猫のおまじない〜社畜が3日間に猫になった結果〜
「今日も疲れた」
鬼の残業終わりの夜12時。フラフラの状態で僕は帰り道をひたすら歩いていた。
足音がアスファルトに吸い込まれ、街灯の影がレンの背中を追う。
いつもの路地裏を抜けると、見慣れないお店を見つけた。
「こんなところに、お店なんかあったかな?」
そこは、赤いレンガ造りの外観をしていた。看板には「営業中」とだけ書かれている。
店の前の庭には、見たことのない石がいくつも並べられていた。物静かに佇むその石から「中へお入り」と、手招きをしているような気がした。
レンは吸い込まれるように、扉に近づいていく。気づいたときには、ドアノブに手をかけてガチャリと扉を開けていた。
カランカラン。
そこには薄暗い場所の奥に、ポツンと電気の明かりが灯されているカウンターテーブルがあった。
前に進もうとしたが、その場所まで薄暗くて周りの様子がほとんど見えない。
客は誰もいない。店内に流れるジャズの音源が、聞こえるか聞こえないかくらいの音量でシャカシャカと流れている。
テーブルに置かれた2人の男女と猫の写真。
コーヒーの香りが店内を包み込み、僕はカウンター席に腰を下ろした。
「あ、あのぉ~...」
店員らしき人の姿はなかった。
ひたすらに周りをキョロキョロと左右、上下と見渡しても気配すら感じない。
レンは机の上に置かれたメニューを手に取ろうとした瞬間、背後から
「いらっしゃいませ、ようこそ喫茶店またたび へ」
不意に声を掛けられて、驚いたレンは腰掛けたイスから床に転げ落ちてしまった。
「イテテテ」
顔を上げると、そこにいたのは若い男だった。
サラサラした黒い髪に垂れた前髪、そこから見える瞳は澄んだ青い天色だった。
その目は瞬時に瞳孔が丸く開いた。
おそらく、この人がこの店の店主なのだろう。
「す、すみません!入ったら、誰もいなくて...」
慌てて身体を起こしながらイスへしがみついた。
店主は少し笑みを浮かべて
「いえ、足を運んでいただきありがとうございます。少々この店は特別、でしてね。」
「はぁ...」
「ところで、お客さんここは初めてで?」
「はい。歩いてたらここに辿り着いて。夜中でも開いているんですね。」
「言ったでしょう、お客さん。特別ってね。貴方はとても運がいいですよ」
「運がいい?」
「ええ、ではこのメニューをご覧ください」
広げて見てみると、
ただの喫茶店のメニューだった。
どこが特別なんだ? 何か特別な豆でも使っているのか?
「で、ではホットコーヒーを1つ」
レンは、無難に注文を済ませた。
「ありがとうございます。とっておきのを作って参ります」
そう言うと、深々とお辞儀をして、キッチンの方へと消えていった。
しばらくすると、
「お待たせ致しました」とコーヒーが置かれる。
コーヒーの香りがふわっと香る。
口にしたその時、コーヒーの香りと風味が同時に感じられた。啜っている間、まるで時間がゆっくり流れているような気がした。
苦味の奥に、缶コーヒーの薄い味がフラッシュバックした。
「ところで」店主が静かに呟いた
「ところでお客さん。なぜこのお店に入ろうと思ったんです?」
僕は驚いてコーヒーを口から吹き出しそうになった。
「いや、たまたま通りかかったら見慣れないお店があって、それで...」
「そうですか。何も知らずにここへ来られるとは」
不思議に思った僕は店主に質問をした。
「ここはどういったところなのでしょう?」
すると、パチリと瞬きをして店主は
「このコーヒーは普通のコーヒーではないのです。よく覗いてみてください」
レンはすぐさまコーヒーカップを両手に持ち、ゆっくりと覗いた。
「んー。よくわからないな」
そう答えると、ゆっくりと僕の隣に近づき、 耳元で店主が囁いた。
「おいしさは病みつきになる。またたびのように。ひとつのおまじないです。」
その時、目の前が一瞬真っ暗になった。
どこからか声が聞こえてくる。
「明日の君は、猫になる。君はこのニンゲンという世界に疲れすぎだ。もっと猫のようになりなさい。3日もすればそれはもう虜さ、またたびのようにね」
暗くなり僕の意識は無くなっていった。
僕は目を覚ますと、ソファーで寝ていたようだった。
「イテテテ、背骨が痛い...」
ぐぐぐと足を伸ばして伸びをする。
ここはいったいどこなんだろう。
立ちあがろうとしたその時、違和感があった。
目線が低くなっている?
立ち上がったつもりだが、テーブルは下から覗いている状態だった。
「気が付きましたか」
後ろで誰かが話しかけてきた声の方へ体を向けると、そこには黒猫が座っている。
「く、黒猫?」レンは驚いて目を大きく開けた。
「お忘れですか、あの時の店主ですよ」
黒猫は毛繕いしながら、あの時見た澄んだ天色の瞳を見せた。
「あ!あの時の...僕はどうなっちゃったの?」
動揺が隠せない僕は吃った声で黒猫に聞いた。
「言ったじゃないですか。おまじないですよ。3日間貴方は猫になれます。猫好きな飼い主がそろそろ戻ってきますので存分に甘えてください」
「甘える?そんな急に言われても困りますよ」焦りから知らぬ間に尻尾が垂れ下がっていた。
レンは鏡の前に立った。白と黒と茶色の三毛猫に変わっていた。
鏡の中の自分は人間時代の疲労の影が一瞬重なった。
トスントスントスン。誰かが階段から登ってくる音がした。
尻尾をくるんと上に上げて、様子を見た。
ドアから女の人が来た。サラサラな黒髪の女だった。
「あら、ダリルのお客さん?」と僕の首元をさすってきた。
(わわわわ!!なんだこの気持ちよさは!
もっと!もっとそれをやってくれ!!)
喉をゴロゴロと鳴らしながら自分の頭を彼女の手のひらに乗せた。
すると、彼女は嬉しそうにたくさん撫でてくれた。
(なんて気持ちいいんだ!こんなの初めてだ!)
猫になったレンはそれからもご飯をもらった。
食べたことがない、歯応えのあるものをもらった。意外と美味しかった。
レンは満足して寝転ぶ。そして、妙に眠たかった。
「どうですか、居心地は」
細い目から見えた黒猫が話しかけてきた。
「すごいところだ。こんな気分は初めてだよ。
あのご飯をくれたヤツはとても優しいんだ」
レンはそう答えた。
「それはよかったです。あれはニンゲンというものでしてね。ご飯が欲しかったら、鳴けば寄ってきますよ。ニンゲンは甘いですからね。自由にしててください時間は有限ですからね」と黒猫は牙をチラつかせてぴょんぴょんっと高いところへ行ってしまった。
あれから3日経った。
日中の大半を寝て飼い主の留守中もお気に入りの場所でうたた寝し、お腹がすいたらご飯をつまみ、のどが渇けば水を飲み、思い出したかのように毛づくろいをして、再びうたた寝をする生活をしていた。
1日目、窓辺の陽だまりに寝転がっていると、飼い主が帰ってきた。
彼女は買い物袋を下ろすと、すぐに僕の前にしゃがみ込み、
「ただいま、今日は早めに帰れたよ」と囁きながら、首の下をくすぐるように撫でた。
(うわっ…!またこの、背筋がゾクゾクする感覚…!)
思わず喉をゴロゴロ鳴らして、彼女の手のひらに頭を押し付けた。
彼女はくすっと笑い、「甘えん坊さん」と言いながら、缶詰を開けてくれた。
人間の頃は、誰かにこんな風に「ただいま」と言われることすらなかった。
2日目は、窓辺の陽だまりに丸くなった。
昼間なのに、瞼が重い。
外の世界を眺めると、向かいのビルのサラリーマンが慌ただしく歩いている。
(あんなに急いで、何のためだ?)
レンは尻尾をぴょんと立て、うたた寝に落ちた。
夢の中で、デスクが遠ざかっていく。
3日目の朝、彼女が「今日は遅くなるかも」と呟いた。
その声に、なぜか胸がチクッとした。
――僕が人間だった頃、誰かを「待つ」ことなんてなかった。
お腹がすいて鳴くと、彼女は缶詰を開け、
「寂しかったんだね、君も」と笑いながら頭を撫でてくれた。
(この温もり… ずっと続いてほしい)
でも、ふと鏡に映る自分――三毛猫の姿に、
人間だった頃の疲れた顔が重なった。
突然頭の中によぎった。
暑い中をひたすら歩いている。
「○○○!○○○○!!」
何か人間が、僕に大きな声で訴えている。
怒鳴り声が聞こえる...。胸が痛い...。動悸と吐き気が一気に押し寄せる。
地面をひたすら歩く。コンクリートと足元だけが見える。
部屋のシーンに切り替わり、何故か僕はたくさん泣いていた。
なんなんだこの記憶は...。夢に魘されているのか。
心臓がどくどくと強く波打っている。
「人間の暮らしは生きにくいだろう」
黒猫が突然やってきた。
「貴方はもともとニンゲンだった。はぁ、ニンゲンって本当に馬鹿ですよね。
あんなにたくさんいて群れて、毎回忙しくしてて、泣いたり怒ったり...変ですよ」
黒猫は座り直し、尻尾を丸める。
「私はね、実は昔はニンゲンが嫌いだったんですよ。僕が外を散歩しているとこう言うんだ。
うわ、黒猫だ。不吉。とね。
あっちいけと、罵声を浴びせられ、物を投げられたこともあった。私は恐怖に怯える日々で
食べ物もろくに獲ることもできず、カラスにつつかれていたところを彼女が助けてくれたんだ」
「あの、飼い主ですか?」
「ぁあ、そうです。手を差し伸べてくれた。でも私は彼女を爪で引っ掻いてしまった。
彼女は、血を流していても優しく包み込んでくれた。私は、悪魔と言われているのに、怪我をして倒れてる私を彼女はずっとずっとそばにいてくれた。」
続けて黒猫は話します。
「私は、彼女の家族に育てられた。私は充分に甘えた。何不自由なく過ごしてきた。
私はずっとあの家族をみていたんだ。
けど、彼女はずっと私といる以外では孤独でね。
1人で泣いてたりするんですよ、優しいニンゲンなのに、彼女は何故かいつも苦しそうだ。でも猫の私には何もできない」
「外の世界はきっと危険なのだろう。彼女は私を外に出したがらないからね。
ニンゲンというものはわからないね、もっと気楽に生きてはいけないものなのか」
僕は、ニンゲンの世界を知っている。
仕事に追われ、上司には理不尽に怒られる。僕はあまり人と関わるのは好きではない。そしてこの社会も好きではない。苦しかった。
息抜きできないこの世の中はどうかしてる。
彼女も何か悩んでいたのだろうか。
人間に戻れば何か彼女の助けになるかもしれない。
レンは、黒猫に言った。
「店主さん。僕をニンゲンに戻してくれませんか。僕、彼女に会います」
黒猫はまた瞳孔が開き目を丸くした。
「いいのですか?猫の世界にはもう戻ることはできませんよ?それにその為に貴方を猫の世界に連れていった訳ではありません。
たまたま窓からみていたら、貴方がひどく疲れていらっしゃったので...私の出来心なのです、申し訳ございません。」
「そんなのいいですよ、猫の生活は楽しかったです。いい息抜きになりました。なにも考えない日、あってもいいですよね。正直ここ最近は、なにも見えてませんでした。当たり前の幸せとか、人の温もりとか。下を向きすぎて、上を見ることなかったですからね。貴方の猫らしい優しさも、ありがとうございます。なので、僕を人間に戻してください。必ず彼女の役に立ちます。コーヒーのお礼です」
黒猫は、深くお辞儀をし
「こちらこそありがとうございます。では髭を一本、失礼」
とレンの髭を一本とって床に置き
鋭く尖った爪で切り出した。
すっとまた暗くなっていく。
遠くから声が聞こえてくる。
「猫の温もりは病みつきになる。これもまた1つのおまじないです」
黒猫が最後に小さく呟いた。「…ありがとう、ニンゲン。」
目をパチリと開けると僕はあのお店の前に立っていた。僕はまた人間に戻っていた。
人間に戻っていた――はずだった。
「……にゃ?」
思わず声が漏れた。喉の奥から、ゴロゴロと振動が。
慌てて口を押さえたが、通行人が振り返る。
(やばい、癖が残ってる…!)
無意識に、肩の力を抜いて、猫背で歩き出す。
...ああ、こうやって歩くと、背中が軽い。
店主さんいるかな...
お店のドアノブに手をかけた。
カランカラン... 扉についている鈴が儚げに鳴る。
「あの...誰かいますか?」レンは薄暗いお店の中で呼んでみる。
トスントスン...誰かが階段から降りてくる音が聞こえた。
「あ、あの...もうそろそろ閉店時間なのですが...」
降りてきたのは、あの時の男の店主ではなく
黒髪の女性が出てきた。あの時の飼い主だった。
レンは、驚いて一度引き返そうとした。
しかし、一歩引いたところになにか足に当たった。
「ニャ〜」
あの黒猫がいて、きらりと光る天色の瞳でパチリと瞬く。しかし、レンの知ってる黒猫は優しいあの声ではなく、甘えた猫の鳴き声だった。
「あ、店主...黒猫...」
彼女は近づいて
「猫、お好きなのですか?この子の名前はダリルっていうんですよ」と優しい笑みを浮かべてくれた。
レンは一度引こうとしたがその優しい笑みに立ち止まってしまった。
「はい、猫には縁があって...あ、あの、コーヒーを一杯だけいいですか?すぐ帰りますので...」
女はびっくりした表情をしたが、すぐに目を細め優しい笑顔で「はい、かしこまりました。席へご案内致します」とカウンターまで案内してくれた。
「お待たせいたしました、ホットコーヒでございます」
コトン、と優しく置かれたホットコーヒーからは 入れたばかりのほろ苦い香りが広がった。
「いただきます」とコーヒーを口にして
ふと黒猫に目をやると、ちらっと目を合わしたがすぐに毛繕いをはじめてしまった。
なんだ、あんなに話してくれたのに本当にただの猫じゃないか。と口を尖らせた。
彼女は目の前のカウンターテーブルの奥で洗ったコーヒーカップを丁寧に拭きあげながら
ポツリ、ポツリ僕に話しかけてくれた。
「あの、ダリルは人見知りが酷いんですよ。小さい頃酷く痩せ細ってて...本当にガリガリで、カラスにつつかれているところを保護した猫なんです...。当初は私も引っ掻かれちゃったりして大変でした。私の家族以外の人をみるとすぐ逃げちゃうんですけど...お客さんが入ってきてもダリルがこんなに近くにいるなんて珍しいんです」
「ははは、何故なんですかね。猫に導かれて実はここにくるの2回目なんですよ。その時も猫がいてなんていうか、猫におまじないをかけられまして」
何を言ってるんだと自分で顔を殴りそうになったが目の前の彼女は「ははは、猫のおまじないですか?なんて可愛いのかしら」と微笑んでくれた。
「けど、やっぱりお客さんは初めましてだけど、どこかで見た気がする...。あ、申し遅れました、私ここで喫茶店またたびを経営してるハナともうします」
なんだかドキッとしてしまった。
「あ、僕はレンといいます。不思議ですねどこかでお会いしてたんですかね」
本当は、猫になった時に貴女に会ってましたなんておかしい人に思われるのではないかと思って言えなかった。
ニコリと笑ってハナはまたコーヒーカップを拭きだした。
捲った腕にはなにか痣のようなものが見えた。
「怪我...ですか」僕はハナさんに聞いた。
ハナは慌てて腕の痣を隠し、「すみません、見苦しいものを」と申し訳そうに、少し声を震わせていた。
「いや、でもそれは...」
レンはそっと手を伸ばした。指先が震え、痣の輪郭に触れる寸前で止まった。
(ただの怪我には見えない)言いたかった言葉は喉の奥で凍って出すことができなかった。
プルルルルルル。プルルルル。
お店の奥から電話が鳴った。
「すみません、ちょっと席を外しますね」
そう言ってハナは奥の方に行ってしまった。
「あの傷はなんだろう。なぁ君はダリルっていうんだね。ハナさんの傷のこと何もわからないのか?」
ダリルは、レンの座っている椅子の隣にピョンっと乗っかって、大あくびをした。
「もう喋れないのか」
大きなため息をついて、ぬるくなったホットコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさまで...」ガシャン
ハナが向かった先で大きな音がした。
レンはすかさず音のする方へ向かう。
心臓がドクドクする。嫌な予感だ。
奥へ行くと、ハナが床に倒れ込んでいた。
「ハナさん!大丈夫ですか!しっかり!!」
レンは必死にハナに問いかける。
ハナはぐったりとしていてレンが言った事に応答することはなかった。
「救急車、救急車だ」
119番に通報し、ハナは病院へ向かった。
ハナはまだ呼吸器をつけて目を瞑ったまま。
医者に聞いてみると、ハナは過度のストレスだった。
貧血の状態で倒れたらしい。
しばらくして、ハナのおばさんがきた。
おばさんは、震える手でハナの髪を撫でながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ハナはね…16のとき、お父さんを一人で看てたの。認知症で、夜中も徘徊して…」
「え…?」
「母親は離婚して出て行っちゃってね。ハナは学校も辞めて、朝から晩までお父さんの世話。『猫と戯れるお父さんが好き』って、笑顔で言ってたけど…」
おばさんの目から涙がこぼれた。
「2年前に亡くなってから、ハナはこの店に閉じこもって…休みなく働いて…」
おばさんがいうには、ハナの父はすでに他界していて猫好きの父は喫茶店またたびの元店主だった。
父が大好きなものを無くしたくないとハナはその店を受け継ぎ今まで休みなく働いていたという。
ハナは小さい頃母親の虐待から両親が離婚し、父と暮らすようになり、後に父は認知症を患い当時ハナは16歳。1人でヤングケアラーとしてずっと父を支えてきた。父が昔から変わらなかったのは好きな猫と戯れること。そんな優しい父が大好きだったが2年前に他界し、ハナの精神もズタボロの状態だったようだ。
猫だった頃のレンには彼女の涙は見えていなかった。
レンはおばさんの話を聞いて後にし、
喫茶店またたびに戻ると黒猫のダリルが待っていた。
ダリルに話しかけるように話をした。
「ハナさん、今の所命に別状はないけれど過度の疲れによるものだって。ハナさんのおばさんもきて、ハナさんの過去...ハナさんはずっとずっと1人で苦しんで頑張ってたんだ。
なのにいつも、あんな笑顔でいてくれてたんだよ。なぁダリル僕はどうしたらいいんだ」
ポロリポロリと涙を流しながら、カウンターテーブルに頭をつけて自分の無力さに絶望していた。
ダリルは小さい声で「ニャ〜」と鳴いた。
その鳴き声に、ほんの少し、昔の「店主」の響きが混じっていた。
気のせいだろうか。ダリルは丸くなり、静かに目を閉じた。
レンはハナさんが戻るまでダリルの世話をしていた。
3日後、ハナは退院して店に戻ると聞いて、すぐ迎えに行った。
ハナは深々とお辞儀をして
「すみません、ご心配おかけして。ダリルを預かってくださりありがとうございました」とダリルは抱っこしながら何度も何度も頭を下げた。
「退院できてよかったです。とりあえずご無事でなによりです。お身体大事にしてくださいね。
ハナさんのお話は聞きました。遠方からハナさんのおばさんがいらっしゃって。その、過去の話とか。ハナさん。僕に手伝えることはありませんか。僕は、貴女に恩返しがしたいんです」
ハナは、驚いたように「恩返し?」とだけ返した。
「あの...猫の、恩返しです。真面目です。これでも。」
「レンさん変な人」ハナはクスッと笑った。
「ニンゲンは変なんですよ。みんな猫のように生きていければなぁ。無理や我慢をしない、もうしなくていい。自分が一番安定していられる状態を僕と一緒に見つけましょう」
「まるで、猫になったことがあるみたいですね」
2人は、ハハハと笑顔になった。
数ヶ月後。
ハナは、レンの助けを借りながら今日も笑顔で接客をする。
ダリルは気分屋看板猫として、ダリルてんちょうと呼ばれるようになった。1週間に1回顔を出してくれる。
レンは働いていた会社に辞表を出した。
上司は笑った。「お前みたいなのが辞めても、誰も困らん」――
でも、僕はもう。ハナさんの笑顔を守るなら、誰にも負けない。
レンとハナは一緒に経営を始めた。
レンはコーヒーの淹れ方を知らない為1から教えてもらった。
「♪おいしさは病みつきになりますよ〜、またたびのように〜」レンがコーヒーを注ぎながら呟いた。
――ふと、ダリルの視線を感じた。
(にゃん。レン、ちゃんと「気楽」に生きてるか?)
そんな声が聞こえた気がした。
「ちょっと、なんですかそれ」
ハナは笑いながら返す。
「これは一つのおまじないです、先輩の教えです。ね、ダリルてんちょー」
ダリルの天色の瞳に、朝日が差し込んだ。
ぼんやりと人の輪郭が浮かび上がる。
猫を抱き上げる、優しい手。
少し疲れた、でも穏やかな目元。
レンが初めて店に来た時に見た、写真の男の人だった。
耳元で、かすかな声がした。
「レン、ありがとう。ハナを……頼むよ。」
ダリルの身体が、朝の光の中でほんのり透けていく。
黒猫の姿が溶けるように薄れ、最後に残ったのは──
ハナのお父さんが、静かに微笑んでいた。
「……了解です。大切にします」
「にゃあ〜」
ダリルはカウンターの上から丸くなり、静かに目を閉じた。またたびの香りは、今日も誰かの疲れた心を、溶かしていく。




