第十五話 誰が為の存在証明
「そろそろ、ロザージュ邸の敷地から出ますよ」
御者台から前を見据える少女がそう言ったのは、出発してから十分ほどたった頃だった。
「え、屋敷の門ってだいぶ前に通らなかったっけ。敷地広すぎない?」
フィリアの言葉に、少女が「そういえば……」と呟いてから、一瞬だけこちらへ視線を向けた。
「その腕輪、外してみてください」
少女が見ていたのは、どうやらフィリアが左手首につけている腕輪のようだ。
銀色のそれは、屋敷で目覚めた日にシルヴァから渡されたものだ。いわく、腕輪さえあれば身分が証明できるらしい。
「良いけど、いきなりどうしたの?」
黒髪の少女の言葉の意図は分からない。だがそれでも、彼女が悪ふざけをする人ではないのは分かっている。
だからフィリアは右手を銀色の腕輪へと伸ばし、外した。
――その、刹那。
景色が歪み、目の前に広がっていたはずの森が掻き消えた。
異変は、それだけに留まらない。今まで歩いていたはずの道が消え失せ、代わりに現れたのは深い谷。何もないはずの中空を、透明な橋でもあるかのように、馬車が走っている。
「な……っ」
下を覗くと、吸い込まれそうになるほど深い谷が視界に飛び込んできた。
これが現実なら、フィリアはとうに谷底へと落ちている。今、落ちていないということは、たしかに足場が存在しているのだろう。
身を乗り出し、深すぎて底の見えない谷を凝視するフィリアへ、少女が種明かしをするように言葉を紡いだ。
「この一帯には、認識阻害の障壁が張られているんです。障壁内への侵入を拒み、それを突破して敷地に足を踏み入れた者にはあり得ないものを錯覚させる」
「なにそれ怖い。早く出ようよこんなところ!」
「大丈夫ですよ。異能で認識を狂わせているだけで、ここはただの森の中ですから」
ここが森だというのは理解はしている。だが、それとこれとは違うのだ。一度覚えてしまった恐怖は、記憶を失いでもしない限りは忘れられない。
「……ちなみに、障壁の異能者が屋敷にいるの?」
そう問いかけながら、フィリアは異能者の正体を看破するために思考する。
黒髪の少女が言っていたから、この障壁が隔てているのは屋敷の敷地と外だろう。
そして、これほどの規模の障壁を常時展開しているなら、術者は相当な霊素を消費しているはずだ。
今屋敷に居るのはシルヴァのみだが、それだけでは彼女が障壁の異能者だと断定できない。
あとの屋敷の異能者は、アルセ、ブランシュ、黒髪の少女の三人だ。
ただし、今現在、黒髪の少女が異能を使えないのはフィリアも知っている事実。だから、黒髪の少女が術者だとは思えない。
それに、アルセの異能は未来視だと分かっているので、候補からは外れる。
「だとしたら、術者はブランシュ……?」
「いえ、障壁の異能が刻まれた霊鉱石を使っているだけだと聞きました。なので、屋敷に異能者がいるわけではありませんよ」
「わりと本気で考えてたのに……!」
まさか前提から違うだなんてと項垂れてから、フィリアは黒髪の少女に問いかける。
「それにしても、どうしてこんな大掛かりな障壁を?」
屋敷だけならともかく、周囲の森まで巻き込んで張られた結界。
「何百年も前に、当時のロザージュ家の当主が作り上げた障壁だと聞いただけで、理由までは分かりません」
「すごく怪しいよね、それ」
「疑わしいとは私も思います。今向かっている村も、あくまで隠れ蓑だそうですし」
「隠れ蓑? シルヴァさんって実は悪人だったりして」
少女が発した、不穏な響きのする言葉。それを繰り返したフィリアに、少女は「隠れ蓑と言っても、悪いことをしているわけではないですよ」と付け加えてから。
「……ロザージュ家は、居場所を掴まれてはいけないそうですけど」
「なおさら怪しいって」
シルヴァ・ロザージュ。彼女に関して、フィリアが知っていることは少ない。
フィリアに分かるのは、ロザージュ家の当主であることと――、
「――すごく高い鉱石を、使用人に渡すくらいのお金持ち?」
手に持った腕輪を空にかざせば、鉱石に当たった光が赤く反射する。さりげなく付けられた石は、間違いなく霊鉱石。
霊鉱石が高値の付く代物だとはブランシュの言だ。にもかかわらず、シルヴァはそれを、おそらく使用人全員に与えている。
「ほんと、シルヴァさんって何者なんだろう」
余程の秘密主義なのか、あるいは必要性を感じていないのか。
なんとなく後者のような気がして、屋敷に戻ったら最低限の報連相をシルヴァに頼むと決意。
食事の配膳ついでに話をしようと算段をつけるフィリアの横で、黒髪の少女は記憶を擦り合わせるように、顎を指先で触れてから。
「一応、公爵家の跡取りだとは聞いています」
「こ、公爵!?」
それはこの国において、王に次ぐ爵位だ。
シルヴァが公爵家の次期当主なら、彼女の底無しとすら思える財力も腑に落ちる。だが――。
「でも公爵家って、領地とか兵力をたくさん持っていたような……」
「ロザージュ家には兵力こそ相応にありますが、領地は小さいです」
「え、公爵なのに?」
「そもそも、公爵家になった経緯が特殊なんです。ロザージュ家の叙勲は、功績をあげたためだそうですから」
「功績……?」
「詳しくは分かりません。私が聞いたのは、ロザージュ家が、かつてこの国にとても大きな功績を残したとだけで。……昔の私なら、知っていたのかもしれませんけど」
少女が目を伏せる。彼女の美しさに翳りはないが、幾分か冷涼な気配が濃くなった。
どう振る舞えば良いか分からず、内心慌てた。
中空を渡る馬車に揺られながら、外したままの腕輪を手の中で回す。それから、意を決して口を開く。
「そう言えば、あなたは記憶を失ってからも使用人を続けてるんだよね」
「ええ」
少女はうなずいて、一瞬、ためらうように目線を下げた。
「あ、えっと」
話題の選択を間違えた。今更になってそう察したものの、出してしまった言葉は巻き戻せない。
狼狽するフィリアに、声を落とした少女が告げる。
「記憶を取り戻す手がかりが、あの屋敷にあると思うので」
その言葉には、確信めいた響きがあった。
「どういうこと?」
「私にあるのは一年前からの記憶だけで、それ以前の事は何も覚えていません。でも、だからこそ私は、思い出したいんです」
「……」
少女が、自らの願いを語るのは珍しい。
屋敷の中では、少女の過去については触れる者は誰も居ない。それが屋敷内の不文律だと、フィリアは知っている。
けれどその不文律は、少女の願いを削ぎ落とすことに他ならないのだろうと、ふと思った。
「アルセさんが私を相棒殺しと呼ぶのは、記憶を失う前の私が、屋敷にいた証拠のはずです」
黒瞳が、フィリアを見つめる。目の前の少女はきっと、何があっても諦めない。わずかな違和感を集めて、真実に昇華させられる人間なのだ。
「それで、屋敷に居るんだ」
「ええ。思い出さないと、私は前に進めないから」
会話が途切れ、静寂が落ちる。重い沈黙ではなく、心地のよい静けさだった。
底が分からない深い谷にすら見慣れはじめたフィリアへ、今度は少女が問いかけてきた。
「フィリアさんこそ、なぜあの屋敷に?」
「村を襲った人を、見つけられるかもしれないって思ったの」
「……見つけて、仇を取るおつもりですか?」
殺すのかと問われて、フィリアは手を止めた。
「そ、れは……」
殺したいとは思わない。けれど、だからと言って許せるわけではない。
考えが纏まらない。景色から色が抜け落ちていき、何かに侵食されているように手が冷えていくのを感じた。
「……。敷地から出たみたいです」
答えを出せないフィリアに、少女がそう告げた。
話題を変えられた瞬間、呪縛が解けたかのように身体中に血が巡りだして、景色に色が戻る。
「あ、地面がちゃんとある」
いつの間にか谷の上を渡りきっていたらしいが、振り返れば谷はまだ背後に広がっていた。
数十メートルあろうかという谷の横幅に身震いしつつ手元に視線を落とすと、右手の中で腕輪が光っていた。
「腕輪、つけないんですか?」
「あ、忘れてた」
「それは障壁に阻まれないための鍵なので、失くさないでくださいよ」
少女の言葉につられ、フィリアは腕輪を着けてから振り返ってみる。
先ほどまで見えていたはずの谷が消え失せて、のどかな森が広がっているだけだった。
「腕輪ってすごい……!」
――声を弾ませたのは、自らを恐れた道化だけだった。