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ともしびの光

 夜がすっかり更けても、眠れなかった。


 朝にもなっていないような時間に起こされ、山中を追われ、気絶していた時間はあったものの体は疲れたと訴えている。

 

 恐ろしいことがいくつもあった。わたしを殺そうと追いかけてくる人たちに、兄さまがわたしを裏切った事実、そしてこの神域に来て見た、湖の奥深くにひそむおぞましい黄泉の怨念――。

 

「……だめ、考えないようにしないと……」


 でないと、ますます眠れなくなる。

 それはわかっているのだけれど、考えないようにと思うと余計に考えてしまう。頭の中に今日の出来事が次々よみがえってしまう。

 

「……」


 湖鐘さまにわたしの部屋としていただいた部屋は実家の離れより少し広くて、落ち着かない。

 なんだか暗い中に何かがひそんでいそうな気がしてしまって、わたしは早くに灯りを消してしまったことを後悔していた。


「……少し、外の空気を吸おう……」


 そうっと襖を開け、部屋の外に出る。

 外廊下の灯りも消していたはずだけれど、不思議と足元の木目がはっきり見えるぐらい明るかった。

 月の光が強いんだろうか。ここは湖のすぐ傍で、月が高く昇ればきっと水面がその光を受けて鏡のように輝くはず。そう考えて湖を見て、わたしは固まった。


 湖が光っていた。


 でも、月の光を受けているわけではない。湖が光っていた。青白い光が湖全体を包み、まるで湖面が燃えているかのようにゆらゆらと揺らいでいる。

 その上を時折ひゅっ、ひゅっ、と毬ぐらいの大きさの青白い光の塊が飛んでいく――。


「……!? ひ、人魂……!?」


 およそ頭の中で説明がつかない光景に、思わずあとずさってしまった。

 見なかったことにして部屋に戻ろうかとも考えたけれど、その部屋が恐ろしくて出てきたばかりだったことを思い出す。


 わたしは別に、朝まで部屋で震えていたいわけではない。

 それならばせめて今はっきりと目の前に見えているこの人魂(仮)の正体を明らかにしておこうと、光の塊が飛んできた方へわたしは足を向けた。



〇 〇 〇



 そこには、湖鐘さまがいた。

 また湖に向けてあの大弓を構えている。矢の先は何が塗られているのかはっきりと見えるほど青白く光っていて、わたしは人魂の正体を理解した。

 ほとんど同時に、わたしの気配に気づいたらしい湖鐘さまが大弓を下ろしてこちらを見た。


「……お前か。何をしている。眠らないのか?」

「あ……いえ……その、実は、眠れなくて……」


 怒られやしないだろうか。怒られなくても、呆れられやしないだろうか。

 おそるおそる言うと、湖鐘さまから返ってきたのは意外にも肯定だった。


「慣れない地に来て、そう図太く眠れるほうが稀有か。僕も久しく眠るという行為はしていないが、なんとなくわかる」

「……湖の主さまは、眠らずとも平気なのですか?」

「湖の番が眠っていたら話にならないだろう。それでも平気なようにできている。……最近は日中に微睡むことも増えたが。衰えているのだろうな、力が」


 湖鐘さまはそう言って、どこか自分をあざけるように薄く笑った。

 ……湖の主さまの力が衰えるなんて、わたしは一度も考えたこともなかった。わたしが幼いときから、ううん、それよりもずっと前から村で絶対的な存在と讃えられていた湖の主さま。きっとこれからも変わらないのだろうと思っていた。


「僕とて万能ではない。力は環境や、民の信仰心に左右される」

「そう……なのですか?」

「昔は氾濫や水不足の多かったこのあたりも、近頃は治水が進んで僕の力を必要としなくなってきた。そうすると、力はそのぶん衰える。もっとも、僕の帯びた最も重要な使命はこの湖の番だからな……なんとか凌がなくてはならないが」


 言いながら湖鐘さまは大弓に視線を落とした。

 つられて、わたしもそれを見る。とてもわたしでは引けそうにない大弓は、幾年も丹念に手入れをしながら使い込んできたように深みのある艶を放っていた。


「……僕の力を込めた特別な矢で湖を清めている、と言えばわかるか? そうして亡者どもを威嚇するんだ。こちらに来ようと思わせぬように」


 毎夜、湖鐘さまはこんなことをしているのだろうか。

 誰に知られることも、誰に感謝されることもなく。少なくともわたしは、湖の主さまの花嫁となるべく様々なことを勉強してきたのにも関わらず、その彼が具体的に何から村を守っていたのか考えることもなかった。


「湖の主さまは……わたしたちの知らないところで、わたしたちを守ってくださるのですね。わたしたちが考えているよりも、ずっと深い意味で。ありがとうございます……ありがとうございました? というのも、へんだし……」


 わたしは村の一員だった。……今はどうかわからない。

 だから感謝の言葉をどう言えば良いのか、そもそも言葉ひとつで片付けていい感謝なのか、すぐに答えを出せなかった。 そうしたら、そんな葛藤もすべて含めて湖鐘さまは受け取ってくれた。

 

「何でもいい。言いたいことは理解した。務めを果たしているだけのことに礼など期待していないが、言われて悪い気はしないものだな」


 ふっと湖鐘さまの口元が緩むのをわたしは見た。

 笑った、みたいだ。これをはっきりとそう断じていいのかは微妙なところだけど、はじめて笑った顔を見た。

 その表情はただ"良い"と言われるよりも強く、"良かった"のだとわたしに感じさせた。

 

 やがて穏やかに、湖鐘さまは切り出した。


「そういえば……お前の名前だが」


 わたしの名前。ないと言ったら考えておくと言ってくださった、例の件だ。

 そこで一呼吸おいて、湖鐘さまはまた口を開いた。


「スイレン、にしようと思う」

「……睡蓮? ですか?」


 聞き返したのはけして嫌だったからではなく、単純に確認したかったからだった。その響きがわたしの知るもののことを指すのか、違うものなのか。


 湖鐘さまは頷いた。

 頷いて、静かに視線を湖の東の方へと遣った。わたしも追いかけるようにそちらを見る。


「ああ。向こうの方に咲いている……白くたおやかな花だ。この巳鏡湖に根を張り生きていくお前にふさわしいと思う」

「……睡蓮……」


 月の光と湖鐘さまが今しがた放った火矢でぼんやりと遠くまで照らし出された湖の遠くに、言われてみれば白い花をつけた植物の群れが見えるように思えなくもない。きっと合っているだろう。


 睡蓮の花の群生地なら見たことがあった。知っているし――印象に残っている花だ。

 わたしがまだこんな事態になるとは知らず、湖の主さまにお会いする日に向けて胸躍らせながら刺繍していたもの。未完成のままで実家に置いてきてしまった僅かな心残り。

 ここで、湖鐘さまから、こんな形でいただけるとは思いもしなかった。


「ただ、字は少し変える」

「どういうことですか?」

「お前が母の形見と言って見せてきた翡翠の首飾りがあっただろう。だから、翡翠の翠をとって……翠蓮(すいれん)とする。誰かに聞かれることがあればそう名乗れ」


 名乗れと言いつつも、湖鐘さまは少し首を傾けてわたしの反応を窺うように黙った。

 もはや気に入る、気に入らない、どころの話ではない。この名前は、わたしにとってどれだけのものが込められた贈り物になるんだろうか。わたしだけの名前に、実家に置いてきてしまったものに、母との繋がりまで。この短い間に、どれだけ考えてくださったのだろう。

 ずっと書物の中でだけ知っていた湖の主さまは、そういう方だったのだ。


「……。はい! ありがとうございます、湖の主さま……!」


 わたしのほうは、心からの笑顔を見せられたと思う。

 そのぐらい嬉しかったのだ。こんなに嬉しかったのは、兄さまに無理を言って自分の部屋に自分のための裁縫箱を置くのを許してもらったとき以来だろうか。それ以上、今までで一番かもしれない。


「翠蓮」

「はいっ」


 呼ばれて、わたしは張り切って返事をした。

 初めて名を呼ばれて答える瞬間だからと、ちょっぴり声が元気すぎたかもしれない。

 だけど、咎められたのは別のことについてだった。


「僕は湖鐘と名乗ったはずだが。いつまで人の呼び名で僕を呼ぶつもりだ」

「……あ……っ、申し訳ありません、湖鐘さま!」


 慌てて言い直す。心の中ではちゃんとずっと湖鐘さまと呼んでいたけれど、さっきのはつい気持ちが昂っていつもの癖が出てしまったのだ。何しろ、つい今朝まではそう呼んでいたのだから。


 眉を寄せた湖鐘さまはまさに不機嫌のようにも見えるし、そうでもないようにも見える。普段からあまり表情がある方ではないようだから難しい。


「……これで、良いですか?」

「良い。その方が話し慣れている。黄泉路の番人も常蒼山の女神も、僕のことは湖鐘と呼ぶからな」


 周りにそう呼ばれているのなら、確かにわたしもそう呼んだほうが良いだろう。どう考えてもやんごとなき方々が連なる中で、ただの人間のわたしが同じようにしていていいのかという気後れはあるけれども。


「もしかして、たまの来客というのはそうした方々(かたがた)のことなのですか?」

「方々というか、二人だがな。わざわざ他人の縄張りに出向く奴はそういない。奴らが例外なのは、僕と縄張りが被っているからだ。とはいえ、用向きがなければ特に話すほどの親しさがあるわけでもないが……」

「……では、湖鐘さまは普段誰ともお話ししないのですか?」

「まあ、あまり」


 そのとき、わたしは(わたしなんかと比べちゃいけないのかもしれないけど)湖鐘さまに少しばかり親近感というものを感じた気がした。同じだったのだ。実家の離れに暮らしていたころのわたしは、用向きがあるときだけ訪れる兄さまがほとんど唯一の話し相手だった。

 少なくともわたしは、ひとりで過ごすことが苦痛なわけではなかった。でもやっぱり兄さまが訪ねてきてくださるとわくわくしたものだ。


 ほとんど自然に、わたしはこう口に出していた。


「わたしが……湖鐘さまの話し相手になるというのはどうでしょうか」

「……は?」

「それがこのお屋敷でわたしが出来ること、かな、と」


 わたしにはあんな大弓は引けないし、矢の先に青白い炎を灯すこともできないから湖鐘さまの務めのお手伝いはできない。まだこの屋敷の全てを覚えたわけじゃないから、お掃除を引き受けるにもモノの配置を間違えてはいけないので慎重にならざるを得ない。……そもそもあまり散らかっていない。

 そんなわたしでも、話し相手にはなれる。湖鐘さまが望むならという条件はつくけれど。


 湖鐘さまは少し考えていた。もしかしてわたしが兄さまとのお話を楽しいと思っていたのが変で、普通は話し相手なんていらないと思うものなのかと焦り始めたときに、頷いた。


「何をどうするつもりなのかはわからないが……ひとまず、好きにやってみろ」


 わたしはしばらく許可を与えられたことに気づけなくて、ぼうぜんとしていた。

 じわじわと気がついて、わたしは勢いよく頭を下げた。


「……ありがとうございます。頑張ります!」


 色々あって湖の主さまの花嫁にはなれなかったけれど、湖鐘さまの話し相手にはなることを許された。

 ずっとなかった名前を、いただくことができた。

 潰えたかと思ったわたしの運も、少しは良い方向に動き始めたんじゃないだろうか。


 その希望はともしびのように、わたしの心をぽっと明るくしてくれた。



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