わたしの名前
うっすらと、誰かに抱き上げられたのを感じた。
でも全身がじくじく痛くて、まともにものを考えることができない。
夢なのか、現実なのか。
それすらもわからないまま、わたしは再び意識を手放した。
○ ○ ○
「――おい、起きろ」
なんだか同じことを繰り返しているような気がする。
いや、違う。少し違う。
兄さまはこんな言葉遣いでわたしを起こそうとはしてこない。
兄さまは優しいのだ。優しくわたしを導いてくれるひと。おじいさまのように怖い命令なんてしない、優しい、ひとなのだ……。
「起きろと言っている」
揺さぶられて、ぱちっと目が覚める。
すぐ近くにあったのは、兄さまではない男のひとの顔だった。
「いつまで寝ているつもりだ。傷は癒したはずだぞ」
「は、い——!?」
びっくりして地面に寝たままびたんと体を跳ねさせてしまった。さながら、活きのいい魚のごとく。
いつの間にかわたしはどこか知らないお屋敷の一室で眠っていて、傍には知らない男の人が胡座をかいていた。
何が起きたのか必死に思い出そうとしてみるけれど、ここに至るまでの記憶が全くない。全然わからない。
困惑するわたしとは正反対に、そのひとは落ち着き払って言った。
「起きたか。娘、僕のことがわかるか?」
「……え、ええっと……」
「なるほど。混乱しているようだが、意識ははっきりしているようだな」
わたしの答え如何ではなく、わたしの反応を見て勝手に話が進んでいく。一を聞いて十を読み取ってしまうようなひとだと思った。
わたしにはいまの状況がさっぱりわからないけれど、このひとにとってはそれなりに理解が済んでいることなのかもしれない。
改めて見ると、本当に兄さまとは関係のないひとだった。
共通点といえば黒髪であることと背格好ぐらいのもの。それ以外の何もかもが違った。
神さまの花嫁となるため髪や肌の手入れには心を尽くすようにしてきたわたしが、それでも恥ずかしくなってしまうほどその人は美しかった。長く艶やかな髪、白く透けるような肌——顔立ちや体つきで男の人だとわかるけれど、村のどんな男の人とも違う。
何より目を惹いたのは、その黄金の瞳だった。秋の陽を受けてきらめく稲穂の色だ。豊作の年の田を思い出すような黄金。
このひとは……いったいだれ?
「……まったく。僕は断ったはずだが。かようにして寄越すとは、藤房の奴……何を考えている?」
まだ何も言えずにいるわたしの前で、その人はうんざりした様子でそう言った。
藤房。巽藤房とは、おじいさまの名前である。
大地主でありかつて朝廷にも出入りしていた経歴のあるおじいさまのことを、呼び捨てにできる人はほとんどいない。かといってこの辺りに同じ名前の人がいるとは聞いたことがなく、わたしは最初の質問をそれにした。
「あの……その、おじいさまをご存知なんですか?」
「知っているとも。あの男は昔から声が大きい」
すぐに男の人は答えた。昔からのお知り合い……とはいっても彼は兄さまと同じぐらいのように見えるから、もしかするとやんごとないご身分の方なのだろうか。
「何があった?」
「え……」
「何ゆえ、お前はここに来たのかと訊いている」
黄金の瞳を訝しむように細めて、彼は聞いた。
だけどそんなこと、わたしの方が聞きたい。わたしは気がついたらここにいたのだ。そもそも、ここがどこだかもわからない。
何も……わたしには何もわからなかった。
「……あなたは?」
「ふっ……質問に答えず、質問で返すか。なかなか度胸がある」
くすりと彼が笑うので、わたしははっとした。
聞かれたことに答えず逆に問いを返してしまうなんて、無礼なふるまいに当たる。
「も……申し訳ございませんっ」
「いや、いい」
慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げる。
大して気分を害したそぶりも見せず手を振って不問にしてくださったのが、幸いだった。
「……ですが、ここにいる理由なんてわたしにもわからないのです。わたしは、ただ……山の中を無我夢中で、走っていて……」
「山中を走る? 夜更けにか」
「お……おじいさま、が。わたしを、殺せと……わけもわからず逃げ出して……」
思い出すと今更おそろしさが込み上げて、声が震えてきた。
元々わたしにとっては怖いおじいさまだったけれど、その命令はあまりにも衝撃的だった。
思えば、何もかもおかしかったのだ。
誰もが眠る真夜中に起こされ、山の奥深くに連れていかれるなど。
兄さまが迎えにきたときに異変に気がつくべきだった。
「本人には直前まで教えなかったというわけか。つくづく、嫌なやり方だな」
「……あの……?」
呆れた風だった。このひとは、わたしが知っていること以上を知っているらしい。さっきと同じように、一を聞いて十を理解してしまうような。
説明を乞う気持ちで一度口を閉じると、彼は厳かに言った。
「先ほど、僕が何者かと尋ねたな。教えてやる。僕は湖鐘――お前たちがこの巳鏡湖の主と呼ぶ者だ」
「――え?」
しばらく、何も言えずまばたきをしていた。
湖の主さま。それは敬うべき村の守り神さまであり、わたしが嫁ぐ予定だったはずのひとだ。
信じられない思いで、わたしはそのひとを見つめた。
けれど、もたらされたのは無情な拒絶だった。
「だが……帰れ。お前は要らない。遥々死ぬ思いをしてこの神域を訪れたのが無駄足となるのは気の毒だが、このまま村へ帰す」
「ま――待ってください!」
これ以上話が続く前に、わたしは大声をあげた。
お言葉をさえぎる無礼はわかっていたけれど、抑えられなかった。
「あなたが……あなたが、湖の主さま……?」
「そう言ったが?」
「……あな、たが……あなたの、せいで……わたしは……」
すべては、昨日あの知らせがあったときから狂いはじめたのだ。
わたしは無我夢中で、心の中にわだかまっていたものを吐き出した。
「か……勝手です。あまりにも、あんまりな、仕打ちです……わたしは……わたしは、この婚約のために生かされてきたようなものなのに! おじいさまはきっと、わたしがもう要らなくなったから殺そうとしたのです。あなたが突然婚約を無かったことにしたから……!」
「……何? 婚約?」
口を挟まず聞いてくださっていた無情な神さまが、ぴくりと形の良い眉を片方上げた。
そんな、しらばっくれるような態度を取られても困る。
「あなたが昔、おじいさまにそう約束したのでしょう? わたし、そう教えられて……」
「……」
ふむ、と彼は黙って口元に手を遣った。
考えこんでいるようだ。それは本当に、本当に心当たりがなさそうにすら見える。
冷や水を浴びせられたような気分に、なった。
もしもの話、そもそも婚約が存在していなかったのだとしたら——。
「そ、それに、帰されても……行くところなんてありません。おじいさまの命令は絶対だから……わたしはこれから殺されるのです。きっと、山奥に埋められてしまうのです」
「待て。どういうことだ? 何を言っている?」
「……わたしは、あなたの花嫁になるものとして育てられました。その婚約が無となったいま、わたしに生かしておく価値などありません」
たとえおじいさまが勝手に仕組んだ婚約だったのだとしても。
このひとに非がないのだとしても。
もうわたしが慣れ親しんだ離れに帰ることはできない、それはひしひしと感じていた。あんな風に命令を下したおじいさまが、ふたたびわたしを屋敷に受け入れるとは思えない。
「ああ……つまり、僕にお前を受け取らない選択肢はないのか。なんてことだ……」
彼が額に手を当てて疲れたように息を漏らす。
それを見ていると申し訳なくなるけれど、わたしにももう選択肢がない。
やがて、結論が出た。
「仕方ない。今ひとまずお前の滞在を許す…………が、妻としてではない。お前にも、藤房にも、特別恵みを授ける気はないぞ」
「……わかりました」
布団の上に正座をして、深々とわたしは頭を下げた。
「ありがとうございます……」
かろうじて、生かされた。
それだけでも感謝しなくてはならない。
婚約についても、わたしの今後についても、霧に包まれたようにわからなくなってしまった。浮かんでしまった不安は晴れない。
これまで生きてきた意味などなにもないと言われて、生涯を閉じるのが——わたしは一番恐ろしかった。
「娘。……名は何と言う」
「はい?」
「お前の名だ。今後しばし共に暮らすのだろう。覚えてやると言っているのだが」
妻として迎えるつもりはないと言ったものの、少なくとも当面の間同居する者としては見てくれるらしい。
湖の主さまに名を覚えてもらえるなんて、とても名誉なことだ。
それはわかっていたのに、わたしは答えに困ってしまった。
「……どうした? 僕もお前に名乗ったぞ」
「あ……わたし、の、名前……は……」
答えられなかった。
ひとには必ず与えられているはずの、そのひとだけの名前。
わたしの“それ”が何なのか――わたしは、知らなかった。