第五話 行き場
彼女の提案は、行き場を失ったフィリアにとって唯一の希望だった。あるいはシルヴァは、そこまで見越しているのかもしれないが。
「お、お願いします」
「では契約書に血判をしろ、フィリア・エテレイン」
目の前に、羊皮紙と針が突きつけられた。
シルヴァの持つ紙から、肌がぴりつくような違和感を覚えた。十中八九、何らかの異能が付与されている。
「……っ」
おそらくこれは、契約に強制力を持たせる異能。
助けられた恩があるから、ここが悪い場所ではないと思いたい。けれど、一度でも血判を押してしまえば、フィリアは契約書に書かれた内容に縛られる。
血液によって個人が識別されるため、たとえ理不尽な罪を着せられたとしても、フィリアは罰から逃れられない。
「安心しろ。悪いようにはしない。ただ、年中無休で働かせてやるだけだ」
「年中無休……えっと。もしかしてここ、かなりブラックだったりしますか?」
「今ごろ気付いたか。鈍いやつめ」
「し、シルヴァさん」
不安になって声をかければ、シルヴァから返ってきたのは笑みの滲んだ気配だった。
「冗談だ。……ただ、血判を押せばお前は私の部下だ。お前は屋敷住み込みの使用人として扱われるから、屋敷での生活も職務だと考えれば、年中無休もあながち嘘ではない」
契約書を渡されて、書かれた文を読む。
衣食住は保証されるし、屋敷だからか給金も村で働くより、かなり多く貰える。フィリアの意思で辞めることもできるらしい。
行くあてもない身なので、悪い条件ではないと思った。
「契約書の内容は読めたので……押しますよ、血判」
シルヴァから針を受けとり、親指に突き刺す。一瞬鋭い痛みが走り、赤い血がぷくりと出てきた。じんじんと痛む親指ごと、契約書に押し付ける。
「何があっても、私の命令を優先しろ」
「はい」
「時間が惜しい。今、少しは動けるか?」
「えっと、はい」
答えた瞬間、「ついてこい」と言われた。
ベッドを降りて、シルヴァの後ろについて歩く。初めて出た長い廊下にはいくつもの扉が並んでいて、開けたい衝動に駆られた。
「着いたぞ」
地下へと進み、石造りの壁を伝った先で、シルヴァはようやく立ち止まった。
目の前に、鉄製の扉が見えた。
嫌な気配のするそれをシルヴァが開いた直後、フィリアの視界に広がったのは円形の広場。
大きさは、先程までいた客室の数倍。足元を見ると、床ではなく砂だ。
「私が血判を押していないから、先程の契約はあくまでも仮初めだ。これからお前の力を試させてもらう。……猫を倒してもらうだけだから、気楽に受けると良い」
「いや不安しかないな!?」
ただ猫を倒すだけなら、ここまでの広さなんて必要ない。
「大丈夫だ、死ぬことはない。……では、私はここで見ていよう」
シルヴァが扉の近くの壁に寄りかかり、腕を組んだ。その刹那の後に、響いたのは獣の唸り声。
振り向けば、壁の向こうに檻があった。金属の擦れる音を立てながら、ゆっくりと檻が開かれる。
出てきた獣の体躯は二メートルほど。
以前、院長の書斎の図譜で見た、虎という動物によく似ていた。
思考が逸れた一瞬の間に、隆起した筋肉が鋭い爪を立てて、目前に迫る。死への恐怖に、ぞわりと悪寒がした。
「ちょっと待ってそれは聞いてない……!」
転がって、なんとか爪の攻撃をかわした。ふらつきながら起き上がり、フィリアは走り出す。
「猫じゃないよ虎だよ! 死ぬってこれ絶対わたし死んじゃうって!?」
重い威嚇の声が体に響いてきて、足が震える。
「は、あ……っ」
息を整えている間にも、虎の咆哮が空気を震わせている。
だが、それだけだ。爪を立てる事もなければ、飛びかかって来ることもない。
「あれ……さっきから、襲ってこない?」
「まさか、わたしの体力が回復するのを待ってくれてるの?」
そういえば、死にはしないと、シルヴァは言っていた。
「死なないとしても悪趣味だ」
フィリアの体力が回復したと判断したのだろう。虎が、フィリアに飛びかかってきた。
避けた拍子に、虎の爪が土を掠めた。軽く当たっただけのはずなのに、地面は深々と抉れている。
「爪鋭すぎるって怖いよ!」
ただ、虎の動きは単純だ。繰り出される爪の斬撃をかろうじて見切って、後ろへ跳躍。
「……虎から逃げながら、倒すための活路を探す?」
「いや、もし本当に殺されないならっ!」
人を殺さない虎。つまりそれは、人に慣れている可能性が高いということでもある。
だからフィリアは、真っ直ぐに虎の懐へと飛び込んだ。
逃げてばかりいたせいか、フィリアの動きは予想外だったらしい。虎が、わずかに怯んだ。
その隙を逃さず、フィリアは虎に手を伸ばして触れた――瞬間、視界が赤く染まる。
「……っ」
赤く点滅を繰り返す視界に、平衡感覚が狂わされる。
思わず虎に触れたまま膝をつけば、心配でもしているのか、虎がフィリアを見つめてきた。
視界が揺れて、意識が揺れて。
――気付けば、フィリアの視線の先に、膝をついた銀髪の少女が現れていた。それは、見紛う事無きフィリアの姿だ。ただ、薄紅色の瞳が色を深めて、紅色に染まっている。
その姿は鏡に映っていてるのかと錯覚するほど鮮明で、フィリアには何が起こったのか理解できない。
「な、に……今の」
前触れもなく元に戻った視界に安堵して、息をつく。
残ったのは、長い距離を走った後のような息苦しさ。心臓の鼓動は速く、耳の奥で脈打つ音が聞こえてきた。
「まさか」
目の前の虎。その瞳を通して、フィリア自身を見ていたのだとしたら。
「わたしの、異能……?」
虎が無言で見つめてくる。
もう虎にはフィリアを襲う気はないのだと、直感的に理解した。
「虎さん。わたしに異能があるかを確認するのが、あなたの役割だったんでしょ」
虎をなでつつ、フィリアはそう問いかけた。相変わらず、虎は無言である。
「意外ともふもふだ。……あ、ちょっと毛が硬めな気もする」
なで続けていると、虎が喉を鳴した。どうやら、もっと触れて良いらしい。虎の顎の下と耳の付け根の毛並みを堪能していると、不意に虎がごろりと、その巨体を横たえた。
――そう。シルヴァは、倒せば良いと言っていた。
「倒しましたよ、シルヴァさん」
虎の腹をさすりながらそう言えば、壁にもたれたシルヴァが、呆れたような顔をしていた。
「そんなやり方で倒したやつ、初めて見たんだが」
「そうですか」
「一応合格だ……ただ、これから私はお前の上司だ。お前の持つ異能の詳細が分からないと使い道に困る。もう一度異能を見せろ、フィリア」
「見せられないです」
「ついさっき、使っていたと思うが」
「異能使ったの、あれが初めてで……」
「使い方が分からないのか。なら、異能を使うところから始めた方がいいな」
「だが、その前に」と、シルヴァは前置きをして、百合の花束をフィリアに渡した。
「外出の許可を出そう。――行ってこい」
滅亡した村が、今どうなっているのか。それを知りたいというフィリアの願いを、きっとシルヴァは見抜いていたのだろう。
※※
「なんで虎ぁあ!」
虎の背の上で揉みくちゃになりながら、フィリアは疾走していた。
村までの道が分からないとシルヴァに告げたら、「こいつに乗れば良い。こいつなら道も分かるし、いざというときのボディーガードも可能だ」と笑みを浮かべた。その結果がこれである。
昼頃に出たはずなのに、見慣れた道が見えたのは、日が落ちはじめた頃だった。
「下ろして、虎さん」
そう言うと、虎は素直に止まり、フィリアを下ろしてくれた。
全てが燃えた村。その本来の姿は、もはやフィリアの中にしか残っていない。そして、記憶というのは日を追うごとに薄れていくものだ。
「忘れたくないな」
言葉が、虚空を彷徨って消えた。
焦土と化した村の道を一歩ずつ進む。虎は、ゆっくりとフィリアの後ろを着いてきていた。
この村がまだ燃えていた時は、心が逸っていたはずだった。なのに今、フィリアの感情は凪いでいる。
「気持ちが落ち着いてきた……ってことなのかな」
道を埋め尽くしていた村人の遺体は、もう残されていなかった。おそらく、フィリアが気を失っていた間に、シルヴァが動いたのだろう。
小高い丘を歩いていくと、孤児院にたどり着いた。
二階建ての孤児院の面影はどこにもなく、残っていたのは黒く焼けた骨組みと、外壁の石だけだった。
「……何もできなくて、ごめんなさい」
シルヴァに持たされた百合の花を孤児院の外壁に供え、フィリアは目を閉じる。目元が熱くなるのを必死に耐えた。
ここで泣くわけにはいかない。
フィリアは命を拾った。繋げられたから、拾えた。
彼らには命を繋げようとする意志と、願いがあった。だから、ここで泣くのは彼らへ対する冒涜に思えてならないのだ。
「――わたしは、忘れない」
呟きながら目を開いて、無理やり口角を上げた。
せめて笑っていたいと、フィリアは思う。だってここはフィリアにとって、幸せな場所だったから。
立ち上がって踵を返したフィリアを追うように、一陣の風が吹いた。乾いた風に乗って、百合の匂いがフィリアの鼻をくすぐる。
思わず孤児院の方へ振り向けば、焼け落ちた孤児院の中で何かが光っていた。
「ローレルが使ってた杖?」
黒色の杖が、差し込んだ太陽の光を反射して輝いている。見覚えのあるそれは、間違いなくローレルの杖だった。
手に取ってみると、小枝ほどの見た目に反して、ずしりとした手応えがある。
「……」
彼の残したものだからと、フィリアはそれを花束のもとに供えようとして――。
――生きろ、フィリア。
耳に、彼の言葉が甦った。それは、彼が燃える直前にフィリアへ託した願いだ。
「……ローレル」
まるで、杖こそが彼が生きていたことを――彼の勇気を示す証のようだと、フィリアは思う。
「ローレル。これ、預かってて良いかな」
問い掛けると、先ほど供えた百合の花が揺れた。
それはまるで、彼が「持ってけ」と言っているように思えて。彼らしいなと、思わず口元がほころぶ。
けれど。もう二度と彼と言葉を交わせないのが、悲しかった。