岡の下で送り出す
この作品は史実を元にしたフィクションです。
1939年
ドイツ軍がポーランドに進軍し第二次世界大戦が始まった…平和な日常が徐々に崩れつつあった。
1931年12月23日、緒川村立緒川小学校で教えている。先生の多くはバイクで通学し、生徒の多くは兄弟と馬で通学していた。
久しぶりに帰郷してきた卒業生の堀江柿が兄弟を連れて馬で来た。
「柿くん久しぶり!予科練の勉強は大丈夫そうかい?」
「本当に大変ですよ。日中戦争のメインは陸軍省なので私は海軍なんで平気ですよ。河野生とか那須愛は陸軍で支那の昆明に出兵したと連絡を受けましたね。あの二人は陸軍で立派にしててすごいですよ。私なんて飛行訓練をずっとしてるだけですから。あの2人『先生に手紙送りたい』って言ってましたよ。」
「そうかぁ…柿くんはエリートなんだから。簡単に出兵することはないけど、そういう兵士も必要なのよ。彼らは歩で柿は香車なんだから。俺の住所教えるからぞ。『茨城県那珂郡柳河村大字青柳○○○○だ』」もしよかったら手紙を送るといいよ!」
「鈴木先生、わかりました。」
「柿、どこにこっから行くのかい?」
「美和村に参拝に行ってきます。」
「そうか」
柿はそう言って今日は去った。
迎えにもくるそうだが今日は早く帰らないといけない事情があった。
初孫が生まれたと電報があり早く帰るからだ。
孫に会うため仕事が終わった午後3時30分僕は急いで家に帰った。
妻のオウが息子の実と共に玄関にいた。
息子嫁キョウはとても疲れた顔をしていた。
この時代の戦に勝という意味から名は勝となった。勝は戦争の中でも逞しく育った。
1942年戦争の波は私たちの私生活まで波及してきた。孫が1歳になる頃は配給制度が始まっていた。私らの暮らす柳河村や職場のある緒川村は戦争中だが満足いく食事ができていた。
近所の農家の家にも闇市の人が来て服と野菜を交換して商売をしていた。闇市の商人が言うには『東京や大阪で満足のいく食事のできていない人が多くいる』とのことに驚いていた。
1944年10月 堀江柿から手紙が届いた。
「拝啓 鈴木先生
那須愛がサイパン島の戦いで亡くなりました。この訃報に私もとても驚いています。このままでは日本が危険です。私がお国の為に、鹿児島から沖縄沖に行くことが決まりました。片道切符となる任務でありこれが私から先生に送る最後の手紙です。この国はきっと勝つので私を信じていてください。1945年1月に河野からも手紙が届くと思います。
敬具
堀江柿」
彼に返事を書いて送ろうとしたが海軍省から無理だと言われました。片道切符を2回も使うなんてなんて奴だ。
生から手紙が届いた。
「拝啓 鈴木先生
私は任務で硫黄島に行くことになりました。この任務は柿とは違い片道切符ではないので軽いものです。勝って2月第二週の日曜日に水戸駅北口で会いましょう。
敬具
河野生」
2月の第二週の日曜日水戸駅北口に行ったが河野は来なかった。
本土決戦に備えて児童に竹槍の訓練をしている。
1945年3月東京や神奈川から茨城に小学生から中学生がやってきた。茨城県那珂郡柳河村にも来た集団疎開の子供が来たりした。疎開先として新潟市、水戸市、小田原市、久慈郡太田町といった日本の大都市に疎開する人もいれば賀美村や美和村などの田舎に疎開する人もいた。
1945年8月2日-3日
家に帰って眠ろうとした時に空襲警報が響いた。家の水戸台地が赤く燃え広がっていた。夏休みで良かったそんなことを思った。
次の日水府橋を渡り水戸市に行くと焼け野原が広がっていた。ここはどこ…?水浜線の線路だけが水戸に残る唯一の道標だった。
水戸城は焼けてしまった。
「空襲でミキが亡くなりました。」そう義弟の会沢芳洲から言われた。会沢芳洲と2年ぶりにあった。
「次男の仙湖は実は硫黄島に言って以来帰ってきてないんですよね。」
硫黄島!?生くんと同じ出兵先だ。つまり硫黄島では多くの子が亡くなっているかもしれないと嫌な予想をしてしまった。
1945年8月15日
「耐え難きを耐え……」
玉音放送が流れた。そして敗戦してしまった。私は生徒に兵隊さんの素晴らしさを教えて軍人になるのを素晴らしいことだと思って教えてきた。つまり私のせいで死んだ人もたくさんいるのかもしれない。
私のせい。私のせいで死んだ。私のせいで死んだ。
茨城県出身者の多くは南洋で亡くなったそうですね。




