守神のおやくめ 弐
屋敷の中を自由に歩いて巡ってもいいなんて、実家じゃまずありえなかった。それはお祖父様の目が厳しいからで、だから私は離れを出たとしても兄さまの部屋ぐらいにしか行くことがなくて——。
「……兄さま……」
湖に張り出した外廊下から村のあるはずの方向を見て、わたしは憂鬱な気分になった。
湖の主さまの言う【神域】の中にもちゃんと空はあるし、風も吹いているし、鳥も鳴いている。だけど人が通りかかる気配はない。わたしの知る巳鏡湖の神社にはあるはずの村へ続く道や林を切り拓いた跡は、ここには存在していない。
知っているようで知らない、湖のほとり。
この場所は、たしかにわたしたちの住まう世界とは隔たれたどこかなんだと思う。
そう思うと気になるのが、わたしのいた世界でのわたしの扱いだ。
行方不明、神隠し? それとも素直に、死んだ扱い?
「……花嫁になれないわたしは、もう、価値のない子……」
欄干に手をかけて、湖を覗き込む。
そこには不安そうな顔をした自分が映り込んでいた。湖の主さまが身の安全を保証してくださった。この場所に留まっていても良いと約束してくださったのに、まだ私は安心しきれずにいると言うのだろうか。
おじいさまがわたしを殺せと命じた、それはとても悲しいことだけれど今思えばそうされてもしかたなかったのかもしれない。元々おじいさまに疎まれているのは、うっすらと感じていた。
言ってみれば花嫁という価値が、わたしの命をつないできたようなものなのだ。
でも兄さまは違う、きっと違う、そう思ってきたから――兄さまがわたしを騙して山奥に連れていったことが信じられなかった。
「……っ」
兄さまだけはわたしの味方でいてくれると思っていた。そんな甘えた私の頭は、まだ兄さまがわたしをおじいさまに引き渡そうとしていたことを受け入れられないでいる。
いくら後継の兄さまが現当主のおじいさまに逆らえないと言っても、抵抗ぐらいはしてくれたと信じたいのだ。
……そうでなければ、兄さまもわたしを殺そうとしたことになる。
わたしに裁縫や読み書きを教え、お話を語り聞かせてくれた親代わりのような兄さまが。
目の前はあっという間にぼやけた。もともと実家を離れるのは決まっていたのに、それがこんな形でだなんて思わなかった。
『……お祖父様の命令なんだ。悪いね、花嫁ちゃん』
おじいさまにきつく言われてしかたなくだと、あのとき兄さまは言った。信じたい。本当は、わたしを害そうなんて思っていなかったんだって。
だけど、兄さまはわたしの名前をただの一度も呼んでくれなかった。ずっと【湖の主さまの花嫁】として呼んできた。それだけは事実なのだった。
湖面に波紋が広がる。一瞬だけはっきりとものが見えるようになって、涙が湖に落ちたのだとわかった。
「……っ、うう……っ」
声を押し殺しながら泣いた。ひとの、しかも神さまのお屋敷で大声で泣くなんてあってはならないと頭ではわかっているのに。はしたないことだと、わかっているのに。
「……兄、さま……っ」
帰る場所がないことを思うと、どんどん悲しくなってくる。
大好きな兄さまを疑ってしまうのも、胸が痛くてつらかった。
いま、湖の主さまは中央にあるご自分のお部屋にいらっしゃるはずだった。ならば誰も見ていないのだから、涙を流すぐらい許されないだろうか。
ぽちゃん、と遠くから水音がした。
「……?」
何の音だろうと思ってそちらを見ると、湖の様子がおかしかった。
水面に立ついくつもの波紋。わたしが立てたものではない。それが重なり合って、渦を巻いて――次第に霧が立ち込め始めている。
あきらかに異常だった。
「これ、知らせたほうがいい……よね…?」
何かあれば呼べ、と言っていたのだから。わたしは慌てて涙をごしごし袖で拭うと、駆け出した。