第3章:優しい人形
二〇二五年二月一〇日 午後三時一〇分、東京都国立市・古書喫茶〈ルリイロの頁〉。茶葉の甘い蒸気が漂う店内で、朋美はカウンター奥の二人掛けテーブルに腰を下ろした。壁の古時計が三時一一分を示した瞬間、扉のベルが控えめに鳴る。紺色のコート姿の少女が入ってきた。
「こんにちは。ここ、空いていますか?」
透き通る声の主は、里見里帆(二〇歳)。新潟県長岡市出身の音大生で、子どもの頃から魔歌の家系に生まれたと自己紹介した。
「あなたが智野朋美さんですね。絵里香さんから、事情を聞きました」
里帆の言葉に少し驚きながら、朋美は頷く。すると、もう一人、背の高い青年が店内に滑り込んだ。里帆の弟・圭太(一八歳)だ。右手に小ぶりのメトロノームを握り、左肩には藍色の布包み──人形ケースが無造作に乗っている。
「姉貴、遅れた。中央線が止まってて」
圭太は席に着くなり、ケースの中身──球体関節人形〈ラプンツェル〉──を慎重に取り出した。細い指先が絹糸で編まれたハープを抱え、陶磁の瞳がほんのり金色を帯びている。
「この子は、うちの守り手。私が歌い、圭太がテンポを刻むと、魔力を帯びて動きます」
説明と同時に、里帆は声帯を震わせた。柔らかいソプラノが、喫茶店の木製梁を共鳴させ、空間の温度を一度だけ上げる。圭太がメトロノームの振り子を一二〇BPMで揺らすと、ラプンツェルのハープの弦がひとりでに鳴り、薄桃色の光がはじける。
「あなた方の魔歌回路と〈罪の記録〉が共振しているのが見える。協力をお願いしたい」
朋美が切り出すと、里帆は顎を引いた。
「了解しました。ただし、私たちの魔力が弱まっています。原因は銀色の蔦模様。もし心当たりがあるなら教えてください」
朋美はギャラリーで拾った銀蔦片を卓上に置いた。ラプンツェルの瞳がそれを認識し、ほんの僅か震えた。
午後五時二〇分。四人は多摩市連光寺にある里帆・圭太のアパートへ移動した。薄桃の夕焼けが瓦屋根を染める中、室内中央のビスク人形棚にラプンツェルを戻す。
棚の背板には、五線譜と併記で古めかしい魔術符号が書き込まれていた。
「これは二代前の祖母が残した譜面。曲名は〈オフェリアの祈り〉。でも近ごろ一部が黒ずんでしまって……」
朋美は符号を指でなぞり、刺青の魔力を流し込む。すると、譜面右端に銀蔦と同じ紋が浮上した。
「やっぱり。蔦は〈罪の記録〉の副生成物。禁書の力が魔歌譜を侵食してる」
龍也が腰の刀を少し抜き、刀身の反射光で紋を照らした。銀蔦は淡く脈動し、譜面の黒ずみが広がり始める。
圭太が慌ててメトロノームを鳴らし、里帆がオフェリアの旋律を半分だけ歌った。黒ずみは一時的に後退したが、完全には消えない。
「蔦の源を絶たないと、譜面も人形も失います」朋美は真顔で告げた。
里帆は一秒の沈黙のあと、決意を込めてうなずく。
「禁書の本体を追いましょう。祖父の記憶では、多摩丘陵の地下礼拝堂に〈罪の記録〉を封じた石棺があるはずです」
午後七時三〇分、アパート玄関。朋美は小鍋に湯を沸かし、買ってきた水餃子を三分で茹で上げた。全員に配り終えると、箸で一つ口に運び、熱さに頬をふくらませながら笑う。
「まずは腹ごしらえ。真昼の月が続く限り、夜は短いわ」
四人の影が玄関灯に重なり、外の夜空にはまだ白い月が浮かんでいた。