草地が多いからね」
彼女は振り返った。
「ねえ、ノア」
「何?」
「今日、楽しかった?」
「もちろん」
「よかった」
「君は?」
「楽しかったわ」
彼女は窓の外へ視線を戻した。
「まだ海も見ていないのにね」
「海を見たら、もっと楽しくなるよ」
「そうね」
少しの沈黙があった。
その後、リゼは小さな声で言った。
「こういう日が、ずっと続けばいいのに」
僕は返事をしなかった。
ずっと続くかどうかなんて、誰にも分からない。
だから、簡単に約束することはできなかった。
代わりに、僕は彼女の隣に立った。
「明日も早いよ」
「分かってる」
「朝食の時間に遅れないようにね」
「ノアこそ」
「僕は起きられるよ」
「どうかしら」
彼女は笑った。
その夜、僕たちは早めに休んだ。
翌朝、宿の主人が言っていたとおり、空気にはわずかに潮の匂いが混じっていた。
まだ海は見えない。
けれど、確実に近づいている。
僕は馬車の窓から西の空を眺めた。
その先に、どんな景色が待っているのか。
リゼと一緒に見る初めての海を、僕は楽しみにしていた。
* * *
海が見えたのは、その日の昼を少し過ぎた頃だった。
最初に気づいたのは、御者だった。
「そろそろ見えてきますよ」
その言葉に、リゼが窓の外へ身を乗り出した。
「本当に?」
「ええ。この坂を越えれば、海岸沿いの道に出ます」
馬車がゆっくりと坂を上っていく。
木々の間から差し込む光が、少しずつ強くなった。道の向こうには、これまで見てきた草原とも森とも違う、明るい景色が広がり始めている。
そして、坂の頂上に差しかかったとき。
「……あ」
リゼの声が小さく漏れた。
視界の先に、海があった。
どこまでも続く青い水面。空との境目は遠く、水平線は薄い霞の向こうに伸びている。太陽の光を受けた波が、細かな銀色の光を散らしていた。
僕は思わず言葉を失った。
王都から離れたことは何度かあったが、これほど広い景色を見るのは初めてだった。
「これが……海」
リゼは窓の外を見つめたまま、ほとんど囁くように言った。
「そうだね」
「本当に、ずっと続いているのね」
「地図で見たとおりだ」
「地図と実際に見るのは、全然違うわ」
彼女は僕の方を向いた。
「ねえ、ノア」
「何?」
「来てよかった」
その顔を見て、僕は笑った。
「まだ港町にも着いてないよ」
「それでもよ」
馬車は坂を下り、海沿いの街道へ入った。
潮風が窓から吹き込んでくる。草原を走っていたときとは違う、少し塩気のある匂いがした。
リゼは何度も海を振り返っていた。
まるで、一瞬でも目を離したら見失ってしまうとでもいうように。
*
港町の名前は、セレスタという。
アルセリア王国の西部に位置する、王国内でも有数の交易港だ。大きな商船が各地から集まり、魚や塩、異国の品々が日々運び込まれている。
街に入ると、王都とはまったく違う活気があった。
通りには魚を売る店が並び、港からは船乗りたちの声が聞こえる。建物の壁は潮風にさらされて少し色褪せていたが、それがかえって街の歴史を感じさせた。
「すごい……」
リゼは馬車の窓から街を見渡していた。
「人が多いね」
「王都とは違う賑やかさがあるわ」
「港町だからね。船が着くたびに人も荷物も集まるんだろう」
「見て、あそこ」
彼女が指さした先には、大きな船が停泊していた。
帆は畳まれ、甲板では何人もの船員が荷物を運んでいる。船体には見慣れない紋章が描かれていた。
「あれはどこの国の船なのかしら」
「あとで聞いてみよう」
「うん」
馬車は港から少し離れた宿の前で止まった。
セドリックが先に降り、周囲を確認してから僕たちに声をかける。
「到着いたしました。こちらで二泊する予定です」
「ありがとう」
リゼは馬車から降りると、すぐに港の方を振り返った。
「荷物を置いたら、散歩してもいい?」
「まずは宿の中を確認してからにしましょう」
セドリックが落ち着いた声で答えた。
「分かっているわ」
宿は港町らしい造りをしていた。
一階には食堂があり、壁には古い船の絵が飾られている。床板は少し軋んだが、掃除は行き届いていた。
部屋に荷物を置き、簡単に身支度を整える。
僕が廊下に出ると、リゼもちょうど部屋から出てきた。
「行きましょう」
「そんなに急がなくても」
「早く見たいの」
「分かったよ」
セドリックも少し離れてついてくる。
宿を出ると、潮の匂いがいっそう強くなった。
港へ向かう道には、魚を積んだ荷車が行き交っている。店先では、干した魚や貝殻を使った装飾品が売られていた。
リゼはその一つ一つに興味を示した。
「これは何?」
「貝殻を加工した飾りですね」
店の主人が答えた。
「この辺りで採れる貝を使っているんですか?」
「そうですよ。海岸で拾ったものもあれば、漁師から譲ってもらったものもあります」
リゼは小さな青い飾りを手に取った。
「きれいね」
「気に入ったなら買っていくかい?」
「いくらですか?」
主人が値段を告げると、彼女は財布を取り出した。
けれど、僕はその手を見て少し気になった。
「それ、君が選んだもの?」
「そうよ」
「なら、旅の記念にすればいいんじゃない?」
「そう思っているわ」
彼女は青い飾りを買った。
手のひらに乗るほどの、小さな貝殻の装飾品だった。
「何につけるの?」
「手帳にでもつけようかしら」
「落とさないようにね」
「大丈夫。大切にするもの」
彼女は飾りを鞄にしまった。
その後、僕たちは港の近くまで歩いた。
船のそばでは、漁師たちが網の手入れをしている。魚を運ぶ人、荷物を積み込む人、船の上から指示を出す人。誰もが忙しそうだった。
「ここでは、毎日こんなに船が出入りするの?」
リゼが近くにいた漁師に尋ねた。
「天気がよければな。海が荒れたら出られない日もあるが、港はいつだって動いているよ」
「海が荒れると、船は危ないんですか?」
「そりゃあ危ないさ。海はきれいだが、優しいだけじゃない」
漁師は笑いながら、網を引き寄せた。
「それでも、俺たちは海に出る。ここで暮らしているからな」
リゼはその言葉を聞いて、しばらく海を眺めていた。
「海が好きなんですか?」
僕が尋ねると、漁師は手を止めずに答えた。
「好きか嫌いかで言えば、好きだな。だが、怖いと思うこともある。長く海に出ていれば、そういう日もあるさ」
「そうなんですね」
「お嬢ちゃんたちは旅かい?」
「はい。王都から来ました」
「そりゃ遠かったろう。せっかくだから、岬の灯台にも行ってみるといい。あそこから見る海は格別だぞ」
リゼの表情が明るくなった。
「灯台!」
「明日の朝に行く予定です」
僕が答えると、漁師は満足そうに頷いた。
「なら、天気が変わらなければいいな」
僕たちは礼を言って、その場を離れた。
「楽しみね」
「そうだね」
「明日は灯台に行って、それから海岸を歩きましょう」
「予定を詰めすぎないようにね」
「分かっているわ」
リゼは笑った。
*
夕方、僕たちは宿の食堂で夕食を取った。
料理は魚を焼いたものと、野菜のスープ、それにパンだった。魚には香草が添えられていて、王都で食べるものとは少し違う味がした。
「おいしい」
リゼは満足そうに頷いた。
「この魚、何という名前なのかしら」
「店の人に聞いてみたら?」
「そうするわ」
彼女は給仕の女性を呼び、料理について尋ねた。
その後も、使われている香草や調理方法について質問していた。
「本当に料理が好きなんだね」
僕が言うと、彼女は少し考えた。
「好きというより、知らないものを知るのが好きなのかもしれないわ」
「それは分かる気がする」
「ノアもそうでしょう?」
「僕は宿の仕事に関係することが多いけどね」
「理由は何でもいいじゃない。知りたいと思うことがあるのは、いいことだと思うわ」
彼女はパンをちぎり、スープにつけて食べた。
「ねえ。旅って、こういうことなのね」
「こういうこと?」
「知らない街を歩いて、知らないものを食べて、知らない人の話を聞く。何か特別なことをしなくても、楽しいのね」
「そうだね」
「王都にいたときは、遠くへ行けば何か大きなことが起きると思っていたわ」
「今は違う?」
「うん。こういう何でもない時間も、旅の一部なんだって分かった」
僕は頷いた。
彼女の言うことは、少し分かる気がした。
どこかへ行くこと自体が目的だったのかもしれない。
目的地に着いて、何かを成し遂げることだけが旅ではない。
その途中で見た景色や、立ち寄った店、交わした会話も、後になれば思い出になる。
僕たちは食事を終え、宿の外へ出た。
海の向こうには、夕日が沈みかけていた。
空は橙色から紫色へと変わり、水面には細長い光の道ができている。
「きれい……」
リゼは静かに言った。
僕たちは港の端にある石段に腰を下ろした。
セドリックは少し離れた場所に立ち、周囲を見ている。
「ノア」
「何?」
「今日のこと、覚えておいてね」
「もちろん」
「海を初めて見たこと。港町を歩いたこと。変わった料理を食べたこと」
「全部覚えてるよ」
「じゃあ、いつかまたここに来たとき、今日の話をしましょう」
「また来るつもり?」
「来たいわ」
リゼは海を見つめた。
「今度は、もっと遠くまで行ってみたい。船に乗って、別の国にも行ってみたいわ」
「船酔いするかもしれないよ」
「そのときはノアが助けてくれるでしょう?」
「薬を持っていればね」
「そういうところ、ほんとうに現実的ね」
「大事なことだよ」
彼女は笑った。
やがて、太陽が水平線の向こうへ沈んでいく。
空の色がゆっくりと暗くなり、港に灯りがともり始めた。
その光景を見ながら、僕は思った。
来てよかった。
彼女が見たかった海を、一緒に見ることができた。
それだけで、今回の旅には十分な意味があった。
「明日は灯台ね」
リゼが言った。
「朝早いよ」
「起きるわ」
「本当に?」
「今度こそ」
「その言葉、信用していいのかな」
「失礼ね」
彼女は少し頬を膨らませた。
僕は笑った。
その夜、宿へ戻る道すがら、リゼは何度も海を振り返った。
初めて見た海が、よほど気に入ったらしい。
そして僕も、彼女と同じ景色をもう一度見たいと思っていた。
*
翌朝、僕は窓を叩く音で目を覚ました。
「ノア、起きてる?」
聞き慣れた声だった。
「……起きてるよ」
「本当に?」
「今起きたところ」
「やっぱり寝ていたのね」
窓の向こうで、リゼが笑っている。
僕は急いで身支度を整え、部屋を出た。
宿の一階に降りると、リゼはすでに朝食を済ませていた。テーブルには空になった皿と、飲みかけの紅茶が置かれている。
「早いね」
「昨日、早く寝たもの」
「僕も早く寝たんだけど」
「それでも私の方が早かったわ」
「競争していた覚えはないよ」
「勝ったからいいの」
彼女は得意げに笑った。
セドリックは入口の近くで、外の様子を確認していた。
「おはようございます。天気は問題ありません。灯台までの道も、宿の主人に確認してあります」
「ありがとうございます」
「ただし、帰りの時間は決めておきましょう。今日は王都へ戻る準備もありますから」
「分かっています」
リゼは少し残念そうに頷いた。
港町で過ごせる時間は、今日が最後だ。
僕たちは朝食を済ませると、宿を出た。
*
灯台へ続く道は、港の外れから海岸沿いに伸びていた。
街の建物が少なくなるにつれて、潮風が強くなっていく。道の片側には草の生えた斜面があり、反対側には岩場と海が広がっていた。
「ここを歩いていけばいいのね」
「そうみたいだね」
「思ったより遠いわ」
「地図では近く見えたんだけど」
「地図って、いつもそうね」
「地図に文句を言っても仕方ないよ」
リゼは笑いながら、少し先を歩いていった。
風に髪を揺らしながら、何度も海の方を振り返る。
昨日よりも空は澄んでいた。
海の青さも、昨日よりはっきりと見える。遠くには小さな船が浮かび、白い帆が風を受けていた。
「ノア、見て」
「今度は何?」
「あの船。どこへ行くのかしら」
「港に戻るんじゃないかな」
「それとも、別の国へ行くのかもしれないわ」
「そうかもしれないね」
「いいなあ」
リゼは目を細めた。
「いつか、ああいう船に乗ってみたい」
「船旅は思っているより大変だと思うよ」
「またそういうことを言う」
「大切なことだからね」
「分かってるわ。でも、楽しみなことまで心配していたら、何もできなくなるでしょう?」
「それもそうだね」
僕たちは再び歩き始めた。
しばらくすると、岬の先に白い建物が見えてきた。
「あれが灯台?」
「たぶん」
近づくにつれて、その大きさが分かってくる。
石造りの塔は思っていたよりも高く、表面には長い年月を感じさせる傷が残っていた。塔の根元には小さな建物があり、入口の前に年配の男性が立っている。
「見学かい?」
男性が尋ねた。
「はい。中に入ることはできますか?」
僕が答えると、男性は頷いた。
「上まで行けるよ。ただ、階段は少し急だから気をつけな」
「ありがとうございます」
リゼはすでに入口を見上げていた。
「早く行きましょう」
「転ばないようにね」
「分かってるわ」
灯台の中は、外から見た印象よりも狭かった。
壁に沿って螺旋状の階段が続いている。足音が石の壁に反響し、上へ進むほど風の音が大きくなった。
先に上がったリゼが、途中で振り返る。
「ノア、遅いわよ」
「君が速すぎるんだ」
「早くしないと、景色が逃げてしまうわ」
「景色は逃げないよ」
「分からないでしょう?」
そう言って、彼女はまた上っていった。
最上階に着くと、そこには大きな窓があった。
窓の向こうには、海が広がっている。
昨日、馬車の上から見た海よりもずっと近い。波が岩場にぶつかり、白い泡となって広がっていく様子まで見えた。
リゼは窓のそばに立った。
何も言わず、ただ海を見つめている。
「どう?」
僕が尋ねると、彼女はしばらくしてから答えた。
「……きれい」
短い言葉だった。
でも、それ以上の感想はいらないように思えた。
僕も隣に立ち、海を眺めた。
窓の外では、遠くの船がゆっくりと進んでいる。
「ねえ、ノア」
「何?」
「ここに来られてよかった」
「うん」
「あなたと来られてよかった」
僕は彼女を見た。
リゼは海を見たままだった。
「私、一人だったら、きっとここまで来られなかったと思う」
「セドリックがいるから、一人ではないけどね」
「そういう意味じゃないわ」
彼女は少しだけ笑った。
「誰かと一緒に見たい景色ってあるでしょう?」
「……そうだね」
「私は、この海をあなたと見たかったの」
返事をしようとしたが、言葉が見つからなかった。
彼女は時々、こういうことを何の前触れもなく言う。
僕はそのたびに、どう答えればいいのか分からなくなる。
「ノア?」
「何?」
「黙っているわね」
「何て言えばいいか考えていたんだ」
「何でもいいのに」
「じゃあ、僕も来られてよかった」
リゼは満足そうに頷いた。
「それで十分よ」
*
灯台を出た後、僕たちは岬の近くを少し歩いた。
海岸には小さな貝殻がいくつも落ちている。リゼはその中から形の整ったものを一つ拾い上げた。
「これ、持って帰ってもいいかしら」
「売り物じゃないから、問題ないと思うけど」
「旅の記念にするの」
「昨日も記念品を買っていたよね」
「記念品はいくつあってもいいのよ」
彼女は貝殻を手帳に挟んだ。
風が吹き、彼女の髪が頬にかかる。
「帰りたくないな」
リゼがぽつりと言った。
「もう少し見ていたい?」
「うん」
「また来ればいいよ」
「また来られるかな」
「来られるよ。次はもっと長く滞在しよう」
「本当?」
「今度は、船にも乗ってみようか」
彼女は僕を見た。
「約束?」
「約束」
その言葉を聞くと、リゼは貝殻を手帳の奥にしまった。
「じゃあ、帰りましょう」
さっきまで帰りたくないと言っていたのに、今度は自分から歩き始める。
僕はその後を追った。
*
港町を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
帰りの馬車は、行きと同じ街道を通る。
リゼは窓際に座り、手帳を開いていた。昨日買った青い貝殻の飾りと、今日拾った貝殻を並べている。
「何を書いているの?」
「旅の記録よ」
「そんなものを書いていたんだ」
「忘れたくないものは、書いておくことにしているの」
「日記みたいなもの?」
「そうね。見たものや聞いたこと、食べたもの。それから、楽しかったこと」
「ずいぶん細かいね」
「後で読み返したら、きっと面白いでしょう?」
彼女はペンを動かした。
僕は窓の外へ目を向けた。
港町の建物が少しずつ遠ざかっていく。
海は、まだ見えていた。
「ノアも書けば?」
「僕はいいよ」
「どうして?」
「覚えているから」
「人の記憶は曖昧になるものよ」
「そんなにすぐ忘れないよ」
「本当に?」
「少なくとも、今日のことは忘れないと思う」
リゼはペンを止めた。
「じゃあ、私も書かなくていいかしら」
「君は書くのが好きなんだろ」
「そうだけど」
「好きなら書けばいいよ」
「……そうね」
彼女は再び手帳に目を落とした。
馬車の揺れに合わせて、ペン先が紙の上を滑っていく。
しばらくして、彼女は手帳を閉じた。
「書けた?」
「うん」
「何を書いたの?」
「秘密」
「自分で見せるために書いてるんじゃないの?」
「いつか見せるかもしれないわ」
「いつかって?」
「いつかよ」
彼女は手帳を鞄にしまった。
その後、僕たちはあまり話さなかった。
疲れていたのか、リゼは窓の外を眺めながら静かにしていた。僕も少し眠気を感じ、目を閉じた。
夕方、宿場町に着く頃には、空が赤く染まっていた。
そこからさらに馬車を進め、王都へ戻ったのは夜だった。
城門を抜けると、見慣れた街の灯りが見えた。
旅は終わった。
けれど、僕の中には、まだ海の景色が残っていた。
*
宿の前では、母が待っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「どうだった?」
「楽しかったよ」
「海は見られた?」
「うん。思っていたよりずっと広かった」
母は嬉しそうに笑った。
「よかったわね」
リゼもセドリックと一緒に宿の前で立ち止まっていた。
「今日はありがとうございました」
母がリゼに声をかける。
「こちらこそ、お世話になりました」
「またいつでもいらっしゃい」
「はい」
リゼは僕の方を向いた。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。楽しかったよ」
「次は船に乗りましょうね」
「まずは宿の仕事を片づけないと」
「分かってるわ」
彼女は笑った。
そして、セドリックとともに街の奥へ歩いていった。
その背中を見送っていると、母が隣に立った。
「いい友達ね」
「うん」
「大切にしなさい」
「分かってるよ」
母はそれ以上何も言わず、宿の中へ戻っていった。
僕はしばらく、夜の街を眺めていた。
次に海へ行くのは、いつになるだろう。
今度はどんな景色を見るのだろう。
そんなことを考えながら、僕も宿の中へ戻った。
* * *
それから、数日が過ぎた。
季節は少しずつ暖かくなり、王都の街路樹にも若葉が目立つようになっていた。
旅から戻ったリゼは、以前と変わらない頻度で宿に顔を出していた。
ただ、最近は少し様子が違う。
いつもなら昼過ぎにやって来て、他愛のない話をして帰っていく。それが、このところは何かを考え込んでいる時間が増えていた。
その日も、リゼは食堂の隅の席に座り、窓の外を眺めていた。
「珍しいな。今日は静かじゃないか」
僕が水の入ったグラスを置くと、彼女はようやくこちらを向いた。
「そう?」
「いつもなら、店に入ってくるなり何か話し始めるだろ」
「失礼だなあ。私だって静かな日くらいあるよ」
「それは失礼」
僕が軽く頭を下げると、リゼは小さく笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「ねえ、ノア」
「ん?」
「今度、王都の外にある庭園に行かない?」
「庭園?」
「うん。昔からある公爵家の庭園なんだけど、今の時期は花がきれいなの」
「公爵家の庭園って、入っていいのか?」
「私が一緒なら大丈夫」
「それはそうだろうけど……」
少し考える。
彼女が公爵令嬢だと知ってから、僕は何度かこういう誘いを受けていた。
しかし、貴族の屋敷や関係者の集まる場所に行くのは、どうにも落ち着かない。
「普通の服で行っても平気?」
「もちろん。私もできるだけ目立たないようにする」
「公爵家の庭園なのに?」
「庭園を見るだけなら、身分なんて関係ないでしょう?」
その言葉には、彼女らしさがあった。
「分かった。いつ行く?」
「今週の休みは?」
「父に聞いてみるよ」
「ありがとう!」
さっきまでの静けさが嘘のように、リゼの表情が明るくなった。
そのとき、宿の扉が開いた。
「お嬢様」
セドリックが入ってきた。
彼は僕に軽く会釈してから、リゼのそばへ歩いてくる。
「そろそろお戻りになる時間です」
「もう?」
「旦那様がお待ちです」
リゼの表情がわずかに曇った。
「お父様が?」
「はい。今夜はご家族で食事をされる予定ですので」
「……分かった」
彼女は椅子から立ち上がり、鞄を手に取った。
「ノア、庭園のこと、また話そうね」
「ああ」
リゼはセドリックとともに宿を出ていった。
僕は扉が閉まるのを見届けてから、食堂へ戻った。
庭園か。
どんな場所なのだろう。
そんなことを考えていると、厨房から父が顔を出した。
「今度は庭園に行くのか?」
「聞いてたの?」
「全部じゃない。けど、楽しそうな話だったからな」
父は布巾で手を拭きながら、僕の隣に立った。
「行ってきていいぞ。休みは取れるようにしておく」
「ありがとう」
「ただし、相手の家の事情もある。無理はするなよ」
「分かってる」
父はそれ以上何も言わず、厨房へ戻っていった。
その日の夕方、僕はいつもより少し早く仕事を終えた。
窓の外では、日が傾き始めていた。
王都の向こうに見える公爵家の屋敷は、遠くからでも分かるほど大きい。
その庭園に、僕が入ることになるとは思っていなかった。
けれど、リゼが見せたいと言うのなら、一度くらいは見てみたい。
彼女が普段暮らしている世界を。
そして、彼女がそこで何を感じているのかを。
*
約束の日は、よく晴れていた。
朝から宿の仕事を手伝い、昼前には父に送り出された。
「帰りが遅くならないようにな」
「分かってる」
「それと、相手の家では失礼のないように」
「子供じゃないんだから」
「そう言って、昔は客の前で寝ていたのは誰だったかな」
「それは小さい頃の話だろ」
父は楽しそうに笑った。
僕は少しだけ恥ずかしくなりながら、宿を後にした。
待ち合わせ場所は、王都の西門だった。
そこへ着くと、すでにリゼが立っていた。
今日はいつもの服より少し落ち着いた色合いのワンピースを着ている。髪も普段より丁寧に整えられていた。
「ノア!」
彼女は僕を見つけると、手を振った。
「待った?」
「ううん。今来たところ」
「それならよかった」
「今日はちゃんと時間通りだね」
「いつも遅れているみたいな言い方だな」
「違うの?」
「……否定はしない」
リゼは声を立てて笑った。
その隣にはセドリックがいた。
「本日はよろしくお願いいたします」
「あ、こちらこそ」
「庭園までは馬車で向かいます。少々距離がありますので」
用意されていた馬車に乗り込む。
僕とリゼが向かい合って座り、セドリックは外の御者台に乗った。
馬車が動き出すと、王都の賑やかな通りが窓の外へ流れていった。
「庭園って、そんなに遠いの?」
「王都の外れにあるからね。昔、私のおじい様が造らせたんだって」
「おじい様?」
「うん。今の公爵家になる前から、あの土地はずっと家のものだったらしいよ」
「ずいぶん歴史があるんだな」
「そうみたい。私も詳しくは知らないけど」
リゼは窓の外を眺めた。
「小さい頃はよく行っていたの。お母様と一緒にね」
「お父さんは?」
「お父様は仕事が忙しかったから、あまり」
彼女は少しだけ笑った。
「でも、たまに一緒に来てくれたこともあるよ」
「意外だな」
「どういう意味?」
「いつも厳しい話ばかり聞くから」
「お父様は厳しいけど、嫌いじゃないよ」
リゼはすぐにそう答えた。
「ただ、私のことを大切に思ってくれているのは分かるけど、私の気持ちを分かってくれているかは別だから」
僕はその言葉について、何も言えなかった。
しばらく馬車に揺られていると、やがて大きな門が見えてきた。
門の両脇には石造りの柱が立ち、中央には公爵家の紋章が刻まれている。
門番が馬車を確認すると、ゆっくりと門を開いた。
その先には、広大な庭園が広がっていた。
整えられた生垣。
白い石畳の道。
噴水の周りには色とりどりの花が咲き、奥には古い屋敷が見える。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
「きれいでしょう?」
リゼは嬉しそうに言った。
「ああ。想像していたよりずっと広い」
「全部歩こうと思ったら、一日じゃ足りないかも」
「そんなに?」
「うん。今日は一番好きな場所を案内するね」
馬車を降りると、庭園の管理をしているらしい男性がこちらへやってきた。
「お嬢様、お待ちしておりました」
「こんにちは。今日は友人を連れてきたの」
「かしこまりました」
男性は僕に視線を向け、丁寧に頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました」
「ありがとうございます」
そのやり取りを見ていたリゼが、僕の袖を軽く引いた。
「こっちだよ」
彼女に案内され、石畳の道を進んでいく。
庭園には様々な花が咲いていた。
名前を知っているものもあれば、見たことのないものもある。
「この花、何ていうの?」
「それはルナリア。夜になると少しだけ香りが強くなるんだって」
「へえ」
「こっちはベルフルール。春にしか咲かないの」
「よく知ってるな」
「昔、庭師さんに教えてもらったの」
彼女は一つひとつの花を説明してくれた。
その表情は、いつもの彼女より少し穏やかだった。
やがて、庭園の奥にある小さな東屋へたどり着いた。
周囲には背の低い花が咲き、近くには水の流れる細い小川がある。
「ここが一番好きな場所」
リゼは東屋の椅子に腰掛けた。
「小さい頃、ここでよく本を読んでいたの」
「図書館じゃなくて?」
「図書館も好きだけど、ここは静かだから」
彼女は目を細めて庭を見渡した。
「嫌なことがあったときも、ここに来ていたよ」
「嫌なこと?」
「礼儀作法の勉強とか、舞踏会の練習とか。うまくできなくて怒られた日もあったし、知らない人に挨拶しなきゃいけない日もあった」
「今のリゼからは想像できないな」
「私だって最初から今みたいだったわけじゃないよ」
「そうだな」
僕も椅子に座った。
「でも、ここに来ると少し楽になったの。花を見ていると、誰かの期待に応えなくてもいい気がして」
リゼは足元に咲く小さな花を見つめた。
「だから、ノアにも見せたかった」
「どうして?」
「私が好きな場所だから」
彼女は僕の方を向いた。
「私が普段どんなところで過ごしているのか、少しでも知ってほしかったんだ」
その言葉を聞いて、僕はようやく理解した。
彼女が今日、僕をここへ連れてきた理由。
ただ庭園を見せたかっただけではない。
彼女にとって大切な場所を、僕にも知ってほしかったのだ。
「ありがとう。連れてきてくれて」
「どういたしまして」
リゼは嬉しそうに笑った。
そのとき、東屋の向こうから足音が聞こえた。
「お嬢様」
振り返ると、年配の女性が立っていた。
「旦那様がお戻りになりました。お客様をお連れだと聞いて、こちらへ向かわれるそうです」
リゼの表情が変わった。
「お父様が?」
「はい」
彼女は一度、僕の方を見た。
「……ノア」
「大丈夫だよ」
本当は少し緊張していた。
以前、彼女の父親が僕との関係を快く思っていなかったことは知っている。
それでも、ここまで来た以上、逃げるわけにはいかなかった。
やがて、庭園の入口から一人の男性が姿を現した。
整った服装に、落ち着いた足取り。
リゼと同じ色の瞳をしたその人は、僕たちの前で足を止めた。
「リゼ」
「お父様」
男性は娘に目を向け、それから僕を見た。
「君がノア君か」
「はい。ノアと申します」
「話は聞いている」
その声は静かだった。
怒っているようには見えない。
けれど、歓迎されているとも言い難かった。
彼はしばらく僕を見つめた後、短く言った。
「少し話をしよう」
その言葉に、リゼがすぐに反応した。
「お父様。ノアは私が招待したのよ」
「分かっている」
父親は娘を見た後、再び僕へ視線を戻した。
「君を責めるつもりはない。少し確認したいことがあるだけだ」
「……分かった」
リゼは納得していない様子だったが、それ以上は何も言わなかった。
僕たちは東屋を離れ、庭園の奥にある屋敷へ向かった。
通されたのは、小さな応接室だった。
窓からは庭園が見える。室内には大きな机といくつかの椅子が置かれていた。
リゼの父親は僕たちに座るよう促すと、自分も向かい側に腰を下ろした。
「ノア君。君の家は王都で宿を営んでいるそうだな」
「はい」
「評判は聞いている。商人や旅人の間でも、悪くない宿だと」
「ありがとうございます」
「君自身も、いずれ家業を継ぐつもりなのか?」
少し考えた。
「まだ決めていません。ただ、今は両親の手伝いをしています」
「そうか」
彼は短く頷いた。
「では、君は将来について、どのように考えている?」
「将来ですか?」
「ああ」
突然の質問だった。
僕は窓の外に目を向けた。
庭園では、風に揺れた花びらが石畳の上を転がっている。
「まだ、はっきりとは決めていません」
「それは正直な答えだな」
「ただ……」
僕は一度言葉を切った。
「いつか、知らない場所へ行ってみたいと思っています」
隣に座るリゼが、わずかにこちらを向いた。
「遠い国や、見たことのない町です。宿で働いていると、いろいろな旅人の話を聞きます。話を聞くたびに、自分の知らない世界がまだたくさんあるんだと思うんです」
「なるほど」
「もちろん、今すぐ何かできるわけではありません。でも、いつかは自分の目で見てみたいです」
父親は黙って僕を見ていた。
やがて、彼はリゼに視線を移した。
「お前も同じことを考えているのか?」
「うん」
リゼは迷わず答えた。
「私は、もっといろいろな場所へ行きたい。自分で見て、自分で決めて、自分の人生を歩いてみたい」
「それが簡単ではないことは分かっているな」
「分かってる」
「公爵家には責任がある。お前一人の希望だけで決められないこともある」
「それも分かってるよ」
リゼの声が少し強くなる。
「でも、私の希望を聞かずに決めるのは違うと思う」
父親はすぐには答えなかった。
部屋に静けさが落ちる。
僕は二人の間に口を挟むべきではないと思い、黙っていた。
しばらくして、父親が僕に向き直った。
「ノア君」
「はい」
「君は、リゼのことをどう思っている?」
予想していなかった質問だった。
隣のリゼも、驚いたように父親を見ている。
「どう、とは……」
「友人として付き合っていることは聞いている。しかし、君たちは頻繁に会っているようだ」
「はい」
「リゼは公爵家の娘だ。君もそれは理解しているだろう」
「分かっています」
「身分の違いが、単なる肩書きだと思うのなら、それは間違いだ。彼女が何かを選べば、その選択は彼女だけでなく、この家にも影響する」
彼の言葉は冷静だった。
だからこそ、余計に重く感じた。
「君にそのつもりがなくても、彼女の将来を変えることになるかもしれない」
僕はすぐに答えられなかった。
リゼの父親は、そんな僕を見て続けた。
「私は、娘に不幸になってほしくない。それだけは理解してほしい」
その言葉を聞いて、僕は彼がただ僕を遠ざけたいわけではないのだと感じた。
彼は彼なりに、娘の未来を考えている。
ただ、その考えの中に、リゼ自身の望みがどれほど含まれているのかは分からなかった。
「お父様」
リゼが口を開いた。
「私はノアといるとき、楽しいよ」
「それは知っている」
「ノアは私のことを公爵令嬢だからって特別扱いしない。私が何をしたいかを聞いてくれるし、私の話もちゃんと聞いてくれる」
彼女は一度、僕を見た。
「だから、一緒にいたいと思うの」
「リゼ」
「でも、今すぐ何かを決めてほしいわけじゃない。ノアに何かを約束させたいわけでもない」
彼女は父親へ向き直った。
「ただ、私が誰と会うかくらい、自分で決めさせてほしい」
父親は目を閉じ、短く息を吐いた。
「……お前は昔から、頑固だな」
「お父様に似たんじゃない?」
「そうかもしれないな」
ほんの一瞬、彼の表情が和らいだ。
けれど、すぐに元の真剣な顔に戻る。
「ノア君。今日は来てくれてありがとう」
「いえ」
「一つだけ言っておく。私は君を友人として迎えることを拒んではいない。ただ、今後のことまで簡単に認めるつもりもない」
「分かりました」
「それでも、君たちが何を考え、どのように行動するのかは見ていこう」
それは許可でも、拒絶でもなかった。
今までより少しだけ、前に進んだ。
そんな気がした。
応接室を出ると、リゼは廊下で小さく息を吐いた。
「ごめんね」
「何が?」
「お父様に、あんなことを聞かせて」
「別にいいよ」
「嫌じゃなかった?」
「少し緊張したけどね」
「そうだよね」
彼女は申し訳なさそうに笑った。
僕は庭園の方へ歩きながら言った。
「でも、少し分かった気がする」
「何が?」
「リゼのお父さんが、どうしてあんなに厳しいのか」
リゼは黙って僕の隣を歩いた。
「娘のことを大切に思っているんだろうな。ただ、守ろうとする方法が少し違うだけで」
「……うん」
「それに、リゼもちゃんと自分の考えを伝えていた」
「伝えても、すぐには変わらないけどね」
「それでも、言わないよりはいいだろ」
リゼは少しだけ笑った。
「ノアって、そういうところはお父様に似ているかも」
「それは褒めてる?」
「どうだろう」
庭園の出口に着くと、セドリックが待っていた。
帰りの馬車が用意されている。
「お嬢様、そろそろお時間です」
「分かった」
リゼは馬車に乗る前に、僕の方を向いた。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。いい庭園だった」
「また来てね」
「招待してくれるなら」
「もちろん」
彼女は馬車に乗り込んだ。
扉が閉まる直前、リゼが窓から顔を出す。
「ノア!」
「何?」
「私、諦めないからね!」
何を、とは聞かなかった。
馬車が動き出し、彼女の姿が少しずつ遠ざかっていく。
僕はその場に残り、しばらく馬車を見送っていた。
その日から、少しずつ変化が始まった。
リゼが宿に来る回数は、以前より減った。
理由は聞いていない。
ただ、彼女が来るたびに、以前よりも疲れた顔をしていることがあった。
ある日には、舞踏会の準備があると言っていた。
別の日には、家の仕事を覚えなければならないと話していた。
それでも、彼女は会いに来た。
そして、僕も少しずつ考えるようになった。
いつまでも、今のままでいいのだろうか。
リゼにはリゼの世界がある。
僕には僕の生活がある。
今は偶然、同じ時間を過ごせている。
けれど、何もしなければ、いつかその距離は自然に広がってしまうのかもしれない。
そんなことを考えていた、ある日の夕方。
宿の扉が勢いよく開いた。
「ノア!」
そこに立っていたのは、リゼだった。
息を切らし、いつもの鞄を肩にかけている。
「どうしたんだ?」
彼女は一度、呼吸を整えた。
そして、僕の目をまっすぐに見た。
「私、王都の外にある学校に行きたい」
「学校?」
「うん。貴族の子供たちが通う、王立学院。来年から入学できるの」
「それは……すごいな」
「でも、お父様は反対している」
「どうして?」
「卒業後のことも含めて、もう家の方で決めておきたいんだと思う。私が学院へ行けば、今まで以上に自分で考えて行動するようになるから」
リゼは鞄の紐を握りしめた。
「でも、私は行きたい。いろいろな人と出会って、もっと勉強して、自分の知らないことを知りたい」
「それで、お父さんには話したの?」
「話したよ。でも、まだ答えは出ていない」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「ねえ、ノア」
「うん」
「もし私が王都を離れたら……寂しい?」
その質問に、僕はすぐには答えられなかった。
彼女がどんな答えを望んでいるのか、考えたわけではない。
ただ、自分の気持ちを誤魔化したくなかった。
「寂しいと思う」
リゼの指が、鞄の紐を握る力を少し緩めた。
「そっか」
「でも、リゼが行きたいなら、行った方がいい」
「……そう言ってくれるんだ」
「行かないでほしいって言ったら、行かないのか?」
「それは……分からない」
「だったら、自分で決めた方がいい」
リゼは僕を見つめた。
その瞳には、迷いと、ほんの少しの安心が混ざっていた。
「ありがとう」
彼女は小さく笑った。
「私、ちゃんとお父様と話してみる」
「うん」
「今度こそ、自分の言葉で」
その日のリゼは、いつもより長く宿にいた。
帰る頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
彼女を見送った後、僕は食堂の椅子に腰を下ろした。
王立学院。
もし彼女がそこへ行けば、今までのように気軽に会うことは難しくなる。
それでも、彼女には行ってほしいと思った。
彼女が望む未来を、僕の都合で狭めたくはなかった。
そして初めて、僕自身も考えた。
僕は、これからどう生きたいのだろう。
誰かの選択を応援するだけでなく、自分の未来についても、そろそろ決めなければならないのかもしれない。
*
数日後、僕は夕食を終えたあと、両親にリゼのことを話した。
「そういえば、リゼが王立学院を受験することになったんだ」
母は食器を片付ける手を止めた。
「あら。前に本人から聞いたわ。学院に行きたいって話していたものね」
「うん。今日、正式に受験の許可をもらえたって教えてくれた」
「そう。それはよかったわね」
母は穏やかに頷いた。
「でも、あのお父様が許してくださったのね」
「最初は反対していたらしいよ」
「そうだったの……」
母は少し考えるように目を伏せた。
「リゼさんも、きっと簡単には諦められなかったのでしょうね」
「そうだと思う」
「自分で決めた道なら、応援してあげなさい。あなたにできることがあるなら、力になってあげればいいわ」
「分かってる」
母はそれ以上、詳しく尋ねなかった。
父は少し離れた席で、食後のお茶を飲んでいた。
「ノア」
「何?」
「お前は、自分のことを考えているか?」
「自分のこと?」
「リゼさんの進路については、ずいぶん考えているようだがな」
父は湯飲みを置いた。
「お前自身はどうしたい?」
すぐには答えられなかった。
「まだ分からない」
「そうか」
父は責めるでもなく、短く頷いた。
「なら、考え続ければいい。焦って決める必要はない」
そう言って父は、奥の棚から一冊の古い帳簿を持ってきた。
「これは?」
「俺がこの宿を継いだ頃の帳簿だ」
表紙は擦り切れ、角も丸くなっている。ページを開くと、細かな数字や客の名前がびっしりと書き込まれていた。
「最初から上手くいったわけじゃない。仕入れを間違えたこともあるし、客が来なくて困った時期もあった」
「父さんにもそんな時期があったんだ」
「当たり前だろう」
父は少し笑った。
「誰かの後を継ぐというのは、ただ同じことを続けることじゃない。自分で考えて、変えるところは変えていく。そうしなければ、いつか立ち行かなくなる」
僕は帳簿を見つめた。
「お前がこの宿を継ぐかどうかは、まだ決めなくていい。俺はお前に継いでほしいと思っているが、それを理由にお前の人生を決めるつもりはない」
「……うん」
「自分で選べ。その選択に責任を持てるようにな」
父の言葉は、以前にも聞いたことがあるような気がした。
けれど、今は少し違って聞こえた。
自分で選ぶ。
簡単なようで、難しいことだった。
リゼは、自分の望む未来へ進もうとしている。
なら、僕もいつまでも迷っているわけにはいかない。
すぐに答えを出せなくてもいい。
せめて、自分が何を望んでいるのかを知りたいと思った。
*
翌日、リゼが宿を訪ねてきた。
「ノア!」
入口から聞こえた声に振り返ると、彼女がいつもより明るい表情で立っていた。
「どうしたの?」
「聞いて。お父様が許してくださったの」
「王立学院のこと?」
「そう!」
リゼは嬉しそうに頷いた。
「受験することを認めてもらえたの。まだ合格したわけではないけれど、ようやく一歩進めたわ」
「よかったね」
「ありがとう」
彼女は胸の前で両手を握った。
「これから勉強しなくちゃ。今まで以上に忙しくなると思う」
「無理はしないようにね」
「分かっているわ」
そう答えたあと、リゼは少しだけ表情を変えた。
「それで、ノア。あなたはどう?」
「どうって?」
「自分の将来。何か考えた?」
僕は少し考えてから答えた。
「まだ決まっていない。でも、知りたいことはできた」
「知りたいこと?」
「この街の外に、どんな場所があるのか。どんな人たちが暮らしているのか。商人の話を聞いたり、地図を見たりしていたら、もっといろんな場所を見てみたくなった」
リゼの目が輝いた。
「それって、旅をしたいということ?」
「そうかもしれない。でも、旅を仕事にしたいのか、ただ自分で見て回りたいのかは分からない」
「いいじゃない。少しずつ考えていけば」
「君に言われると、なんだか説得力があるな」
「私はもう決めたもの」
リゼは誇らしげに胸を張った。
「だから、あなたも見つけてね。あなたが本当にやりたいこと」
「分かったよ」
彼女は満足そうに笑った。
「いつか、お互いの夢について話しましょう」
「そのときまでに考えておく」
「約束よ」
彼女が差し出した小指に、僕も自分の小指を絡めた。
彼女は自分の未来へ進み始めた。
僕も、まだ見つかっていない自分の道を探し始めようと思った。
* * *
その日、リゼはいつもより早く宿を訪れた。
「こんにちは、ノア」
「今日は早いね」
「学院の勉強を少し早めに切り上げたの」
「もうそんなに頑張っているんだ」
「試験を受けると決めた以上、できることはしておきたいもの」
彼女はそう言って、いつもの席に腰を下ろした。
僕は厨房から母が用意したお茶を二つ運ぶ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
リゼはカップを手に取り、少し冷ましてから口をつけた。
「そういえば、最近お父様が忙しそうなの」
「仕事?」
「ええ。王都の貴族たちが集まる会合が続いているみたい。詳しいことは教えてくれないけれど」
「公爵家も大変なんだね」
「そうね。でも、私には少し退屈な話ばかりよ」
「聞いてもいないのに?」
「聞かなくても分かるの。家のことや、領地のことや、誰と誰がどうしたとか」
リゼは頬杖をついた。
「私のことも、きっと話題になっているのでしょうね」
「学院のこと?」
「それもあるでしょうし……あなたのことも」
思わず手が止まった。
「僕?」
「ええ。公爵家の娘が、宿屋の息子と親しくしているんだもの」
「それは、あまりいい話題じゃなさそうだ」
「私は気にしていないわ」
「君が気にしていなくても、周りはそうじゃないかもしれない」
「だからといって、会うのをやめるつもりはないもの」
彼女は迷いなく言った。
その言葉に、僕は返事をしなかった。
嬉しくないわけではない。
ただ、彼女が自分の立場を理由に、誰かから何かを言われることは望んでいなかった。
「リゼ」
「何?」
「無理はしないでね」
「それはあなたもよ」
彼女は微笑んだ。
その日は、それ以上特別な話をしなかった。
いつものように本の話をして、学院の勉強について少し聞いて、帰り際には次に会う約束をした。
それが、僕たちにとって最後の何気ない午後になるとは思いもしなかった。
*
数日後。
宿の仕事が一段落した頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「ノア、今日はもう休んでいいぞ」
父が帳簿を閉じながら言った。
「手伝わなくていいの?」
「十分働いてもらった。明日の朝も早いんだからな」
「分かった」
母に声をかけてから、僕は宿を出た。
いつも通る道だった。
夕食の匂いが残る商店街を抜け、街灯の少ない通りへ入る。遠くから馬車の音が聞こえ、石畳に車輪の音が響いていた。
そのときだった。
「すみません」
背後から声をかけられた。
振り返ると、見覚えのない男が立っていた。
「少し、お尋ねしたいことがあるのですが」
「何でしょう?」
「ノアという青年をご存じですか」
「僕ですけど」
男の表情が、ほんのわずかに変わった。
「そうですか。少しお話を伺いたいのですが」
「何の話です?」
「お知り合いの方についてです」
男は丁寧な口調だった。
だが、その目は笑っていなかった。
「ここでは少し話しにくいので、場所を移してもよろしいでしょうか」
「誰のことか、先に教えてください」
男は一瞬だけ沈黙した。
「リゼ様です」
その名前を聞いた瞬間、警戒心が強くなった。
「リゼに何か?」
「詳しいことは、こちらで」
「ここで話してください」
僕がそう答えると、男の後ろからもう一人の男が現れた。
その人物も、同じように落ち着いた服装をしていた。
だが、二人の立ち位置が気になった。
偶然そこにいた人間の立ち方ではなかった。
「申し訳ありません。少々、ご同行願います」
「嫌です」
男たちの表情が変わる。
「あなたに危害を加えるつもりはありません」
「なら、ここで話せばいいでしょう」
返事はなかった。
次の瞬間、周囲の気配が変わった。
僕はそこで初めて、自分が普通の話し合いに呼ばれたわけではないと理解した。
*
翌朝。
「ノアはまだ寝ているの?」
母が父に尋ねた。
「いや、部屋にはいなかった」
「外に出たのかしら」
「昨日は疲れていたから、早く帰ると言っていたんだがな」
父は玄関を確認した。
ノアの靴はなかった。
最初は、少し遅くなるだけだと思っていた。
しかし、昼になっても帰ってこなかった。
いつものように市場へ行ったのか。図書館へ寄ったのか。それとも、誰かに呼ばれたのか。
父は知り合いの商人に尋ね、母は宿を訪れる客に息子を見なかったか聞いた。
けれど、誰もノアの行方を知らなかった。
夕方になっても、彼は戻らなかった。
「あなた……」
「ああ」
父の表情から、いつもの余裕が消えていた。
「探そう。警備隊にも話をする」
母は何も言わず、ノアが普段使っていた椅子を見つめていた。
その夜、宿の食卓には、いつもより一人分少ない食事が並んだ。
*
リゼが異変を知ったのは、その翌朝だった。
いつものように宿へ向かう途中、街の人々が何かを話しているのが聞こえた。
「昨夜から戻っていないらしい」
「警備隊にも届けたそうだ」
「まさか、何か事件に巻き込まれたんじゃ……」
彼女は足を止めた。
聞き覚えのある宿の名前が出たからだ。
「すみません。今の話は、どこの宿のことですか?」
話していた女性が振り返る。
「あなた、知らないの? あの宿の息子さんが帰ってこないんですって」
リゼの顔から、表情が消えた。
「……ノア?」
「ええ、確かそんな名前だったわ」
彼女は返事をしなかった。
ただ、宿へ向かって走り出した。
扉を開ける。
「ノアは?」
父親が顔を上げた。
その表情を見た瞬間、リゼは答えを理解してしまった。
「まだ、見つかっていない」
「いつからですか」
「一昨日の夜からだ」
「警備隊には?」
「届けた。知り合いにも頼んで捜している」
リゼは唇を結んだ。
「私も捜します」
「お嬢さん、無理をしないでください」
「無理ではありません」
彼女は顔を上げた。
「ノアは、私の大切な友人です」
その声は震えていた。
けれど、彼女は目を逸らさなかった。
「私にできることをします」
そして彼女は、初めて自分の家の力を使うことを決めた。
*
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、ひどい頭痛だった。
ゆっくりと目を開ける。
見知らぬ天井。石造りの壁。窓はなく、部屋の隅に小さな燭台が置かれている。
僕は床に座らされていた。
両手は自由だったが、扉には外側から鍵がかけられているらしい。
「……ここはどこだ」
返事はない。
最後に覚えているのは、帰り道で声をかけられたことだ。
リゼの名前を出された。
それから、もう一人男が現れて。
そこまで考えて、僕は息を吐いた。
どうやら本当に連れてこられたらしい。
なぜ僕なのか。
金銭目的なら、宿屋の息子である僕を選ぶ理由は薄い。家に身代金を要求するつもりなら、すでに何らかの連絡があってもおかしくない。
それに、あの男たちは最初にリゼの名前を出した。
考えたくはなかったが、理由は一つしか思い浮かばなかった。
僕とリゼの関係だ。
そのとき、扉の向こうから足音が聞こえた。
鍵が回る。
入ってきたのは、昨日の男だった。
「目が覚めましたか」
「ここはどこです?」
「今は知らない方がいいでしょう」
「僕をどうするつもりですか」
男はすぐには答えなかった。
「あなたには、少しの間ここにいていただきます」
「誰の命令です?」
「それを知る必要はありません」
「リゼが関係しているんでしょう」
男の視線が、わずかに動いた。
それだけで十分だった。
「彼女に何をするつもりですか」
「何もしません」
「信じろと?」
「少なくとも、あなたがここで騒がなければ、彼女に危害が及ぶことはないでしょう」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
脅しだった。
僕が抵抗すれば、リゼに何かをする。
そういう意味にしか聞こえなかった。
「……あなたたちは、何を望んでいるんです」
「あなたが彼女のそばから離れることです」
男は淡々と言った。
「リゼ様は、公爵家のご令嬢です。あなたとは立場が違う」
「そんなことは分かっています」
「ならば、理解できるでしょう」
「分かっていることと、納得することは違います」
男は僕を見つめた。
しばらく沈黙が続いたあと、彼は小さく息を吐いた。
「あなたは、自分の立場を理解していない」
「それはそちらも同じでしょう」
男の表情が、初めてわずかに険しくなった。
「どういう意味です?」
「本当にリゼのことを考えているなら、こんなことはしない」
男は何も答えなかった。
そして、扉の外にいる者へ短く指示を出し、部屋を出ていった。
鍵の音が響く。
僕は再び一人になった。
ここから出る方法は分からない。
それでも、一つだけはっきりしていた。
リゼには、絶対に知られたくない。
いや、もう知られているのかもしれない。
彼女が今どんな顔をしているのか、考えないようにした。
*
公爵家の屋敷。
リゼは父親の執務室にいた。
「もう一度、説明してください」
父親は机の上に置かれた報告書を見ていた。
「ノアという青年が行方不明になった。警備隊が捜索しているが、まだ手がかりはない」
「それは知っています」
「なら、なぜ私のところへ来た」
「お父様なら、調べられることがあるはずです」
「あるだろうな」
父親は静かに答えた。
「だが、君が思っているほど簡単ではない。王都には多くの人間がいる。貴族も商人も、我々の知らないところで動いている者もいる」
「それでも、何もしないわけにはいきません」
「何もしないとは言っていない」
「では、お願いします」
リゼは深く頭を下げた。
父親は娘を見つめた。
「君は、その青年をどう思っている?」
予想していなかった質問に、リゼは顔を上げた。
「大切な人です」
「友人としてか」
リゼは答えなかった。
答えられなかった。
父親は、その沈黙を見て目を伏せた。
「分かった。私の方でも調べよう」
「ありがとうございます」
「ただし、君自身が危険な場所へ行くことは認めない」
「でも――」
「これは命令だ」
厳しい声だった。
リゼは拳を握った。
それでも、今は父親の力が必要だった。
「……分かりました」
父親は執務机の引き出しから、小さな封筒を取り出した。
「これを持っていきなさい」
「これは?」
「王都の警備隊長に宛てた紹介状だ。君が直接捜査に関わることはできなくても、情報を受け取ることはできる」
リゼは封筒を受け取った。
「お父様」
「何だ」
「ノアは、何も悪いことをしていません」
「分かっている」
「ただ、私と一緒にいただけなんです」
父親はしばらく黙っていた。
「……それが理由なら、なおさら許せないな」
その言葉の意味を、リゼはまだ理解できなかった。
*
同じ頃。
公爵家の屋敷から少し離れた邸宅で、一人の男が報告を受けていた。
「対象は確保しました」
「そうか」
「公爵令嬢には、まだ知られていないと思われます」
「それは時間の問題だろう」
男は窓辺に立ち、王都の街並みを眺めていた。
「公爵家の娘が平民の青年と親しくしている。噂になれば、面倒なことになる」
「青年を解放するご予定は?」
「まだだ」
男は振り返った。
「彼女が自分の立場を理解するまで、少し時間を与えればいい」
「しかし、相手は公爵家です。発覚すれば――」
「分かっている」
男は報告書を閉じた。
「だからこそ、余計なことはするな。青年を傷つける必要もない。彼が自ら身を引けば、それで済む話だ」
「承知しました」
男は再び窓の外を見た。
その視線の先には、公爵家の屋敷があった。
*
夜。
リゼは自室の机に向かっていた。
目の前には、ノアから以前借りた本が置かれている。
返すつもりで持ってきたものだった。
その本を開くと、ページの間から小さな紙片が落ちた。
拾い上げる。
そこには、ノアの字で短い言葉が書かれていた。
『いつか、知らない町を一緒に見に行こう』
リゼは紙片を両手で包んだ。
「……約束したじゃない」
返事はなかった。
窓の外では、王都の灯りが一つずつ消えていく。
彼女は紙片を胸元にしまった。
そして、翌朝になったらもう一度父親のもとへ行こうと決めた。
今度は、ただ助けを求めるのではない。
自分にできることを、自分の手で探すために。
*
翌朝、リゼは父の執務室を訪れた。
「お父様、お願いがあります」
「昨日も聞いたはずだ。捜索はこちらで進めている」
「それだけでは足りません」
父は書類から目を上げた。
「何が言いたい?」
「ノアがいなくなってから、もう何日も経っています。警備隊の捜索を待っているだけでは、間に合わないかもしれません」
「焦る気持ちは分かる。だが、焦って動けば相手の思うつぼになる」
「相手……?」
リゼの表情が変わった。
「お父様は、誰かがノアを連れ去ったと考えているのですか?」
「その可能性が高い」
「どうして、それを私に言わなかったのですか」
「確証がなかった」
「今はあるのですか?」
父は机の上の書類を一枚取り出した。
「昨夜、警備隊から報告があった。ノアが最後に目撃された場所の近くで、不審な馬車が確認されている」
「馬車……」
「王都の外れに向かったらしい。だが、馬車の所有者は分かっていない」
「それを調べてください」
「すでに調べさせている」
父は少し間を置いた。
「それと、もう一つ分かったことがある」
「何ですか?」
「今回の件は、君とノアの関係を知る者による犯行である可能性が高い」
リゼは黙った。
「君が彼と親しくしていることを知っている人間は限られている。屋敷の者、社交界の人間、そして……」
「貴族の方々」
「そうだ」
父の声が低くなる。
「私は、君の交友関係を理由に誰かを疑いたくはない。だが、可能性を排除するわけにもいかない」
「お父様」
「何だ」
「ノアを連れ去った人たちは、私に何をさせたいのでしょう」
「それを調べている」
「私が彼と会わなくなれば、ノアを返してくれるのでしょうか」
「まだ分からない」
リゼは机の端を握った。
「もしそうなら、私は……」
「リゼ」
父が言葉を遮った。
「君が何を差し出すかを、相手に決めさせてはいけない」
その言葉に、リゼは顔を上げた。
「彼を助けることと、君自身の未来を捨てることは違う。そこを間違えるな」
「……はい」
「もう少し待ちなさい。必ず手がかりを見つける」
リゼは頷いた。
けれど、心の中では決めていた。
待つだけにはしない。
*
ノアは、部屋の中で時間を数えていた。
窓がないため、外の明るさは分からない。食事が運ばれてくる回数と、見張りの足音を頼りにするしかなかった。
食事は一日に二度。
見張りは交代制らしく、同じ声の男が続けて来ることはなかった。
連れ去られてから、どれくらい経ったのだろう。
少なくとも、数日は過ぎている。
扉の向こうから足音が聞こえた。
鍵が開き、男が入ってくる。
「具合はどうですか」
「おかげさまで、快適とは言えません」
「余計なことを言わない方がいい」
「質問に答えてもらえないなら、話すこともありません」
男は食事を置いた。
そのとき、ノアは男の袖に付いた小さな汚れに気づいた。
灰色の粉のようなものだった。
この建物に来てから、何度か同じものを見ている。
石の粉だろうか。
男が出ていこうとしたとき、ノアは声をかけた。
「ここは王都の外ですか?」
「答える必要はありません」
「なら、一つだけ教えてください」
「何です?」
「リゼは無事なんでしょうね」
男は足を止めた。
「今のところは」
「今のところ?」
「あなたが余計なことをしなければ、問題は起きません」
男は扉を閉めた。
ノアは食事に手をつけず、しばらく考え込んだ。
相手はリゼに危害を加えるつもりはないと言っている。
少なくとも、今は。
つまり、彼女を傷つけることそのものが目的ではない。
僕を利用して、彼女に何かを諦めさせようとしている。
問題は、その先だ。
リゼに何を諦めさせたいのか。
そして、なぜ僕を選んだのか。
*
公爵家の屋敷では、父親のもとに一人の執事が訪れていた。
「旦那様、調査の結果が出ました」
「話せ」
「問題の夜、王都の北門を通過した馬車が一台あります。登録上は、ヴァルデン伯爵家の所有物でした」
父の目が細くなった。
「ヴァルデン家か」
「はい。馬車は北の旧街道を進み、現在は使われていない石材倉庫の近くで目撃されています」
「なぜ、そこまで分かった?」
「街道沿いの宿で、馬車を見た者がおりました。乗っていた者の顔までは確認できていませんが、御者の特徴が一致しています」
「伯爵本人が関与している証拠は?」
「まだございません。ただ、馬車を動かした使用人が、現在屋敷から姿を消しています」
父は椅子から立ち上がった。
「警備隊に伝えろ。石材倉庫を調べる」
「承知しました」
「それから、ヴァルデン伯爵に知られないように動け」
「よろしいのですか?」
「証拠がないまま相手を問い詰めても、逃げ道を与えるだけだ」
執事が退室したあと、父は窓の外を見た。
ヴァルデン伯爵。
王都の古い貴族であり、社交界では穏健な人物として知られている。
しかし、数年前から公爵家との距離を縮めようとしていた。
その理由も、父には分かっていた。
伯爵家には、まだ結婚していない息子がいる。
そして以前から、リゼとの縁談を望んでいた。
「まさか、そこまでしたか……」
父の声は、誰にも届かなかった。
*
その日の夕方、リゼは父の執務室に呼ばれた。
「ノアの居場所が分かったかもしれない」
「本当ですか?」
「ああ。北の旧街道にある石材倉庫だ」
リゼは立ち上がった。
「すぐに行きます」
「待ちなさい」
「でも!」
「警備隊が先に向かう。君はここにいなさい」
「また待つのですか」
「相手が何人いるか分からない。君が行けば、かえって危険になる」
「ノアがそこにいるかもしれないのに?」
父は答えなかった。
リゼの目には、強い不安が浮かんでいた。
「お父様。私は、もう誰かに決められた道を歩きたくありません」
「分かっている」
「ノアのことも、私が自分で大切だと思った人です。誰かに離れろと言われたからといって、離れることはできません」
「……」
「お願いします。私も連れていってください」
父は長い沈黙のあと、執事に目を向けた。
「馬車を用意しろ。ただし、警備隊の後方につけ。私も同行する」
「お父様も?」
「私の娘が関わっている事件だ。最後まで見届ける」
リゼは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。ノアを無事に連れ戻すまで、何も終わっていない」
*
夜が訪れた。
ノアは扉の前に座っていた。
遠くで、何かが動く音がする。
いつもと違う。
足音が増えている。
男たちの声も聞こえた。
「予定が変わった」
「どうする?」
「ここには置いておけない。別の場所へ移す」
ノアは顔を上げた。
移される。
つまり、誰かがこの場所を調べ始めたのかもしれない。
扉の向こうで、鍵を開ける音がした。
入ってきたのは、これまでとは違う男だった。
「立て」
「どこへ行くんです?」
「黙って歩け」
ノアは立ち上がった。
廊下へ出ると、石造りの壁の向こうから冷たい風が吹いてきた。
その先に、外へ続く扉が見える。
そして、男の腰には見慣れない紋章が刻まれた金具が付いていた。
馬車に刻まれていたものと同じなのかもしれない。
ヴァルデン。
その名前を、ノアはまだ知らなかった。
ただ、ここから移されれば、二度とリゼのもとへ戻れなくなる。
そんな予感だけがあった。
そのとき、建物の外から馬のいななきが聞こえた。
続いて、男の一人が叫ぶ。
「誰か来たぞ!」
男の声が響いた。
僕は扉の向こうに意識を向けた。複数の足音。馬のいななき。誰かが短く指示を出す声。
近づいている。
けれど、それが誰なのかは分からなかった。
助けが来たのかもしれない。
あるいは、僕を別の場所へ移すために、誰かが迎えに来ただけなのかもしれない。
どちらにしても、今の僕にできることはなかった。
手首には縄の跡が残っている。何度か扉を試したが、外から鍵が掛けられていた。窓もない。壁は厚く、声を上げても届くかどうか分からない。
そのとき、廊下で何かが倒れる音がした。
続いて、怒鳴り声。
「王都警備隊だ! 抵抗するな!」
僕は息を止めた。
王都警備隊。
本当に、誰かが来てくれたのか。
扉の向こうで慌ただしい足音が行き交う。男たちの声が重なり、やがて一つが遠ざかっていった。
そして、鍵の回る音がした。
扉が開く。
「ノア!」
最初に聞こえたのは、彼女の声だった。
「……リゼ?」
そこに立っていた。
いつもの服とは違う、少し乱れた格好。息を切らし、こちらを見つめている。
その後ろには、見覚えのある壮年の男性がいた。
リゼの父親だ。
「ノア!」
リゼが駆け寄ってくる。
「大丈夫? 怪我はない? どこか痛いところは?」
「大丈夫。少し閉じ込められていただけだから」
そう答えたものの、声が思ったよりかすれていた。
リゼは僕の手首を見て、唇を結んだ。
「ごめんなさい……私のせいで」
「それは違う」
考えるより先に言葉が出た。
「リゼが謝ることじゃない」
「でも……」
「それより、どうしてここが?」
「お父様が調べてくださったの。馬車のことも、ここにいる人たちのことも」
僕はリゼの父親を見た。
彼は僕の様子を一度確かめると、静かにうなずいた。
「詳しい話は後だ。まずはここを出る」
その声には、いつもの厳しさがあった。
ただ、僕を見る目は以前とは少し違っていた。
「歩けるか」
「はい」
「なら、私の後ろに。リゼもだ」
リゼは僕のそばを離れようとしなかった。
「リゼ」
父親が呼ぶ。
「今は指示に従いなさい」
「でも、ノアが……」
「彼を連れて帰るために来た。ここで君まで危険にさらすわけにはいかない」
リゼは一瞬だけ迷い、それから僕を見た。
「すぐそばにいるから」
「分かった」
僕たちは部屋を出た。
廊下には警備隊の人たちが数人いて、床に座らされた男たちを見張っていた。彼らの中に、僕を連れてきた二人の姿もあった。
そのうちの一人が僕に気づくと、顔を伏せた。
もう一人は、何か言いたげにこちらを見ていたが、警備隊員に肩を押さえられていた。
「この者たちは?」
リゼの父親が尋ねる。
「確保しました。ほかにも数名、敷地の外で見張りをしていた者がいます」
「指示を出した者は?」
「奥の部屋にいるはずです」
そのときだった。
廊下の奥から、落ち着いた声が聞こえた。
「これはこれは。公爵閣下自らお越しになるとは」
一人の男が姿を現した。
整った服装に、手入れの行き届いた髪。ここにいる男たちとは明らかに違う身なりだった。
僕はその顔を知らない。
けれど、リゼの父親の表情がわずかに変わった。
「ヴァルデン伯爵」
その名前を聞いて、ようやく思い出した。
馬車に刻まれていた紋章。
男たちの会話に出てきた貴族の名前。
この人が、今回のことに関わっているのか。
「何の用で、ここに?」
「誤解があるようですな。私はただ、少々困った問題を解決しようとしていただけです」
「人をさらっておいて、困った問題ですか」
リゼの父親の声は低かった。
伯爵は僕に目を向けた。
「君がノア君か」
答える気にはなれなかった。
「君も分かっているだろう。リゼ様とは住む世界が違う。彼女には彼女にふさわしい未来がある」
「その未来を、あなたが決めるのですか」
リゼが口を開いた。
「私のことを、勝手に決めないでください」
「リゼ様。私はあなたの将来を案じているのです」
「私の将来を案じている人が、どうしてノアを連れ去るのですか」
伯爵は少しだけ目を細めた。
「彼が身を引けば、誰も傷つかずに済む。私はそう考えただけです。彼を傷つけるような命令はしておりません」
「それなら、どうして彼はここにいるのですか」
返事はなかった。
伯爵は一度、リゼの父親へ視線を移した。
「公爵閣下。これは貴族同士の問題として、穏便に――」
「貴族同士の問題ではない」
父親の言葉が、伯爵を遮った。
「一人の人間を本人の意思に反して連れ去った。それだけで十分に問題だ」
「しかし、彼は平民です。公爵家の娘と親しくすることが、どれほどの影響を持つか――」
「その話は、もう聞いた」
父親は一歩前に出た。
「娘の将来を案じることと、娘の意思を踏みにじることは違う。私はそれを混同しない」
リゼが父親を見た。
その表情には驚きがあった。
僕も同じだった。
以前、庭で話したとき、彼は僕たちの関係を認めてはいなかった。少なくとも、簡単に認めるつもりはないと言っていた。
けれど今は、僕を連れ去った相手の前に立っている。
「警備隊長」
父親が呼んだ。
「伯爵を含め、関係者全員の身柄を確保しろ。調査は正式な手続きに従って進める」
「承知しました」
伯爵の表情が初めて崩れた。
「お待ちください。私の家には王都の有力者も――」
「その話も、調査の中で明らかになるだろう」
警備隊員が伯爵のそばへ進んだ。
その瞬間、廊下の反対側で大きな物音がした。
「逃げたぞ!」
誰かが叫んだ。
僕たちが振り向くと、奥の部屋から男が飛び出してきた。警備隊員の制止を振り切り、廊下を走ってくる。
その進路の先に、リゼがいた。
「リゼ!」
僕は考えるより先に動いていた。
彼女の腕を引き、自分の後ろへ押しやる。
男がこちらを見た。
その手に何かが光った。
次の瞬間、警備隊員が男に飛びかかった。男はよろめき、廊下の壁にぶつかる。
だが、混乱の中で別の影が動いた。
伯爵のそばにいた男だった。
彼は逃げ道を探すように周囲を見回し、警備隊員の隙を見て走り出した。
「止まれ!」
誰かの声が響く。
僕はリゼをかばうように振り返った。
そのとき、鋭い衝撃が体を襲った。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
音が遠くなる。
足元が揺れ、僕の体から力が抜けた。
「ノア!」
リゼの声がした。
彼女が僕を支えようとする。
床に倒れる前に、誰かが僕の肩を支えた。警備隊員だったのか、リゼの父親だったのか、よく分からない。
「医師を! 早く!」
誰かが叫んでいる。
僕はリゼの顔を見た。
彼女は僕の手を握っていた。
「ノア、しっかりして。お願い、目を閉じないで」
「……大丈夫」
そう言おうとした。
でも、うまく声にならなかった。
リゼの頬に涙が伝っていた。
「大丈夫じゃないよ……」
彼女の声が震えている。
僕は、どうにか手を動かした。
彼女の手を握り返す。
「見つけてくれて……ありがとう」
「そんなこと言わないで」
「リゼ」
「話さないで。今、医師が来るから。すぐに帰れるから」
彼女は何度もそう繰り返した。
僕はその言葉を聞きながら、ぼんやりと天井を見ていた。
王都の図書館。
宿屋の食堂。
市場の石畳。
丘の上から見た夕焼け。
セレスタの海。
どれも、つい昨日のことのようだった。
「船に乗る約束……」
僕がつぶやくと、リゼは強くうなずいた。
「覚えてる。もちろん覚えてるよ」
「まだ……行ってないね」
「行こう。絶対に行こう。だから――」
彼女の言葉が途切れた。
僕は、少しだけ笑ったつもりだった。
「次は、もっと遠くまで行こう」
「うん。行こう。だから、ノア……」
リゼの手が震えていた。
僕はその手を離したくなかった。
まだ話したいことがあった。
聞きたいことも、見たい景色も、行きたい場所もあった。
自分の将来だって、まだ決めていない。
父さんの帳簿を見てから、少し考えていた。
宿屋を継ぐのか、それとも外の世界を見に行くのか。
いつか決めればいいと思っていた。
いつか。
その「いつか」が、こんなにも遠いものになるなんて思わなかった。
「ノア!」
リゼの声が聞こえる。
僕は彼女の手を握っていたはずなのに、指先の感覚が少しずつ薄れていった。
「リゼ……」
「ここにいるよ。ずっとここにいるから」
「……よかった」
何がよかったのか、自分でも分からなかった。
ただ、最後に見た彼女の顔が、泣いていたことだけは覚えている。
それから先のことは、もう分からない。
⸻
「ノア!」
リゼの声だけが、何度も響いていた。
医師が到着したのは、それから間もなくのことだった。
警備隊員たちは周囲を離れさせ、伯爵と関係者を拘束した。公爵はその場を取り仕切りながら、何度も医師に状況を尋ねた。
だが、医師の表情は変わらなかった。
彼は静かに首を横に振った。
リゼには、その意味が分からなかった。
分かりたくなかった。
「もう一度、診てください」
「リゼ様……」
「もう一度です。まだ何かできるはずです」
医師は答えなかった。
彼女はノアの手を握り続けた。
ついさっきまで、確かに握り返してくれた手だった。
「ノア」
返事はない。
「ねえ、ノア」
図書館で初めて会ったとき、彼は彼女の求婚を断った。
市場では、迷子の子どもを一緒に探した。
丘では、いつか船に乗ろうと約束した。
海を見たとき、彼は彼女の隣で静かに笑っていた。
まだ、何も終わっていないはずだった。
王立学院の試験も。
父親との話し合いも。
二人で決めるはずだった未来も。
全部、これからだった。
「……帰ろうよ」
リゼは小さく言った。
「宿屋に帰ろう。お母さんが待ってるよ。お父さんも、きっと話を聞いてくれる。だから……」
返事はなかった。
彼女は初めて、ノアの手がもう自分の手を握り返さないことを理解した。
その日、王都の空は晴れていた。
あまりにもいつも通りの空だった。
そして、ノアは帰らなかった。
第一章 いつか、海の向こうへ 終




