「三十になってもお互い独身だったら結婚しよう」と飲みの席で話していた幼馴染から婚姻届を突き付けられた
思い付き短編です。
タイトルまんまです。
どうぞお楽しみください。
「……そろそろ十二時か。では二十代最後の夜に、かんぱーい!」
「乾杯」
居酒屋『しゃくたば』の奥座敷で、水草日夫と勺束糸の器が、澄んだ音を立てて触れ合った。
「それにしても後何分かでばかりで俺達三十か。誕生日同じってのはまぁまぁ聞くけど、生まれた日が完全に同じってなかなかないよなぁ」
「そうだね。それで家もお隣なんて、何か物語みたい」
「これで高校も大学も一緒とかだったらそうかもしれないけどな」
「それでも家がお隣だし、お父さん同士もお母さん同士も仲良しだから、就職してからもよく会ったよね」
「職場が実家から三十分圏内だから、家を出る必要性がないんだよなぁ。糸は糸でこの店の看板娘だし」
「看板娘かどうかはわからないけど、お父さんの手伝いしながら料理の腕を磨くのは楽しいよ」
「大学の時のバイトも足したら十年以上だもんなぁ。板にも付いてくるか」
「うん」
そうこう話しながら器を傾けていると、日夫がセットしていた携帯のアラームが日付の変更を告げる。
「お、これで俺達三十だな。んじゃ改めて!」
「乾杯。……ふぅ」
器の中身を飲み干すと、糸は一枚の紙とポールペンを日夫の前に差し出した。
「ん? 何だこれ? 誕生日プレゼ……」
そこで日夫は固まった。
その紙には太い字で『婚姻届』と書いてあったからだ。
「え、な、何これ……?」
「婚姻届」
「あ、うん、そう、だな……?」
混乱した日夫が改めて見てみると、やはり紛れもなく婚姻届であった。
しかも『妻になる人』には『勺束 糸』の文字。
空白の『夫になる人』の欄に、日夫はどっと冷や汗をかく。
「……え? これって、その、……俺と糸が結婚するって事……?」
「うん」
恐る恐る聞いた言葉は、僅かな躊躇もなく糸に肯定された。
それにより、日夫の動揺は更に深まる。
「え、ちょ、いや、何で……?」
「だって五年前の誕生日に日夫と、『お互い三十まで独身だったら結婚しよう』って約束したから」
「えっ」
「えっ」
固まる空気。
張り詰める沈黙。
「……日夫?」
「いや、あの、あれは、その酔った勢いと言うか……」
じわりと糸の目に涙が浮かぶ。
「……え、私、もしかして勘違いしてた……? 日夫は私と結婚するつもり、なかったの……?」
「え、いや、その、それは何というか……」
今にも泣きそうな糸に、追い詰められる日夫。
(こ、これはどうしたら良いんだ!? た、確かにそんな事言った覚えはあるけど、酒の上での冗談と言うか……! でもそんな事言ったら糸は絶対泣く! だからって結婚……!? 確かに結婚はしたいし、今は彼女いないけど……)
その時日夫の脳裏に、これまでの糸との思い出が走馬灯のように流れた。
きょうだいのように、家族のように過ごした時間。
高校が別になった時に感じたほのかな寂しさ。
それでも日常的に会える確かに安らぎ。
そして今、目の前で自分と結婚を五年もの間思い続けてくれた現実。
「……糸」
「……」
「俺、五年前言った事、今まで忘れてた……」
「……」
「その時に言ったのも、その、冗談みたいなもんでさ……」
「……っ」
「でも今糸がその事を大事にしてくれてたって知って、何て言うかすごく嬉しかった……」
「……え」
「今までの事思い出したらさ、糸のいない人生なんて考えらんないなって思って……」
「……にち、お……?」
「こんないい加減な男だけど、これからすっげぇ頑張って糸を幸せにする。だから……!」
日夫は差し出された婚姻届に自らの名前を書き込み、糸に差し出す。
「これからよろしく頼む!」
「……うん!」
糸の涙は嬉し泣きに変わった。
「じゃあ今から出しに行く? それとも朝になってからにしようか? どっちにしても誕生日と結婚記念日が同じって素敵だよね」
「……まぁ、酒も入ってるし、明日……、いや、今日か。とにかく昼くらいでいいんじゃないか? 俺休みだし、ここも明日定休日だろ?」
「うん、わかった」
日夫の言葉に頷くと、糸は奥の襖を開けると布団を出し始めた。
「……あの、糸さん……?」
「ちょっと待っててね。すぐ敷いちゃうから」
「いや、あの、そうじゃなくて、何で店の奥座敷に布団があるんでしょうか……? そこ、予備の机と座布団しか入ってなかったですよね……?」
動揺のあまり敬語になる日夫に、笑顔で振り向く糸。
「だって一晩寝たら日夫の気持ちが変わっちゃうかも知れないから用意しといたの」
「用意しといたのって、これは……!」
そこに布団は一つ。
枕は二つ。
それが意味する事が、日夫の頭に血を昇らせる。
「……ま、待て! その前に糸の親父さんとかうちの親にも話しとかないと!」
「え? もう話済んでるよ?」
「えっ」
思いもしない言葉に、再び固まる日夫。
「お父さんにもお母さんにも、おじさんおばさんにも、去年の誕生日くらいから今日婚姻届出す話してるから」
「……え? あ! だから今年一年やたら六人での食事会が多かったのか! ずっとにやにやして、やたら糸との事聞いてくるから変だなと思ってたけど!」
「だから両家の挨拶的なものは終わってるの」
「……そう、か……」
日夫の身体から、一度は引いた冷や汗が再び吹き出す。
(これ結婚しなかったら勘当とか一発殴らせろじゃ済まないんじゃ……!? ならここで何もしないのもまずい、のか……?)
ごくりと鳴る日夫の喉。
しかしその首は大きく振られた。
(今の今まで糸との事をちゃんと考えてこなかった俺が、今欲望に負けて手を出すのは駄目だ! ちゃんと婚姻届を出してからだ!)
そう決めると、日夫は糸の両手を自らの両手で包み込む。
「……糸」
「え、何?」
「今夜のところは、その、このまま寝ていいか? ……そ、そういう事は、ちゃんと」
「うん。いいよ」
「えっ」
「って言うかもうお酒もないし、明日に備えて早く寝たいし」
「え、あ、うん……」
さらりと言われ、拍子抜けする日夫。
そんな日夫をそのままに、糸はさっさと布団に潜り込んだ。
「ほら早く寝よ」
「……あぁ」
「あ、電気消して」
「……おう」
日夫は言われるままに電気を消して布団に入る。
「子どもの時を思い出すね」
「そ、そうだな」
「でも今日からは夫婦なんだよね。何だか不思議」
「あ、そ、そうだな」
「じゃ、おやすみ」
「……うん、おやすみ……」
闇の中で二人の会話が途切れ、じきに寝息が部屋を満たして行った。
「……今日帰って来たら……」
こうして交際0日の夫婦が誕生したのであった。
二人は知らない。
五十年後、『金婚式と傘寿を同時に迎えたおしどり夫婦』としてテレビ取材を受ける事を……。
読了ありがとうございます。
なお、水草 日夫は漢を分解して作りました。
勺束 糸は約束を分解して作りました。
いい夫婦の日の前日に誕生日だったので、カッとなって書いた。
後悔? お袋の腹の中に置いてきちまったぜ。
お楽しみいただけましたら幸いです。