守神のおやくめ 壱
ひとには必ず与えられているはずの、そのひとだけの名前。
わたしにとってのそれが何なのか、わたしは知らなかった。
兄さまは、わたしを“花嫁ちゃん”と呼んだ。
おじいさまはわたしを“神勅の娘”と呼んだ。
屋敷のほかの者たちもわたしを“お嬢さま”と呼ぶのみで、誰もわたしを名前らしい名前で呼ばなかった。
それほどまでにわたしの存在は、湖の主さまの花嫁であることにしっかり結びついていた。
唯一わたしを“花嫁”ではない名前で呼んだひとがいたとしたら、それは母だけれど……わたしに母の記憶はない。わたしが赤子のときに亡くなってしまったと聞いているから。
母とわたしを繋ぐ縁は、いまとなっては形見である翡翠の首飾りしかない。
だから、わたしはわたしの名前を知らない。
その手がかりすらも、知らない。
……お守りとしてつけてきた首飾りを見せながらそういう話をすると、湖の主さまはしばらく黙っていた。憐れむでもなく、一笑に付すでもない、よくわからない反応だった。
それから「では、考えておく」とだけ言って、話を屋敷の説明に移してしまった。
「まず……今自分がどこにいるか理解すべきだろうな」
彼が腕を横に振ると、触れてもいないのに襖が全て開け放たれた。
遮るものがなくなったことで、屋敷の様子がよく見えるようになる。見事な寝殿造り——都に住む貴族の方が建てるような大きなお屋敷——のようだった。それが、湖に張り出すようにして建っている。
「わぁ……!?」
悲鳴のような歓声をわたしが上げると、湖の主さまはどこか得意げに説明をした。
「この屋敷はお前の知る僕の社と同じ土地であり、異なる次元に位置する。つまりは【神域】と呼ばれる空間だ。本来人間が立ち入ることはできない」
「……じげん? しんいき……?」
「難しいか。なら……僕の力で保たれている、人間には干渉できない世界の巳鏡湖だと考えろ。仮に藤房がお前を亡き者にしようと考えても、奴はここを見ることすらできない」
むずかしく、なじみのない話だった。
けれど少なくとも、この場所が絶対に安全なのだということは伝わった。
湖の主さまは続ける。
「中央の寝殿は僕の居室、西の建物は来客用に使っている。お前に貸し与えるのはこの東の棟だ」
「ここは何かに使ったりしていなかったのですか?」
「物置だ」
「……物置……」
落ち着いて周りを見ると、たしかに部屋の壁沿いに寄せて米俵や酒の樽や巻物の類が積まれていた。物置だ。
今の今まで物置に寝かせられていたらしい……というのはなかなかに驚くべきことだったけれど、置いていただけるだけでも幸運だ。わたしはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「僕に捧げられた供物をここに置くようにしていた……が。山のようにあるわけでもないし、別の場所に移動させる」
そう言って、湖の主さまが指を鳴らす。
すると次の瞬間には跡形もなく壁際に積まれていた供物たちが姿を消していた。
「……!?」
「移動させただけだ。そう驚くな。生活に必要なものがあれば、あとでまとめて言うように」
何も特別なことをしたとは思っていなさそうな雰囲気に、わたしは今更のように目の前のこの男性がひとを超えた存在であることを理解した。
触れずにものを動かし、仕草のひとつで幻のようにものを消して移動させてしまう。それはこれ以上ない、彼が湖の主さまであることの証拠だった。
「あの……湖の主さま」
「なんだ」
「わたし、これからどうすれば……」
「好きにしろ。来客があるときはこちらで言う。そうでなければ自由に屋敷の中を動き回って構わない。よほどのことをしなければ僕は関与しない」
村に戻ってもいくあてがないけれど、ここにいても何かすることがあるわけでもない。
湖の主さまの様子を見ていると、やっぱり婚約をなかったことにしたのは変わらないようだった。
「そう……ですか」
花嫁として必要されていないのは、変わらない。
わたしは俯いた。
「何かあれば気にせず言って構わない。先に許可しておく」
「そんな、畏れ多いです……」
「変に遠慮をされて弱って死なれては、僕も気分が悪い。それに居候の人間ひとり満足に養えないようでは、僕の格も知れたものと他の神に笑われかねないからな」
「ほかの……? ほかの神さまもここに居られるのですか?」
部屋の外からは足音もしゃべり声もしない。同居するひとどころか召使いもいなさそうだ。
ほかの誰かがいる気配はないけれど、広い屋敷だからどこかにはいるのだろうか。
「いや、今ここにはいない」
湖の主さまは首を振った。
神通力でなんでもできてしまうなら、なるほどひとりでも問題ないのかもしれない。それならさっき話していた来客がそうだろうか。
「すぐ近くに棲まう例なら、常蒼山の女神。聞いたことはないか」
「……お山の?」
聞いたことがなかった。習ったのは湖の主さまの存在だけで、うちでやっている神事もおそらく湖の主さまに対するものだけだ。
それでも何かなかったかと考えてみる。だけど何も思いつかないまま、時間切れになった。湖の主さまが淡々と言う。
「その反応、知らないらしい。彼女も落ちぶれたものだ」
「あ……そういえば、兄さまと山を登ったときに小さなお社がありました! あの場所でしょうか」
なんとか思い出そうとしてひねり出したのは、まだ新しい記憶だった。どこまで行くのか不安になりながら歩いていたから、道中のことはよく覚えている。
夜の暗い中だと少し怖くも見えた、小さな社。あれは湖から離れた場所にあった。
「今となってはその程度だろうな。かつては僕の方が力の弱い若造と罵られる側だったのに」
湖の主さまはやはり淡々としていた。
今となっては。その言葉に、苔むして風化した古い屋根をはっきり思い出す。
「……それ……は……おじいさまが、その女神さまの祭事を執り行わないからですか」
「だろうな」
湖の主さまは短く言って、立ち上がった。
わたしには、それがどこかその話題から逃れるためのように思えてしまった。そんなことを考えるなんて失礼だとはわかっていたけれど。
「僕は自分の居室に戻る。何が必要かでも考えておけ」
「……わ、わかりました」
引き留めることなんて出来るはずもなく、わたしはただ頷いて湖の主さまを見送った。
これからどうしたらいいんだろう。
結局、その答えは出ないままだった。
湖の主さまのせいでこうなったとも言えるし——湖の主さまのおかげで助かったとも言える。でもどちらにせよ、花嫁が必要ないのは変わりない。
「……とりあえず、このあたりを見て回ってみようかな」
布団を畳み、着物を直して、立つ。
湖の主さまが「傷は直した」と仰っていたとおり、体にも着物にも傷や汚れは一切見つからなかった。
あまりに信じられないことばかりで夢を見ているような気持ちになるけれど、ものに触れたときの感覚は本物だし夢が醒める気配もない。
今後の方針は立たないまま、私はひとまず湖を見に行った。