第5話 出発
「蛇の巣」での目覚めは毎日最悪だ。自分の身体がまるで別の生き物になったかのような感覚になる。
それはたぶん、ひどく窮屈な環境で寝ているからだ。人間の身体は自分の肩幅とちょうど同じ幅の寝床で眠るようにできていないのだろう。
だから、「蛇の巣」を長く常宿としている奴等はどこか人間離れしている奴等が多い。
宿の主、スネイクのオッサンなんてその最たる例――。
「うるせえぞ! ロジェ! そーいう悪口は頭の中でやるか、もっと小さい声で言え! みんな怒ってるぞ!」
「ふん。全員思っていることを口にしただけだ。スネイクのおっさん、俺にも不味い朝食をくれ」
「『不味い』は余計だ!」
「蛇の巣」の食堂の小汚い丸椅子に座り、ガタガタと建付けの悪いテーブルに頬杖をつく。
「蛇の巣」では朝と夜だけ食堂で食事を出している。今はその朝だ。したがってここに座っていると、本人の意思とは関係なく糞マズイ朝食が提供され、銅貨三枚を請求される。
「ほらよ」
スネイクのおっさんにより、テーブルの上に丸い皿がドン! と置かれた。おっさんはすぐにカウンターに戻る。
皿の中はいつもと同じ、謎のマメスープとそれに半分浸かったライ麦のパンだ。パンに関していうと、肉パン屋のパンの方が美味い。
まぁ美味いといっても「直ちに吐き出したくはならない」という程度だが。
俺はスプーンで謎マメスープをすくい、味覚を自分から切り離してから、呑み込む。それでもマズイ。
助けを求めるようにライ麦パンに手を伸ばし、小さくちぎって口腔に放り込む。
やはりマズイ。しかし、それにより頭がしゃっきりはっきりしてくる。
「ロジェ! 黙って食えよ!」
「すまない。つい、不味くて」
「あのなぁ、俺は──」
そう言いながら、スネイクのおっさんが俺のテーブルに寄って来た。
「──わざと、不味く料理しているんだよ! こんな底辺の宿から早く脱出するように発破をかけているんだ! 普通の冒険者は『さっさと等級を上げて、ちゃんとした宿に泊まろう!』って頑張るもんなんだよ! それなのにどうだ! 今日、食堂で飯を食っているやつらは皆、底辺に甘んじてやが──」
「スネイクのおっさん……。俺のことはいいが、他の奴等が凹んで……」
おっさんは食堂を見渡し「しまった」という顔をした。
俺はさくっと皿を空にし、しっかり目覚めた頭で食堂を後にした。
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今回の標的は「水のエレメンタルスライム」。王都から馬車で三日ほど行ったところにある星の湖で目撃情報がある。
星の湖は、空から星が降ってきて、その時抉れた地面に水が溜まって出来たと言われている。まぁ、川も流れ込んでいるから星云々ってのは眉唾だが。
俺は地図をチラ見しつつ、そんなことを考えながら、王都から南に延びる街道を歩いていた。
一刻ほどで段々と地形と方角が掴めてきた。なんというか、地図が自分になじんでくる。紙に書かれていることが生きた誰かの経験の上に記された、本物の情報だと頭に刷り込まれる。
こうなってしまえば話は早い。
今いる場所と目的地を一直線に結び、それに沿って体力と魔力の限り進むだけだ。
俺は王都から南南東の方角に向けて舵を切る。街道からは外れる。気にしない。むしろ、好都合だ。あまり、本気で走っているところを人には見せたくない。
馬車や人影が完全になくなったところで、俺はスイッチを入れた。
一歩踏み出す。そして着地の瞬間、その刹那だけ、脚に魔力を廻らせる。短く、速く。
身体が風景を置き去りにし、風が無駄な抵抗をする。勿論、止まらない。着地の度に魔力を廻し、爆発的な推進力を得る。それを繰り返す。
頭が真っ白になる。ただ、引かれた線の上を愚直に進む。
視界にグラスウルフの群れが入った。
そういえば、昨日食べた肉パンの中身がグラスウルフだった。硬くて臭くて不味かった。真っ白だった頭に戦闘のイメージが湧く。少し、身体を慣らしておこう。
俺は跳ねるように走りながら、腰から短剣を抜いた。
あと瞬きを三つしている間に、グラスウルフの群れとぶつかる。
数は十五。
俺が地面を蹴る音に反応し、警戒態勢を取っている。
大きく飛躍し、群れの真ん中に着地した。グラスウルフは直ちに散開し、円になって俺を囲む。
耳に魔力を廻らせる。グラスウルフの呼吸が十五、重なって耳に入る。その中で一つ、大きく息を吸い込むものがあった。
俺は身体を翻し、呼吸を乱したグラスウルフに対面する。せっかちな若い個体が地面を蹴り、俺に飛び掛かろうとしていた。
短剣を頭上まで上げ、振り下ろす。その瞬間。腕と背中、右脚に魔力を廻らせる。高速に。爆発的に。
身体の一部になった刃が先ず、空気を斬る。グラスウルフを斬る。衝撃波が生まれ、左右から飛び掛かっていていた二体を吹き飛ばした。
まずまずだな。
俺は五度、短剣を振り下ろし、グラスウルフの群れを壊滅させた。
死体は放置する。魔石をとってもしれているし、肉は硬くて臭くて硬いから。あんなものを食べるのは正気じゃない。つまり、昨日の俺はどうかしていた。
その後、モンスターの群れに出くわすことはなかった。何度かホーンラビットは轢いてしまったが、それはどうしようもないことだ。急に飛び出してきた奴が悪い。
やがて、顔に感じる風に湿り気が混ざるようになった。
陽が落ちた。というのもある。しかし、近くにある巨大な水たまりを無視できない。
星の湖。
日没前に到着。
それまでに殺したモンスターはグラスウルフ十五。
轢いたホーンラビットは三十二。
ズボンは血まみれだ。