ドームの外の倫理
昔は今より環境が悪かったんだって。
なんでも前暦二〇九五年に国とか会社が戦争して、地球がどんどん壊れちゃったんだってさ。この時代の人間が一番、悪かったんだって。
それから偉い人が話し合って、賢い人にドームを作ってもらったんだ。
僕はドームの外で暮らしている。
昔の人が作った『都市』ってところを住処にしているんだ。みんなはシェルターって呼んでいる。
ドームの外の外には砂が一面に広がっているって、お父さんが言ってた。お父さんは目で見たことはないけど、たまに来る『旅人』って人に聞いたんだって。
「ヒコ、忘れ物はないかい?」
「うん。タブレットも、充電ケーブルも、ハンカチも持ったよ」
「……支給された制服も、擦り切れちまったな。すまねえな、みっともないって言われてねぇか?」
「……うん。……だい、じょうぶ、だよ」
ゴツゴツの手を目にして、僕は嘘を吐いた。できるだけ、笑顔で。
最寄りのステーションまでは自分の足で歩く。昔の人もこうして「つうがく」していたんだろうか。
リュックのベルトを両手でギュッと握りしめ、遠くの人工太陽を見つめる。送風口から流れる風が頬を撫ぜた。
ジャリジャリした地面を歩く。このでこぼこした地面は「アスファルト」って習った。所々、ひび割れちゃっているけど、偉い人は見て見ぬふりをしている。これは周りの大人たちが言っていた。
倒れた灰色の建物を横目に歩いていると、ステーションに着いた。ドームへと続く一本の軌道が、この世界と夢への架け橋だってさ。
僕は他の人に押されるように、ポットへと乗り込む。みんな清潔とは言えない格好で、有機的な臭いがポットの中に立ち込めた。
『今日は新暦九〇年、六月十日です。さぁ、今日も元気に教育を受けましょう』
モノレールに乗ると、人工音声の方に目を向ける。モニターには幼年生の描いた絵をスライドショーで紹介していた。
ひび割れた樹脂製の椅子が揺れとともに軋み、今にも壊れそうだ。
「痛ってぇな! 押すなよ!」
「オメーが先に押したんだろうが!」
低く唸る駆動音が、いつものケンカを静かに見守っている。僕は、ボーッとモニターを見つめている。
みんな、お風呂になんて毎日入らない。ポットに広がる汗と皮脂の臭いが、この無機質な空間の中で、生き物としての証明になっている。
定期的に清潔班の持って来るお湯でお風呂にありつけるのだ。
『幼年生のみんなのイラストでした。さて、ここからは特別プログラムの子たちからのビデオメッセージです』
『みなさーん、おはようございます。竜宮オリです! こうしてカメラに映るのは初めてなので、緊張してまぁす』
オリちゃん。近所のとっても美人の子だった。適性検査の後、寮入りになっちゃったけど。
「あ、オリちゃんだぁ! かわいいなー。やっぱり、このまま芸能の道に行くのかな?」
「ったり前だろ! 外の希望だし、このまま活躍してほしいよな」
それでも、僕らはオリちゃんの活躍を見れないだろう。外の通学者の内、ドームに立ち入れる者はほぼいない。つまり、中の娯楽提供である芸能人は、外だとお目にかかれやしない。
外の人でも、成績優秀者に認定されると、ドーム内の学校寮に住むことができる。ここにいる時点で、成績や適性検査の結果はお察しだ。
僕がもっと賢かったらなぁ。
お父さんをドームに連れていけるかもしれないのに。
寮生活して、奨学金で高等教育を受けて、良いところに就職して、お父さんとドームで暮らす。実際には親はドームに連れていけないって、AIが言ってたっけ。
ああ、うまくいかないなぁ。
そんな風に考えていると、ドームの中に入ったみたいだ。
窓からは外の様子はよく見えない。けど、「梅雨」の時期だから、人工雨がポットに打ちつける。バラバラ、バラバラ――雨の音だけが生きていた。
『今日は「旅人」さんが学校見学に来ます。みなさん、旅人さんを歓迎しましょう!』
心臓が高鳴った。
他のドームのお話が聞けるかもしれない! 他の生徒たちからも、歓声があがった。
僕はリュックを抱きしめ、喜びを悟られないように堪える。顔がとっても熱い。
『もうすぐ楽しい学校の時間です。今日も元気に勉強しましょうね』
人工音声のあと、ドーム内のライブ映像が流れる。
白くきれいな建物を俯瞰で映す。雨の中、傘の花が歩道エスカレーターを彩っていた。雨の匂いってどんな感じなの? 中の生徒が愚痴っていたけど、僕には想像もつかないや。
街行く人はおしゃれでピカピカな服装に身を包んでいる。
僕は所々擦り切れ、煤けた制服を見た。……なんだか、恥ずかしいな。
周りは僕と同じような状態なのに、モニターには白く眩しいブラウスたちが笑顔を浮かべている。
僕はうつむいて、汚れたスニーカーを見つめていた。
学校は清潔で掃除が行き届いているかに思えた。
「外の子ってなんか、汚くない?」
「それな。毎日、風呂にも入れないらしいからじゃない? 臭いよねー」
共用廊下で、中の子たちが嫌な視線を向けてくる。僕ら、外の生徒に聞こえがしに言うもんだから、空気がひりついた。いつもポットで喧嘩している子を見てよ。すっごく睨んでいる。それに気づいたのか、足早に教室へと逃げていった。
きれいな状態はリノリウムの赤い線から向こうには続かなかった。床に敷かれたこの線と、ドームに通じる軌道の線。それのどこに違いがあるんだろう。
一歩、進むと黒い傷が目に入る。メンテナンスもされていないんだ。
また一歩進むと、点滅する照明が僕の未来をからかっているみたいだ。見せかけだけの、外の住民向けの教育。偉い人は、貧困層にも「平等に」教育を受けさせたいって言ってた。平等ってなに?
教室に入ると、ワックスの臭いに気づく。昨日、清掃に入ったんだな。
「なんか床、滑るくね?」
「しかも、クセー!」
笑い合うクラスメイトと距離を取って、一番うしろの席につく。一限目の授業は配給管理だからタブレットはいらないかな。実習だから貴重品をロッカーに預けないと。
「一限目、実習だろ? だりー」
「でも、社会の役に立ってる実感あっていいじゃん」
「うちの父ちゃん、配給の仕事してるけど、愚痴ばっかだぜ?」
「ギャハハハ! 俺んちも似たようなモンだ!」
僕のお父さんは清掃の仕事をしている。ロボットの届かない箇所を掃除して、ゴツゴツの手になったんだ。大人はすぐにお酒やタバコ、変なお薬に逃げる。でもお父さんは逃げなかった。僕がいるから逃げられなかったんだ。
チャイムが僕の考えを遮った。
『ミナサン、一限目ハ配給管理ノ授業デス。準備ヲシテ、実習室ニ移動シテクダサイ』
ホログラムの音声はカタコトなのに、仕事のできるお兄さんって画像なんだからチグハグだ。耳の聞こえづらい生徒のため、頭の上に字幕もついているから、役に立っている。
移動中、先生の口調を真似しておちょける生徒がいた。それを聞いて、僕も吹き出しそうになった。
『今日ハ、ロボットノ配給ラインノ補助作業ヲ手伝イマス。班ニ別レテA、B、Cのライン二着イテクダサイ』
「嫌デース、ギャハハハ」
僕は勇気を振り絞って、注意した。
「あんまりやると、指導室行きになっちゃうよ」
『…………』
先生の表情は読み取れない。
「んだよ、ヒコ。底辺が黙ってろや」
僕はなにも言い返せなかった。
『各班、ラインニ着キマシタネ。旅人サンモ見学ニ来テイルノデ、イツモ通リ作業ニ取リカカルヨウニ』
先生の言葉に、みんながどよめいた。見上げると、トレンチコートの人物が柵に腕を預けている。
「なんか緊張する……」
「はっ! はぐれモンだろ? 気にすることなんてねぇよ」
下からじゃ旅人の顔はよく見えない。でも、見られていると思うと、僕も緊張してきた。
作業の時間のことはよく覚えていない。手汗と、頭痛で習った内容は身についていない感じだ。保健室でアスピリンをと思ったけど、旅人の姿がなくなると、治まった。
「やっぱり、お話を聞く時間なんて、なかったね。って、ヒコ、顔青いけど大丈夫?」
僕に話しかけてきたのは、ナギだった。
「う、うん。なんか緊張しちゃったみたいで……。ナギも旅人と話したかった?」
ナギの脂ぎった髪が揺れる。
「そりゃあそうさ! 一限目始めにミコトに注意してたけどさ、あんまり関わらないほうがいいよ」
両ももをさすり、手汗を拭く。
「でも我慢できなかったし……」
「ミコトの親はAシェルターのリーダーじゃん。あいつら気に入らないやつは殴るって方針なの、知ってるだろ?」
聞いたことはある。でも、僕は授業態度を注意しただけ。
「知ってるよ。でも――」
「おう、さっきぶりだなぁ、ヒコ」
――ミコトだ。
「……なにか、用?」
冷や汗が止まらない。
「俺のこと知ってて、ナメた口きいたんだろ? ああ?」
ミコトの顔はまともに見れない。
「Eシェルターの分際で、Aのリーダーに逆らったんだよなぁ!」
「……ちっ、ちがうよ。僕はただ、授業態度――」
ダンッと、ミコトが机に拳を叩きつけた。
「まだ口答えするのかよ! いっぺん、シメねえと分かんねぇみたいだな」
振りかぶった拳が僕の顔面に向かう。ナギは止めようと動く。僕は覚悟を決めて、目をギュッと閉じた。
その時だった。
――ペチンと音が鳴り、目を開ける。
「ここに来て、正解だったみたいだね」
ベージュのトレンチ。黒のデニム。……旅人だ。
「なんだよ、はぐれ者のおっさん! これは俺らの問題だ。口を挟むんじゃねえよ!」
ミコトの拳にものともしない旅人。その横顔はなぜかお父さんと被って見えた。
「そうは言ってもねぇ……。公然と彼の尊厳を踏みにじっているのを見ちゃったから。わたしはね、授業の最初から見ていたよ」
赤みのある茶髪は、僕らと違って乾いている。
「授業中にああいうふざけ方は良くないね。しかも、注意した子に八つ当たりなんて、かっこよくないだろ?」
ミコトの顔はみるみる赤くなっていく。
「……ちっ。はぐれモンは、関わんじゃねーよ」
そう言い残して、去っていった。
「ありがとうございます。えっと……」
「ヤタ、だ。それにしても、ここにも『人の匂い』が残っていたんだなぁ」
旅人ヤタさんは、不思議なことを言う。
「? ヤタさん、本当に助かりました! えっと、僕はヒコといいます」
真剣な目で僕を見つめた後、肩に手を置かれる。
「いいや、ああいう奴は憎しみを心の中で飼っているんだ。……まだ安全とは言えない」
彼のほうれい線のシワが垂れ下がっている。
「ヒコ君自身に向かなくても、君の家族に牙を剥くかもしれない」
「あっ……」
お父さん。僕のせいでお父さんを危険に晒したのかもしれない。
「わたしのここでの目的が、ひとつ出来たようだ。……君を――あの子から守ろう」
ドローンの駆動音が聞こえてきた。
『旅人サン、ココニイタノデスカ。次ハ、人工知能倫理ノカリキュラムヲ見学クダサイ』
「おっと、それまでは無事でいてくれよ。じゃあ、あとでな!」
ヤタおじさんは手を振り、教室を後にした。
「……なんか、かっこよかったね」
僕もナギと同じ意見だ。
「うん。でも……ミコトくんのこと、ちょっと心配だよ」
泣きそうな声を堪えきれていなかった。
「でも、ヤタさんがなんとかしてくれるかもしれないよ?」
それでも不安は押し寄せてくる。解決策なんて、バカな僕じゃ思いつかないよ。
*****
この世界は間違っている。
ドローンに案内され、ドームの中の子供の授業を見学する。
富裕層向けの教室は、外の子向けとは違っていた。壁一面がモニターでアンドロイドの教師が、人間の教師の補助についていた。室内は清浄で、あの有機的な臭いは一切なかった。
「今日のテーマは『選択の合理性』です。人間は感情によって判断を誤ります。人工知能は、その点で人間よりも優れています。ですから――正しい選択を委ねるのは、感情ではなく、データなのです」
人間の教師はよく訓練されているのか、感情を抑え、淀みなく発言する。
「たとえば、あなたが二人の患者を助ける場面に遭遇したとしましょう」
生徒たちも静かに講義を聴いている。
「ひとりは高い技術を持つ技術者。もうひとりは年老いた労働者。人工知能は迷いません。社会全体の利益を最大化する選択を行います。それを『冷たい』と感じるのは、人間の限界です」
たわけ。お前たちが一番、恐怖という感情に支配されているじゃないか。
「ドーム社会では、感情による誤判断を防ぐために、すべての行政判断をAIが補助しています。私たちは『個人の善意』よりも、『集合的最適化』を信じます。これが倫理なのです。理解できましたか?」
何を言っているんだ。貧困層である外の住人を飼い殺しにしておいて、倫理だと?
「はーい、先生。AIも間違えることはあるんじゃないですか?」
生徒の質問に教師は眉間に一瞬、シワを寄せる。だが、すぐに笑顔を貼り付けた。
「いい質問ですね。AIは『間違う』ことがありません。ただし――入力された人間の情報が間違っていれば、結果も歪みます。ですから、正しい人間になることが、AI倫理の第一歩です」
富裕層は貧困層に施しをして、支配欲を満たしている。
「もう一度言います。倫理とは、AIが正しく判断できる人間になること。みなさんが大人になるころには、それが当たり前の価値観になっています」
これじゃあまるで、AIに支配された人間というモルモットの社会実験だ。
わたしはAIには従わない。だから、旅人になった。ヒコも暴力的な子も全部、受け止めてやりたいんだ。
授業の後、教師に声をかけた。
「いやぁ、すばらしい授業でした。倫理って便利な言葉ですよね。間違えた責任を誰も負わなくて」
教師の笑顔が引きつる。
「ええ。この授業とは別に、正しさを教えていますからね」
「それは大層なことで」
話していると、視線に気づく。振り向けば十数人の生徒に囲まれていた。
「旅人さん、お名前は?」
「どこから来たの?」
「一番、大変だったところは?」
質問攻めの嵐に、わたしはタジタジになっていた。富裕層でも、子供は興味を持って接してくれる。大人は、教師の反応が物語っているだろう。まぁ、外の大人は良い奴も悪い奴もいて、面白いよ。
ふと、目を惹く容姿の女の子に声をかけられる。
「ねえ、元々なにをしている人だったの?」
確か、事前説明のときに見たオリという少女だ。希望の星プログラムの特待生だったか。
「ああ、とあるドームの技術者だったよ」
バツの悪そうに返答すると、オリは目を輝かせた。
「すごい! Aランクだったんだぁ。私たちが安全に暮らせるのは、技術者さんのおかげだって習ったわ!」
Aランク。八歳から十歳までの社会理解期に、適性検査で与えられる評価の一つだ。外の子も、この検査でドーム内の居住資格を得られる。
君も外の子だったんだろう? 小さいのに、なんで世間の評価を気にしないとならないんだ? もっとのびのび育つべきだと、わたしは思うね。
「やらかしてね。左遷されて、そのまま流浪の身さ。君はわたしのようになるんじゃないぞ」
少しだけ、嘘を混じらせる。
*****
今日はヒヤヒヤしながら過ごした。ミコトの鋭い視線、ナギにも心配かけてしまったな。
それに、ヤタおじさんのいう「家族も巻き込む」ことに頭がいっぱいで。給食の配給クッキーも、ゼリーも味気がなく感じられて喉を通らなかった。今日は大好きなグレープ味だったのに。
『オリといいます。希望の星プログラムでたくさん勉強できて、毎日がとても充実してまーす』
オリちゃん……。ポットのモニターにはかつての同級生が映っている。上層の授業はそんなに楽しいの? 僕は今の授業を追いつくのに必死だよ。
やがてステーションに着く。ガヤガヤと階段を降りきると、聞き慣れない音に目をやった。
「やぁ、ヒコ少年。君んちに泊まらせてくれないか?」
あの乗り物は『バイク』だ。紙でできた古い本に書かれていた。
「ゴホッ、これってバイク? こんなに大きいんだね」
ヤタさんがカラカラ笑う。
「あはは、ガソリンの臭いは慣れてないよね。それで、泊まってもいいかな?」
ひとしきり咳をした後、僕は答えた。
「……お父さんが良いって言ったら、僕はいいよ」
「オーケー。後ろに乗りな」
バイクにまたがり、ヤタさんの腰を掴む。右、左と道案内をすると、あっという間にシェルターに着いた。
「すごい早い乗り物なんだね。それに配送用のドローンも持ってるんだ?」
後ろについてくる二機のドローン。その上にはごちゃごちゃと荷物が載せられていた。
「はははっ! 廃棄されているのを直して使ってやっているんだ。砂漠で食料は期待できないから、燃料とともに積んでいるのさ」
ドームの外の外。一面の砂が飽きるほど広がっているという。僕はバイクに乗って、地平線を走る夢を見た。
崩れたビルの隙間のまた隙間。布を被せたこの空間が僕のシェルターだ。
「……おかえり、っておやおや。旅人さんかな?」
今日は早く帰っていたみたい。ただいまの言葉と、ヤタさんを紹介した。
「そうかい。まあ、狭いとこだけど、旅の疲れを癒やしておくれよ」
「ありがとうございます。お父さんはなにをしてらっしゃるので?」
お父さん渡した濡らしたボロ布で、ヤタさんは顔を拭く。
「清掃業をしています。……よければ旅の話をヒコに聞かせてくれないか」
ああ、やっぱり二人は似ている。顔や体格じゃなくて、まとっている雰囲気が同じだ。やさしくて、柔らかくて。笑い合う二人を見つめていると、口元がほころんだ。
「ん? どうした、ニヤニヤして。学校で良いことでもあったのかい?」
さっと血の気が引いた。
「……Aシェルターのリーダーの子と、ちょっと」
お父さんの顔が青くなる。
「ミコト君か。ううむ……引っ越しも検討しないといけないかもしれんな……」
やっぱり、関わるんじゃなかった。
するとヤタさんが僕の背中を叩く。
「だーいじょうぶだ、ヒコ少年! 明日になれば、分かるさ」
なにを言っているんだろう。明日になっても、人工太陽が朝を告げるだけじゃんか。
「それよりも、廃棄されたドームの話は興味ないかい? あそこは遠くからじゃ見分けがつかなくって、着いてから途方に暮れたよ」
僕は不安でいっぱいだった。話も半分に頷くだけにとどまった。
*****
「……寝たようですね」
ヒコの寝息に、父親は一安心したみたいだ。
少年は苦しそうに顔を歪め、うなされている。クマと頬のこけが疲れを物語っている。
「ところで、ミコト君の件、ヤタさんが関わって大丈夫ですか? こう言っちゃなんだが、あまりよその人に迷惑はかけたくないのだが……」
父親の懸念は最もだ。それは善良であるがゆえに、鎖にもなる。
「お父さん、わたしはね、善良な者が救われない世の中になってほしくないんですよ。こんな世の中でも、せっかく生まれ落ちてきたんだ。富裕層からの『施し』なんかより、『救い』がほしくありませんか?」
諦念の目に光が灯った。しかし、すぐに曇ってしまう。
「ははっ、配給クッキーとゼリーですか? 無かった時代のほうがよっぽど味気のある食事でしたね」
乾いた笑いは灰色のビルに消えていった。
「知ってますか? 学校ではクッキーもゼリーも『味付き』なんですよ。でも、ドーム内の生徒の食事は肉に魚に白い飯だ。富裕層は食の喜びさえも、貧困層から奪っています」
ぽかんと口を開け、父親は嗤った。
「ははは……。そうか、『味付き』か。政府の対策はいつも斜め上だな」
「さて、少し外出してきます。なぁに、時間はかかりません」
そうして懐に忍ばせていたドローンに、プログラムを打ち込み、飛ばした。
*****
翌日。ミコトは遅刻してきた。それも包帯だらけで。
「ちっ。なんでバレたんだよ……」
ミコトの愚痴をまとめると、こうだ。
朝、父親にしこたま殴られた。昨日の学校での件で、退学騒動にまで発展したそうだ。
「ヒコ、なにかしたの?」
ナギが声をひそめて聞いてきた。
「……ううん、なにも」
「どんなにミコト君が暴れても、学校は動かなかったのに、なんでだろうね」
監視用ドローンが教室内を飛び交う。今日はいつもより台数が多く感じる。チャイムが授業の始まりを知らせる。
『みなサン、一限目は生産の授業デス。本日は座学デス。タブレットの用意ハいいですカ?』
……今日は合成音声も流暢だ。
夕方、家に帰るとヤタさんが旅支度をしていた。
「もう行っちゃうの?」
ニカッとした笑顔が眩しい。
「ああ、燃料も食料も、準備万端だからな。それに――」
ヘルメットを被り、親指を立てる。
「いじめっ子、どうにかなったろ?」
ミコト君は不満をブツブツ漏らしながらも、大人しく授業を受けていた。僕に危害も加えなかったし、平和だった。
「……いったい、なにをしたの?」
僕は当然の疑問を口にする。
「大人がかっこいいとこは、全部言わないことさ」
口に人差し指を当てて、誤魔化されてしまった。
ヤタさんはバイクが唸りを上げ、砂煙を残して走り去ってしまった。
「……ヤタさんのような人がいるから、救いがあるのかもしれないね。さぁ、配給の時間まで、勉強を見てやろう。社会科目が苦手だと言っていたね」
お父さんがやさしく微笑む。僕はその顔で、引っ越さなくてもいいんだと確信した。
配給のクッキーは味がしなかった。でも、よく噛むと小麦の甘さが広がった。




