深緋色のおきゃくさま 壱
「お前はおしゃべりだな」
「そ、そうですか?」
湖鐘さまの話し相手、兼、お手伝いという役目を見出したわたしは、今朝からとにかく張り切っていた。
最初の勢いというのは結構大事だ。お役に立つという目標とやる気が何かの拍子にしおしお萎んでしまってはいやだし、とにかく思いついたことはすべてやってみよう……と……思ったのはいいのだけれど。
湖鐘さまにそう言われて、早くも萎んでしまいそうになっていた。
「……すみません…わたしがあれこれ話していると、作業に集中できませんよね……」
今日も朝から、湖鐘さまは母屋の縁側で矢を作っている。
昨日たくさん使ったから補充するためなんだろう。放った矢はあの青い炎で燃えてしまうみたいだから、消耗品だ。わたしも手伝えればと思ったけれど、慣れている湖鐘さまの手際は圧倒的に良くて入り込む隙間がなかった。
それで、ひとまずわたしの身の上話から始めることにしたのだ。
どういう経緯で花嫁になることに決まって、今日までどう過ごしてきたのか……。
「いや……僕はただ聞いているだけだから、別に良いのだが」
「じゃっ、じゃあ、耳障りでしたか!?」
「そういうわけでもない。大声の人間や粗雑な言葉遣いの人間は苦手だが、お前はそのどちらでもない」
湖鐘さまは淡々と矢羽を取り付けている。
「ただ、社に来る人間が僕にしていくのは主に願掛けや報告だから、途切れなくそれだけ話せる者は珍しいなと思った。それだけのことだ」
「あ……なるほど」
考えてみれば確かにそうだ。わたしも年に数度おじいさまたちに連れられて湖の主さまへの挨拶として社に行くことがあったけれど、そこで祈ったのは本当に挨拶だけだった。
納得していたら、湖鐘さまがふと「ああ、いや」と言って矢を置いた。まだ羽根は片方しかつけていないのに。
「一人、長話が得意な知り合いがいた」
顔を上げた湖鐘さまは、湖のほうを見て目を眇めた。何かに気がついたように。
首を傾げつつわたしもその視線を追って湖のほうを見た。変化は、その直後に起きた。
ぶく、ぶく。ぶくぶくぶく……。
湖からそんなあぶくの浮かび上がる音がし始める。
わたしは昨日のことを思い出しておののいた。あのぐるぐるとした渦巻きの中から現れた亡者の怨念を思い出したのだ。湖の変化といえば、前兆としてあのときに見た。
だけど湖鐘さまは、今度は大弓を手に取らなかった。
「……長話の得意な客が来た。お前と気が合うかもしれんな」
そんな小さな呟きだけを零して、動かなかった。
客? お客さま? ――と聞く間もなく、ぶくぶくという音はますます大きく間隔が短くなって、湖の中から何者かが浮上した。
水面に突如として現れたのは人影だった。
水しぶきが上がり、その音もするのに、不思議とそのひとの衣も髪も濡れていない。まるで薄膜に守られているかのように、水滴がそのひとを避けているのだ。
「よう! 湖鐘!」
まだ湖からここまでには距離があるのに、そのひとの声はよく通った。活発そうな、若者らしい声。
わたしは一瞬、そのひとがまるで火の化身なのではないかと妙な考えを持った。
湖鐘さまに親しげに声をかけるその男のひとは、燃えるような真っ赤な髪をしていたのだ。短く無造作に切られたその毛先がぴょこぴょこと遊んでいるから、火の粉を散らしながらゆらゆら揺れる焔のように見える。遠くからでも、大勢のひとにまぎれていても、間違いなくすぐに見つけられる目立つ容姿だった。
「湖鐘さま……あのお方は……?」
「前に話した、黄泉の番人だ。時々ここに来ては、自分が満足するだけ語り尽くして帰る。ほぼ奴の独り言だ。会話という形にはならない」
お客さまと言うわりに、あまり歓迎しているようには思えない言い方だった。
もしかしてあまり仲が良くないのかな。向こうはずいぶん気さくな感じで手を振りながらやってくるのに。
わたしがそう考えつつもさすがに聞けずに様子を窺っていると、こちらへやってきたお客さまは口を尖らせた。
「その言い方は酷くないかい。オレはいつでも話に割って入ってきて構わないと思っているのに」
「調子良く話しているところに水を差すような真似はしない。……普通そうだろう」
お客さまは耳がいいのだろうか。さっきのわたしたちの会話はけして大声ではなかったはずだけれど、彼には聞こえていたらしかった。
かといって、湖鐘さまもぶれない。仲の良さはともかく、少なくともそんな調子でやりとりできるぐらいにはお互い気心が知れているらしい。
体は湖鐘さまの前に立ったまま、お客さまが首をわたしの方にひねる。一瞬、まともに目が合ってしまった。
「で? その子が噂の女の子かい」
「どこの噂だ……」
「当然、黄泉の民だよ。昨日門越えをしようとした連中からざわざわ伝わって、オレのところまで届いたってわけ。あの堅物で石頭の湖鐘ちゃんが女の子を囲うなんてにわかには信じられなかったから、こうして見に来たんだけど」
なんだか珍しいものを見るようにじいっと見下ろされて、居心地が悪い。かといって視線を逸らすのも失礼にあたるだろうし、どうしたらいいんだろう。
困っていると、お客さまはくすりと笑った。
「いやぁ、急に来てじろじろ見られたら緊張するよねえ。しかもオレ、図体でかいしねえ」
ごめんね、と言って彼は少し屈んでくれた。
たしかに彼はわたしが立っていたとしてもぐいっと上を見上げないといけないほど背が高くて、湖鐘さまよりも大柄だ。六尺と二寸、いや三寸はありそう。腰に佩いている大きな太刀も、きっと軽々扱えてしまうんだろう。
「オレは輝千。この湖から繋がっている、裏側の世界——黄泉から逃亡者が出ないように見張る番人をしてる。力ずくで連れ戻さなきゃあいけないときもあるからこの通り鍛えてるけど、乱暴者ってわけじゃないから安心してほしいな」
「輝千……さま。あ、えっと、わたしは……」
貰ったばかりの名前を、さっそく名乗る機会が来た。
口に出すと胸にぽうっと明かりが灯った気持ちになる、わたしだけの名前。
「わたしは、翠蓮と申します」
「翠蓮。綺麗な響きの名前だ。あんたにとても良く似合っていると思うよ。どうぞよろしく」
輝千さまがにっと笑う。わたしも、自然と笑みが溢れていた。
湖鐘さまと出会ったときには出来なかった自己紹介を、今度はちゃんとすることができたのだ。
「しっかし、噂は噂だと思ってたのにまさか実在するとは。湖鐘は供物に生きものを寄越されても、困るから突き返すつもりだとか言ってなかったかい」
「ただ置いているだけだ。彼女が村に帰っても祖父に殺されるだけだと言うから」
「帰っても殺される? そりゃ穏やかな話じゃないな。いや、黄泉には肉親とやりあって来た奴らもいるんだけどさ、そういうひとこそ執念深く門越えをしようとするんだよねえ。オレとしては仕事が増えるから、湖鐘にちゃんと預かってて欲しいなあ」
一度目を丸くしてから、輝千さまはぺらぺらと喋った。
長話が得意と湖鐘さまがおっしゃったのは大げさじゃなさそうだ。立板に水を流すように言葉が次から次へと続く。
「あ、ごめんね、翠蓮。別にあんたが死んだあとに執念の塊に成り果てるって決めつけたいわけじゃないんだ。けどさあ、本当の本当に、多いんだよそういうの……」
後半はすっかり疲れ果てたような調子で言って、輝千さまはがっくり肩を落とした。感情表現が豊かで、湖鐘さまとはつくづく正反対な感じがする。湖鐘さまは〈静〉で、輝千さまは〈動〉ってかんじだ。
「大丈夫です、気にしてません。……大変なんですね」
「そう。そうなんだよ。家の中での立場だとか、跡目争いだとか。とにかくそういう理由が絡むと、人は鬼よりたちが悪くなる。……あぁ……翠蓮もきっとそういうのの犠牲になったんだね、可哀想に……」
喋っている間にだんだんと輝千さまの声は震えてきて、放っておいたら泣き出してしまいそうな勢いだった。本当に感情豊かなひとだ。ころころと表情が変わる。
「こんなにちっちゃいのに。いい子、いい子」
「わっ……あ、あの……」
大きな手にわしわしと髪をかき混ぜられて戸惑った。こわいひとではなさそうなことに安心はしたけれど、これはこれで読めなくて振り回されそうな予感がする。
可哀想にと言われると、いまいち実感がなかった。
恐ろしい目に遭ったのは事実だし、実家に戻れないことも……兄さまのことも気にかかるけれど、今はこのありえないことばかりが起きる新しい環境に慣れるのに追われているからだろうか。それとも心が家族のことを考えないように蓋をしようとしているのか、「可哀想」と言われるのはあまりしっくりこなかった。
「オレで良ければ愚痴を聞くからね。我慢せずに言っていいよ」
「……今愚痴を言っていたのは、輝千の方のように見えたが?」
「これからオレが聞くって話をしてるんだよ」
静かに湖鐘さまが指摘したけれど、輝千さまは揺らがない。
頭を思い切り撫でられたりほっぺたを両側からむにむにと触られたりするのに困り果てて、わたしは湖鐘さまに視線を送った。助けてください、と念じながら一心に見つめる。
一秒、二秒、しばらくそうしていると湖鐘さまはとうとう立ち上がってくださった。
「……そう睨みつけてくるな、穴が開きそうだ……輝千、そのあたりにしてやってくれないか」
腕を掴まれて無理矢理下ろさせられた輝千さまは、えぇーと不満そうに言いながらもそれ以上触ってはこなかった。
「痛かった? ごめんね、反省する」
「あ……えっと、びっくりしただけなので……」
「じゃあ次からは予告してから愛でるね。それでいいかな」
「えっ……は、はあ……」
表情豊かな輝千さまのしゅんとした顔や人懐っこい笑顔を見ると、どう答えていいか迷ってしまう。かなり気まぐれなひとだ。
ひとまず頷くと、輝千さまは嬉しそうに目を輝かせた。
「ありがとう! じゃあさっそく、仕切り直すね」
「へ?」
「いい子いい子!」
――取り決めどおりだから、何も言えない。
ふたたびわしわしされることになったわたしは、輝千さまの気が済むまでもみくちゃにされることになってしまった。