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「こころ」の偏微分

作者: さば缶

私が先生に初めて会ったのは、まだ夏の名残が庭先に揺れていた頃でございました。

その折、先生は風通しのよい縁側に腰を下ろして、古ぼけた書き物机を肘掛け代わりにしながら、じっと「こころ」の一節を読んでおられました。

そこへ私が、無遠慮な足音を立てながら近づいていくと、先生はまるで自分の影を眺めるかのように静かに目を上げて言ったのです。


「君、ここに書かれている心の面積をどうにかして測ろうとは思わないかね。偏微分というものを使えば、心の変化をより正確に捉えられるかもしれない。けれど、それが本当に人間の情動を分割し尽くす方法かどうかは、わからないよ」


その言葉が妙に胸の奥に引っかかったまま、私は暫くそばに座っておりました。

風が吹けば畳の上に落ちた影がわずかに揺れ、先生は書物から目を離すでもなく、ときどき鉛筆の先を舐めては何やら紙に記しておられます。

私は静かな緊張を覚えながらも、ついその手許を覗き込みました。

紙には見慣れぬ記号が散りばめられ、差分や導関数を示すらしい数式が綿々と連なっているのです。

そしてその片隅に「先生」「私」「K」とかかれていました。


「先生」や「私」が単なる変数に変じていくのを見るのは、どうにも気味が悪いものでした。

けれど、先生は私の目を合図に読むや否や、微笑を湛えたまま言ったのです。


「心というものは、君が思うよりずっと分厚い地層を持っている。だから積分より偏微分のほうが向いている場合もある。一人の人間を形作っている要素を、どれだけ細かく区切ってみても、まだ底の底まで辿り着けない。その果てしなさこそが、実は人間を照らしているかもしれないんだ」


その後、私は先生の示唆するように、じっと心の変位を考え始めました。

私と先生との関係を微分すれば、それは断続的に変化する常数に近い存在になるのでしょうか。

あるいは先生とKという存在との間に生じた微妙な懸隔を微分するならば、いつかは和解に似た定数が導き出されるのでしょうか。

しかし、それはどこか小手先の理詰めでは追いつかない境地があるようにも感じられて、私は筆を取るたびに心が乱れるのです。


それでもなお、先生は落ち着いて言います。


「こころの微分方程式を解こうとするとき、外部の条件や境界の考察を忘れてはいけない。Kの生死、私の自責、そして君の視点。全てを初期条件として設定し、その上で解を求めることになる。だが、パラメータが増えるたびに混乱も増す。おそらくは、理想の解など得られはしない。最適解というものは、辺りを丹念に探り、なおかつ自分の良心と時間の流れの中で見いだされるしかないのだ」


先生の言葉が一つひとつ私の胸に落ちる度、心の方程式は解の候補を変えていくようでした。

いや、私自身が未だ初期条件を探しあぐねているのかもしれません。

思い返せば、Kが抱いていた焦燥や、先生が胸の裡に沈めていた懊悩は、一気に解くには複雑すぎるパズルのようなものでありましょう。

私は脳裏の中で、それらを数式や変数に置き換えようとする度に、かえって目が眩む心地がいたします。


「それでも、歩み寄りたいのかね。人間の心を数式で割り切れるとは、私も思わない。だが、何かの端緒にはなる。そうして、かえって人間が数では到底測れぬことを知ればいい」


そう言い置いて、先生は小さく咳払いをなさいました。

そこに流れる一種の諦念と、一方でかすかな期待のようなものを感じながら、私はただ風の吹く庭を見つめます。

藪蚊が一瞬、耳元をかすめていった時、先生はまた古い本の頁をゆっくりめくりながら、微かに微笑されました。


人の心を偏微分してどうにかなるのか。

ある部分はむしろ積分されたがっているかもしれない。

またある部分は強い境界条件に阻まれ、解の求め方すらわからない。

それでも生きている以上、私たちはその関数を捨て去るわけにはいかないのでしょう。

先生の穏やかな横顔を眺めながら、私は何とも言えない不安と安堵の入り混じった気持ちに浸りました。


さて、この物語に終わりがあったとしても、多分それは解に至った終焉ではなく、境界条件が変わる新しい始まりなのでしょう。

もしあなたが、こころを微分するたびにその存在がかすかに揺らぐのを感じたら、どうか慌てずに、丁寧にその値を捉えてみてください。

そうすれば、やがては自分の中にある美しい迷路の奥底を覗き見ることができるかもしれません。


私は今日も先生の言葉を思い出すたび、あの縁側に吹き込んだ静かな風を心の底で感じるのです。

そして、いつしか私の「こころ」は、依然として解を定めぬまま、ゆるやかな変位を続けています。


――じゃあこのへんで終わりにしましょうか。

私流の締め方ですが、この未知の微分はまだまだ解き尽くされていないということにしておきたいのです。

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