第1章:真昼の月
二〇二五年二月五日 午後七時三〇分、東京都墨田区。冬の冷気が隅田川を渡り、ガラス張りの現代美術館「ルーチェギャラリー」のエントランスに霧のように漂っていた。高校教師・智野朋美(二五歳)は、背中の刺青を冬物コートで隠しつつ、企画展〈昼に浮かぶ月〉の会場へ足を踏み入れた。
壁面中央に掛けられた一枚の絵──真夏の青空に満月だけが爛々と光る油彩──が彼女の視線を釘付けにする。その瞬間、館外の昼空にも同じ満月が出現した。
「真昼の月……?」
絵と現実が重なった違和感が脊髄を駆け、刺青の魔術紋〈パラドクスルーン〉がうっすら発光した。三年前、南米の秘境で彫り込まれて以来、紋は魔力のメーターのように主を守り続けている。異常を確信した朋美は、スマートフォンに保存してある緊急用ボイスメッセージを起動した。
「龍也、墨田区のギャラリーまで至急。吸血種が来る」
相手は、自警サークル〈ナイトハウンド〉に所属する大学院生・瀬名龍也(二四歳)。銀鍛鋼の刀身を帯びた彼が駆けつけたのは二〇分後だった。
午後八時一五分、館内二階。真昼の月に引き寄せられた低位吸血種〈シェイドバット〉が展示室に侵入、来場者を襲い始めた。朋美は右手に魔力を集中させ、「リフレクション・ノヴァ」を放射。紋から迸る白光が吸血種を浄化し、残骸を灰へ変える。
対応中、壁際に飾られていた小品〈薔薇と誠実〉が割れて床に落ちた。その破片の裏で、銀色の蔦模様の小片が脈打つのを朋美は見逃さなかった。
「龍也、あの欠片を回収して!」
龍也が応じ、銀蔦片を刀の峰で弾き上げると、欠片は彼の鞘に吸い込まれた。直後、シェイドバットの残党は一掃され、館内は静寂を取り戻す。
「助かった、朋美」
「こちらこそ。けど、ここから本題よ。あの銀蔦は〈罪の記録〉と同じ脈動をしていた」
〈罪の記録〉──所有者の過去を刻み、代償として魂を縛る禁書。三カ月前に消失したはずだった。
午後九時〇五分、ギャラリー裏手。戦闘の疲労を誤魔化すように、朋美は近くの屋台で焼き餃子を買った。熱々の一個を頬張りながら、龍也と次の行動を確認する。
「絵里香から連絡。兄の光平が禁書に触れたらしい」
「場所と時間は?」
「西東京市、今夜十一時。宝船式の部屋を使ったそうだ」
「了解。移動は車。十五分で準備するわ」
月はまだ昼のまま輝いている。二人は東の空を一瞥し、ギャラリーを後にした。