第十三話 未来の任務
屋敷に来てから、数週間がたった。
「フィリア、この屋敷には慣れてきたか?」
食堂の椅子に座る主が、たずねてきた。退出の合図を待っていたフィリアは少し考え、シルヴァへ返答。
「慣れてきたと思います。わたし一人で食事を下げられるようにもなりましたし」
「……あいつとは、どうだ?」
シルヴァが指しているのは、きっと黒髪の少女の事だ。ただ、いち使用人の近況を訊ねるだけにしては、シルヴァの声は鋭すぎる。
「分からないことも教えてもらってますし、良好な関係を築けていると思います」
「ならば良かった」
シルヴァは続けて何かを発そうとして、ためらうように口をつぐんだ。彼女が本当に聞きたいことは、別にあるはずだと、フィリアはそう思ったから。
「まだ、あの人の記憶が戻る気配はないです」
「……そうか」
息を吐いて、シルヴァがフィリアから視線を外した。
彼女の瞳の中で何かが揺れ動いているのが見えた。思わずフィリアは背筋を伸ばし、シルヴァの言葉を待つ。
「明後日、任務に出てもらいたい」
切り出されたのは、予想の斜め上を行く提案だった。
「任務、ですか?」
思わず聞き返したフィリアに、シルヴァは頷いた。
「とある村まで、あいつと共に樽を運んでほしい」
「運びますけど、そこはかとなく嫌な予感が……っ。その樽、死体とか入ってませんよね?」
「中身は水だ。危険なものではない」
「水?」
「ああ。樽の水は祭事に使用する聖水でな、ロザージュ家の当主が代々その手配を担っている」
「次期当主たる私に役割が回ってきた。それだけの話だ」とシルヴァは続けて。
「この屋敷からだと、村まで行くには少し距離がある。宿代は支給するから、安心して行ってこい」
「分かりました」と返事をして、フィリアは食堂の扉でシルヴァに一礼。音を立てないよう気をつけて、食堂を出た。
廊下を足早に進んで、フィリアが辿り着いたのは厨房。調理器具の擦れる音と水の流れる音が聞こえて、フィリアは足を止めた。
――誰かが、厨房にいる。
気配を殺して、足音もおさえて、フィリアはゆっくりと厨房を覗いた。
見えたのは紺色の短髪。どうやら、厨房で調理器具を洗っているらしい。
「アルセ……?」
名を呼べば、彼は驚いたように肩を震わせた。
「すまない。少し、手伝いに来ただけだ。俺の午前中にやることはだいたい終わったからな」
だからといって手伝わなくとも、とは思ったが、気遣いはありがたい。布巾を取ってから、フィリアはアルセの隣に立つ。
「ありがとう」
「別に、礼が聞きたくてやってる訳じゃねぇよ。……そろそろ、任務に出るんだろ」
洗い終えた調理器具を差し出しながら、アルセがたずねてきた。かろうじて取り損ねはしなかったが、かなり危うかった。
「な、なんでそれを!?」
「お前が、ロザージュの分家に行っている未来が見えた」
「なるほど」
未来視の異能。アルセはその力で、来たる日を見たのだろう。考えながら、フィリアは調理器具を拭く。
アルセが赤い霊鉱石に手をかざし、水を止めた。一瞬の静寂に、アルセは声をひとつ低くして。
「……フィリア、死ぬなよ」
「水樽運びに行くだけでそれ!?」
たずねると、アルセは幽鬼めいた動きでフィリアに一歩近づいてきた。
「運んだあとがきついんだよ。寒すぎて」
表情は軽妙。しかして、アルセの声には一切のおどけはない。
今は夏だ。
外はうだるように暑かったのに、寒すぎるなんてことがあるのか。そんなことを思いつつ、フィリアは流すことに決めた。
「そ、そうなんだ。わたしたちは明後日に出るけど、アルセたちは屋敷にいるの?」
「いや、俺とブランシュは任務があるから居ない。……最近、きな臭い動きをしてる集落があるらしくてな。精霊と繋がってるのかを偵察しに行くんだ」
「アルセこそ死なないでよ!?」
フィリアの言葉に「おう」と応じた彼は、その端整な顔に笑みすら浮かべて。
「お前も頑張ってこいよ。あと、村の人の言葉を信じるんじゃねぇぞ。防寒関連とか本当にな」
「え、信じたらダメってそんな……」
たじろぐフィリアを、アルセは真っ直ぐに見つめてきた。
「忘れるな……地獄への道は、善意で舗装されてるんだぞ」
「どこの言葉!?」
アルセの話すことは、たまによく分からない。
※※
洗い物を片付けてからすぐ、フィリアはシルヴァの朝食を下げるべく、食堂の扉を前に立っていた。
木製のそれは、装飾が彫り込まれていて荘厳だ。ただ、大きさに反して軽く押すだけで開く。
開けるのに苦労した扉といえば、掃除用具室くらいなものだ。
思考を切り替えるために、呼吸をひとつ。それからフィリアは手のひらを軽く握り、ドアを叩いた。
「シルヴァさん、失礼します」
数秒待ってみたが、返事がない。
「シルヴァさん?」
もう一度呼び掛けたものの、やはり返事はない。
「まさか、何かあったんじゃ……」
食事の場で、シルヴァのそばに控えることは許されない。これはこの屋敷での不文律であり、使用人全員が守っていることだ。
だがそれは、食事中のシルヴァに何かがあった時、すぐに対処できる者が誰も居ないという事でもある。
迷っている暇はない。万一のために耳と瞳に霊素を込めて、フィリアは食堂の扉を開いた。
「……っ」
彼女の姿が、食堂のどこにも見当たらない。
長机の上に置かれた食器。それらはすべて空になっていて、ナイフとフォークが揃えて皿に置かれていた。彼女の居た形跡が残っていることに、とりあえず安堵した。
「食べ終わっては、いるみたいだけど」
吹き込む微かな風の音が、霊素で鋭敏になった耳へ届いた。見れば、開かれた大窓の白いカーテンが揺れている。
「まさかあそこから出たんじゃ……いや、さすがにないか」
次期当主とはいえ、シルヴァは実質的な屋敷の主。そんなことをせずとも、出入りは自由だ。
「なら、どこに?」
呟いた直後、硬質な何かが床を叩く音がした。独特の高音と音の間隔から、おそらく靴だろうとあたりをつける。
今聞こえたのが靴音だとしたら、間違いなく使用人の靴ではない。響いた音が鋭すぎるのだ。
現に、フィリアの支給されている使用人用の靴は、床を歩いてもさして音が出ないし、鋭くはない。
この音が出るとしたら、ハイヒールなどの先が尖った靴の可能性が高い。そして、それを履いているのは、この屋敷ではシルヴァだけだ。
となると、あとの問題は音の発生源だ。そう思ったフィリアは、音のした場所を目で辿る。
「食堂の壁の、向こう側?」
食堂の中央に配された長方形の食卓テーブル。
一番奥にあるシルヴァの席とほど近い壁から、あの靴音は聞こえた。白を基調にしたその奥からシルヴァの気配を感じて、フィリアは一歩ずつ足を進める。
「……私はまだ、あなたのようにはなれない」
漏れ聞こえたシルヴァの声は、少しだけ震えていた。
「――――っ」
なんだか、聞いてはいけないものを聞いてしまった。そんな気がして、フィリアは全速力で食堂から飛び出した。
荒ぶる息を押し殺しながら、フィリアは扉の横で深呼吸。
「少し、様子をうかがってから……」
頃合いをみて、何事もなかったように食器を片付ければ良い。その、はずだ。
瞳への霊素を切って、加減しつつ耳に集中させる。
しばらく息を詰めていると、重い何かが擦れているような音が耳に入ってきた。
そのすぐ後に椅子が引かれて、布ずれの音から、シルヴァが座ったのだと判断する。
廊下のカーペットのふかふかさを歩きながら味わって、何度か深呼吸。それから、フィリアは食堂の扉を叩いた。
「シルヴァさん、失礼します」
紡ぐ言葉をいつもと変えず、抑揚も、息の使い方だっていつも通りを装った。
「入れ」
その言葉を合図に、フィリアは扉を開く。室内に入り、閉じた扉から手を離して一礼。
「食事は済ませた。ありがとう」
食事のために結んでいたのであろう、牡丹色の長髪。それを解いた彼女が、フィリアにそう言った。
「これからも精進します」
シルヴァに答えながら、手に持った盆へと食器を移す。
廊下へ続く扉の前。残されたスープをこぼさないように気をつけて、礼をひとつ。それから、ゆっくりと廊下へ出た。
廊下を歩きながら、フィリアは考える。
――いまだ全容を掴めない屋敷の主。それに加えて、相棒殺しと呼ばれる少女の存在。
この屋敷は何かがおかしい。そんな疑念が、フィリアの中で確かに芽吹いた。