守神のおやくめ 参
「あの……っ!」
姿が見えるところまで駆けていき、声を上げる。
開いた襖の向こうで何か手作業をしていた湖の主さまは、わたしのほうを見ないままに口を開いた。
「どうかしたのか」
「湖の…湖の様子が、なんだかおかしくて……」
ぴたりと手が止まった。
作りかけのそれを置いて、湖の主さまはかたわらの籠を掴む。そこには矢がたくさん入っていて、わたしはこのひとが今ちょうど矢に羽根をつけていたのだと理解した。
「わかった。すぐ対処する」
湖の主さまがもう片方の手で掴んだのは、近くの柱に立て掛けられていた大弓だった。彼の身の丈よりも大きい弓だ。
いったいなにが始まるんだろう。
「……まだ日も暮れないうちだというのに……」
すれ違いざま、湖の主さまがぽつりとそう零したのが聞こえた。
それからずんずん、わたしを置いて湖の方へ行ってしまう。
行くか、行くまいか、悩んだ。
でも結局好奇心には勝てず、後を追ってしまった。
○ ○ ○
お、お、お、お、お、お……。
湖に張り出した通路に戻ると、異様な空気はますます濃くなっていた。それに、人の低い声のような不気味な音が何重にも重なって響いてくる。
お、お、お、お、お、お。
お゛、おぉ、お……。
聞いていると不安になる音だった。
湖の主さまは気にした風でもなくどんどん通路を進んで行ってしまう。わたしは足がすくみそうになるのを我慢しながら後を追った。
こんなところで一人になるほうがよっぽど恐ろしいような気がしたのだ。
わたしのいた東の棟を通り過ぎて先に行くと、突き当たりに屋根付きの小さな物見台がある。
湖の主さまはそこに立つと静かに大弓を構えた。
何かを狙っている。
いったい何を?
「……ひっ」
弓矢が狙う先を見て、わたしはぞっとした。
例の水面の渦巻きの中心。それが、むくむくと盛り上がっていっている。桶に張った水を手でかきまぜたら中心は沈んでいくのに、まったく逆のことが湖に起きている。
いつのまにか水は澱んで暗く濁っていた。その向こう側でモヤモヤと何かが蠢いている――。
「――去れ。ここはお前たちの通る門ではない」
湖の主さまが、矢を放つ。
指が離れた瞬間、矢が青い炎に似たものを纏ったような気がした。
それはそのまま青い一条の光となって、人の背丈ほどにまで盛り上がりつつあった湖面の盛り上がりに命中する。
一つの大渦が引き裂かれるようにいくつもの小さな渦にわかれ、眩い光は波紋を広げるように湖全体へ伝わっていく。
そしていま、湖の主さまはまた別の矢をつがえた。
渦が小さく盛り上がるたびにそれを正確に射抜いていく。あの大弓を扱える剛力がどこから出ているのかも不思議ながら、蠢く渦を正確に狙えるその腕はかなりの名手だ。
わたしは呆然として、目の前の光景を棒立ちで見つめているしかなかった。動けなかったのだ。足がすくんでしまって。
何が起きているのかはわからなかったけれど、おそらく何かおそろしいことが起こっているのだろうという直感はした。
……でも。
「……綺麗……」
思わずそんなため息が漏れてしまうほどに、視界に入るのは神々しく美しい光景だった。
不気味な渦巻きと青く眩い光のぶつかり合いはしばらく続いたけれど、渦の方は弱っていく一方でやがて消えてしまった。
穏やかで澄んだ湖面がふたたび戻ってきて、あの奇妙な音も止んだ。澱んだいやな空気の代わりに、涼やかな風が通り過ぎていく。
終わったのかな、とわたしが感じるのと同時に湖の主さまが弓を構えるのをやめた。
「……諦めたか」
くるりと振り返り、わたしに気がつくと眉を寄せる。
「ついてきていたのか。僕が対処すると言っただろう」
「あ、その、気になって……」
湖の主さまは何か小言を言いたげに口を開いたけれど、やっぱり閉じた。それから、少しだけ表情を緩める。
「いや。……お前のおかげで早くに気がつくことができたのだから、礼を言わねばなるまい。助かった。むしろ恐ろしい場面を見せてしまってすまなかったな」
叱られることはなさそうだった。それどころか、謝罪までされてしまった。恐れ多い。
ただこの様子なら、今なら聞ける、そう感じ取って私は恐る恐る質問した。
「今のは、いったい何だったのか……聞いてもいいですか?」
あんな恐ろしいものをわたしは今まで見たことがないし、聞いたこともない。湖でそうした出来事がたびたび起こるのなら、おじいさまたちがもっと騒いでいそうなものを。
湖の主さまの答えは、はっきりとしていた。
「亡者だ。死してなお生者の世界に戻らんとする執念の塊。悪しき黄泉の穢れが怪物と化したものと言ったところか」
「亡、者……」
思わず、お守りの首飾りを握りしめる。
すると湖の主さまは首をゆるく振りながらこう付け加えた。
「言っておくが、全ての人間の魂がああなるわけではない。執着や、怨念……余程の悪い念がなければあのようなものには成り下がらないから誤解するなよ」
「は、はい! 良かった、です……」
首飾りを握りながらちらと頭をよぎったのは、母だった。
わたしが赤子の頃に逝ってしまったという、顔も知らない母のこと。もしかしてあの恐ろしい渦の中に……と一瞬怖いことを考えてしまったわたしは、湖の主さまのおかげで安心できた。
「この【神域】とお前たちの村のように、ここと別の空間には亡者の流れ着く場所がある。もちろん本来は棲むべき場所に棲むべき者がいるのが大原則だ。が……こうして禁を破り門を通ってこようとする場合もある」
「なら、いまのはそれを追い返したということなんですね」
「ああ。巳鏡湖という別の空間にも通じ得る門を守る門番……それが僕の役割だ。お前たちは単に村の守り神と言うが」
ごく自然と、わたしたちは村のある方向を見た。こことは同じようで異なる場所にあるというわたしの生まれ故郷。
そこではおそらく、今も変わらぬ日常がわたし抜きで続いている。
だけどそんな村の中のだれも、湖の主さまの本当のお役目を知らない。
知っている人間はわたしだけ。
ならわたしはここで、何ができるのだろうか――。